妻は夫に対して従順に振る舞う。 2
「私達の契約内容は、きちんと書面に残しておこう。今、近侍のユライに弁護士を呼びに行かせていてね。ランサス家の顧問弁護士で、私とも旧知の仲の信頼できる男だ。彼が到着したら、契約書に署名してもらいたい」
「契約書、ですか」
同じ言葉を繰り返すと、レオンヴァルトは軽く頷いた。
「こういったことは、あいまいにしておくべきではないだろう? 互いの求めることは明文化しておかなければ。今のところ、私から君に要求するのは先の二つの条件のみだ。もし君からも何か私に対して要求があるようなら、気軽に言ってくれたまえ」
彼の言葉に対するふさわしい返事は一つ。「要求など、そんな……。わたくしは、この家に置いていただけるだけで十分です」と、しおらしく目を伏せることだ。
しかしシャルリアは、強い瞳でレオンヴァルトを見据えた――――言えと言われたのだから、言うべきだ。
「では、二つほどお願いいたします。一つ目は、たとえ今後何があろうとも、レティラ家に金銭的な援助をしていただくことです」
「ふむ。なるほどね、いいだろう」
もしもランサス家が、大きく傾くことがあっても。いずれランサス家を継ぐクリスフィアが、シャルリアをひどく嫌っていても。
その真意が読めないレオンヴァルトではないだろう。それでも彼はあっさりと了承を示した。その口元は、愉しげな笑みを浮かべている。
「二つ目は?」
「わたくしを、この屋敷の女主人として認めてくださいませ。もちろん、クリスフィアさんの権利を侵害する気はございません。わたくしは、“貴方の妻”かつ“クリスフィアさんの母親”……“ランサス家の女主人”としての権利を得たいのです」
「……」
たとえば家政の取り仕切り。たとえば来客の接待。たとえば遺産の分配。ありとあらゆる面で、シャルリアが利用されるだけで終わることのないように、与えられるべき利益を主張する。
見え透いた、建前だけの妻。その名は甘んじて受け入れよう――――それでも、おとなしくしている気は欠片もない。レオンヴァルトがシャルリアを何かの隠れ蓑とみなすのならば、シャルリアはレオンヴァルトに頼るだけだ。すなわち、自分に許される範囲で自由を得る。
「そう心配せずとも私の妻は君一人だよ、シャルリア。およそ女主人の役割とされるものは、すべて君に任せよう。ただ、使用人達の言葉に耳を傾けるのだけは忘れないでくれ。特に女中頭のキュラス夫人や執事のヤーリッツは、君に適切な助言をしてくれるだろう」
「はい、心得ております」
言質は取った。実際に振るえる権限があるなら、それはもはや飾りではない。実態はどうであれ、シャルリアはランサス家の夫人なのだ。胸のつかえがとれた気がした。
「さてと。堅苦しい話はここでひとまず小休止としておこう。続きは弁護士が到着してからでいい」
「では、わたくしはこれで、」
「待ってくれ。時間はあるんだ、そう急がずともいいだろう」
下がろうとするシャルリアを、レオンヴァルトが止めた。これ以上一体何を話そうというのだろう。怪訝に思うシャルリアに、レオンヴァルトは悪戯っぽく笑う。
「私はまだ君のことを何も知らない。同様に、君も私について知っていることは一つもないだろう。だから弁護士が来るまでの間、しばらく君との会話を楽しみたいんだが……君はどうかな?」
*
「レオン様は、何のお仕事をしていらっしゃるんですか?」
「おや、そこからだったか。お父上からは何も聞かされていないのかい?」
「……ええ。その、資産家の方としか……」
我ながら馬鹿らしい質問だと思う。これから夫となる相手の職業すらもわからないなんて。これでは金目当てだと言っているようなものだ。
(でも、そんなことは今さらよね。だってこの人は、わたくしをお金で買ったんですもの。もしわたくしがお金に興味のない無欲な女なら、この人にとっては当て外れもいいところだわ)
仮にレティラ家の家計が逼迫していなかったら、シャルリアはこの結婚を受けなかっただろう。シャルリアにだって矜持はある。父も、幼いシャルリアの決意を尊重してくれたはずだ。
しかしそれは、ありえない可能性だった。現実は、訳ありの資産家がちらつかせた大金に目がくらんだ父娘がいるだけに過ぎない。
「何の仕事を、と言われても……一概には言いきれないな。もともとランサス家は、紡績業で財を成した家でね。曽祖父の成功があったからこそ、ランサス家の今がある。今もまだ事業としての紡績業は営んでいるけど……ただ、今となっては家業と言うほどではない。紡績以外にも、貿易やら鉱山やらと一族で手広く事業をやっているからね」
ソファに向かい合って座った資産家は、おもむろに紅茶の注がれたティーカップを手に取った。
「私個人としては、投資家を名乗っているよ。たとえばこの、帝国産のティーカップ。これは貿易商の叔父が仕入れてきたものだ。私は、彼の会社に出資していてね。そこ以外にも、いくつか経営に口を挟める会社がある」
この茶葉も、そういう商会が持ってきた物だとレオンヴァルトは言う。シャルリアも自分のティーカップを持ち上げて、澄んだ紅茶を覗き込んだ。
「ただ、投資はあくまでも私の趣味でしかなくてね。私が個人として出資している会社は、一族のものか個人的な付き合いのあるものだけだ。出資行為で利益を得たいわけではないから、投資が本職というわけでもない。だから人が私を称するときは、きっとこう言うのだろう――銀行家のレオンヴァルト、と」
金貸し。その言葉で真っ先に連想するのは、レティラ家が方々にした借金だ。しかし笑うレオンヴァルトには卑屈さや自嘲の類はない。
「金融業こそ現在のランサス家の家業さ。金を様々なところに融資し、回収した金をまた別のところに貸す。そうしていくことで経済は回り、成功を掴んだ者が富を手にするんだ。そして我が家も、そのたびに大きくなっていった」
その一方で、貴族達からは成金と蔑まれているとレオンヴァルトは肩をすくめる。
そのせいで、いまだ我が家は貴族嫌いが根強いのだと。顧客としての貴族は尊重しているが、わざわざ爵位を買って彼らと親戚付き合いをするなどまっぴららしい。だからランサス家は中流階級に甘んじているのだ。
「わたくしも貴族なのですけれど?」
「せめて貴族の姻戚がいないと、上流階級を相手にした事業にも限界があってね。個人の感情と実質的な利益なら、どちらを取ればいいかなどわかりきっているだろう? ……君の次に爵位を継ぐ者のあてがないなら、その地位はぜひフィアに。望むだけの金は払おう」
「あら、ご自分のものにはなさらないのですね」
「私がレティラ家の爵位を買ったところで、どうせすべてはフィアのものになる。なら、初めからフィアのものということにしてしまえば手続きが楽じゃないか」
家を乗っ取ると言い放ってもなお悪びれないその姿勢は、怒りを通り越していっそ称賛したいほどだ。
女性の爵位継承自体は法律でも認められている。娘しかいない場合、大抵の家は男児の養子を親戚筋からもらうのだが、一人娘を政略の道具として扱わずに後継者として育てる家もないわけではなかった。娘が才能にあふれているか、親がよほど娘を手放したくない際の措置だ。
しかしシャルリアは領主としての教育など受けていない。レオンヴァルトは少し勘違いしているようだ。父が没したら、土地や爵位は王家に返還するつもりだった。実際は平民の家に嫁に行くことになってしまったが。
「クリスフィアさんが継ぐころまでに、レティラ家が持ち直せばいいのですけれど」
「その心配には及ばない。シャルリア、君を買ったのは投資だけど……近々レティラ家には融資の話を持ち掛けたいと思っているからね」
「……その二つの違いを、うかがっても?」
これ以上何を搾取する気だ。警戒心をあらわにして問うと、レオンヴァルトは意味ありげに口角を吊り上げた。
「投資とは、私が私個人の判断で金を使うことさ。私の目的のため、私は君を買い上げた。多少損をすることになっても構わないという気持ちでね。一方で融資は、ランサス家として金になる事業の匂いを察したから行うものだ。家の金を動かすのだから、その額は私個人が動かせるものより莫大になる」
「レティラ家に、そのような価値があるとは思えませんが」
「それはどうかな。私の目には、金脈が眠っているように映っているが」
そう言って、レオンヴァルトは優雅に紅茶を飲んだ。
「時に、シャルリア。君は列車に乗ったことがあるかい?」
「列車ですか? いえ、一度もございませんが。カリア村の近辺では走っておりませんでしたし、遠方へ向かうにも馬車で足りますので」
聖シュテアーネ修道院からカリア村に行くのも、カリア村から王都に行くのも。移動手段はすべて馬車だった。
鉄道の駅がある街まで馬車で行って鉄道に乗り換え、また馬車に乗って目的地へ行くよりも、最初から馬車で行ったほうが楽だからだ。もちろんシャルリアの場合は乗合馬車かよくて駅馬車なので、辻馬車を使わない限りは結局乗り換えと徒歩での移動を余儀なくされるわけだが。
「そうだろう。列車は駅馬車よりも長い距離を早く走るが、道路さえあればどうとでもなる馬車と違って線路がなければただの鉄塊だ。運賃も安いとは言えない。都心ならばいざ知らず、田舎町でまで馴染みのある乗り物ではないだろう。……それでも私は、あの熱く冷たい鉄の塊が好きでね。決まった道を時刻通りに、何にも邪魔されずにまっすぐ進む姿は何より美しい。実は、私が今最も金を使っているのは鉄道業なんだ。ある会社に少なくない額を投資していてね。この計画が実を結べば、カリア村でも列車が身近な存在になるはずさ」
「はぁ……」
脈絡なく告げられた事業計画の意図がわからない。近くの街に駅でもできるのだろうか。
どうせなら、村に駅ができて村人が列車に乗れるようになってほしいものだが。シャルリアの興味なさげな返事にも気分を害していないのか、レオンヴァルトは微笑を浮かべたままだった。
「さて、多少私の話はした。次は君が話す番だ。君の好きな物や好きな色は? あののどかな村で、君はどんな少女時代を過ごしたんだい? あるいはお父上との思い出でもいい。シャルリア・レティラ、君のことを聞かせてくれ」
「……まるで、わたくしに興味があるような素振りですわね」
「私が君に興味がないとでも? とんでもない。取引先の情報は、なんだって欲しいものさ。それが契約に繋がるのだから。私達はこれから夫婦になるんだ。相手について学んでおいて損はない」
ため息をついて、一つずつ語る。
バラが好きで、華やかな赤が好き。嫌いな食べ物はこれといってなく、食べられる物なら大体なんでも食べられる。
物心ついた時から母はいなかったが、父が深く慈しんでくれたため寂しくはなかった。使用人は一応いたが、その数は年々減っていったし、そもそもしっかりしたものでもなんでもなく近隣の町の暇を持て余した主婦が手伝いに来てくれるというものだった。
刺繍をはじめとした淑女のたしなみは修道院で学んだが、本当は刺繍より縫物のほうが得意。村で暮らしていたころは、糸を紡いだり畑の世話をしたりして小銭を稼いでいた。山菜や茸、あるいは果実を採ることも多い。遊び相手は村人で、つんと澄ました見かけだけの令嬢はいつだって彼らに振り回された。旺盛な好奇心が災いして、山の中にある不気味な泉に辿り着いてしまったこともある。
シャルリアの話を、レオンヴァルトは真面目に聞いていた。少なくとも、そうあるように見えた。相槌を打ち、その時々で違った反応をし、話を掘り下げることすらした。その熱心さはとても金で妻を買った男には思えず、だからこそうさんくさい。見せかけの関心は、一体どこから来るものなのだろう。
「旦那様、グラディス先生がお見えになりました」
ドアをノックする音が聞こえてきたのは、シャルリアがあらかた話し終えたころだった。レオンヴァルトはゆったりと立ち上がる。
「では行こうか、シャルリア。結婚式は来週だが……これで、私と君は実質的な夫婦になるだろう」
「ええ。……どうぞよろしくお願いいたします」
おとなしく答えたシャルリアに、レオンヴァルトはどこまでも満足げだった。




