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飄然草  作者: 千賀藤兵衛
第七部 棒つきアイスの巻き返し
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アパートで暮らすということ

 私の実家ではバターというものが日常的に食卓に上った。朝食が毎日パンだったので、トーストにバターを塗るのである。そのため、私は子供のころからバターというものにごく自然に親しんでいた。

 高校を出てアパートで一人暮らしを始めたときから、バターとの縁がふっつりと切れた。一人暮らしで数百グラムのバターを一本まるまる食べきるのは大変だからである。たまに帰省したときぐらいしかバターを食べなくなった。

 一人暮らしを始めて二十年以上が過ぎたある日、ふとバターというものを食べてみようと思い立った。それはもう、何のきっかけも脈絡もなく突然思いついたのだった。で、近所のスーパーで三百グラムのやつを一本買ってきた。トーストに塗ると、なるほどうまい。フライパンで溶かしてオムレツを焼いてみたりもした。これまたうまい。

 ただ、これはまったく予想もしなかったのだが、冷蔵庫からバターを出すたびにわが狭苦しいアパートの一室にバターのにおいが充満した。バターで炒め物なぞした日にはムッとくるほどのバタくささ。バターというものは一人暮らし用のアパート向きではないと思い知った。

 似た経験はほかにもある。あるとき私はふと玄米というものを食べてみようと思い立った。それまで玄米というものはほとんど食ったことがなかったし、まして自分で炊いてみたことなど一度もなかったのだが、何のきっかけも脈絡もなく突然思いついたのだった。で、近所のスーパーで八百グラム入りのを一袋買ってきて、炊飯器で炊いてみた。食ってみるとなかなかいける。

 ただ、これはまったく予想もしなかったのだが、玄米を炊くときにわが狭苦しいアパートの一室に糠のにおいが充満した。炊き上がった飯は特に糠くさくもないのだが、不思議と炊いている最中には相当なにおいがする。しかもそれがお世辞にも良いにおいとはいえない。玄米というものは一人暮らし用のアパート向きではないと思い知った。


 この手の経験でいちばんひどい目に遭ったのは、ある夏の夜に蚊取り線香を焚いたときであった。

 その夏はやけに蚊が多く、次から次へと屋内に侵入してはたらふく御馳走を飲んでいく。御馳走たる私はたまったものではない。ついに蚊取り線香とライターを買ってきて自室に設置し点火に及んだ。六本足の吸血鬼どもめ、覚悟しろ。

 ほどなく私はものすごく煙いということに気がついた。目がショボショボするし、心なしか部屋の中が白く霞んでいるようだ。おかしい。むかし祖父母の家で蚊取り線香を焚いたときはこんなに煙くなかった。

 よく考えてみれば、祖父母の家では十二畳間で蚊取り線香を焚いており、そのうえ他にも大きな部屋がいくつもあったのだ。ひるがえってこっちは六畳一間に猫の額のような台所がくっついているだけのアパートである。面積が違う。蚊取り線香というものは一人暮らし用のアパート向きではないと思い知った。

 一人暮らし用のアパート向きでないものは、まだほかにもあるかもしれない。アパートに一人暮らしの人間が引き継ぐことのできない文化というものがそこにある。


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