妻は夫に対して従順に振る舞う。 1
*
「シスター・シャルリア。ご結婚、おめでとうございます」
微笑んだのはエマリーだった。エマリーは、ブーケをシャルリアに差し出していた。
「貴方にふさわしい縁談だと思います。わがまま娘と変態男のお守りだなんて、女としての役目も果たせない貴方にぴったり」
枯れ朽ちた花のブーケ。顔を覗かせた蛆虫に、シャルリアは思わずそれを取り落とす。エマリーの微笑は崩れなかった。
「そうそう、わたくしも、もうすぐ結婚いたしますの。相手は侯爵家の嫡男で、とても素敵な方なのです。顔も、地位も、資産もありますもの。それに、あの方はわたくしにすっかり夢中で。わたくしがいなければ生きられない、だなんて、毎日のようにおっしゃるの」
シャルリアにないすべてを持つ少女は、劣等感を映す醜い鏡だ。これは彼女であって彼女ではなかった。吐き出される言葉は、シャルリアの心の底に眠るものに過ぎない――――それでも。
「実はもう、お腹に彼との子供がいるのです――祝福、してくれますわよね?」
*
自分の悲鳴に飛び起きた。荒々しく音を立てる心臓を必死で鎮め、額の脂汗をぬぐう。窓の外はまだ暗かった。
(ここは……実家でも、修道院でもないのね……)
ここはランサス邸の客室だ。およそ客を泊めるのに不足はなく、しかし生活感だけはない部屋。ベッドから起き上がり、シャルリアは小さくため息をついた。
時計は四時を示している。眠気はどこにもなかった。早起きは修道院の生活習慣のせいであり、悪夢のせいでもある。この時間では、使用人もまだ寝ているだろうか。
そっとベッドを抜け出して、手早くネグリジェから部屋用のドレスに着替えた。ドレスなど着慣れていないせいで多少もたつくが、一人でできないほどの物でもない。
「あら、奥様。おはようございます」
「おはよう……ええと、キュラス夫人……だったかしら」
周囲を見渡しながら屋敷の中を歩くシャルリアに声をかけてきたのは、ふくよかな中年女性だった。カロエッタ・キュラス、この屋敷の女中頭らしい。
「どうかなさいましたか? 御用があれば、ベルを鳴らしてくださればうかがわせていただきますが」
「目が覚めてしまって。朝食は何時なの?」
「休日は、旦那様とお嬢様は、いつも八時にお召し上がりになります。ですが、しばしお待ちいただければ、それより早く奥様のためのお食事をご用意することもできますが……」
「なら、そうしてくださるかしら。……レオン様も、クリスフィアさんの近くにわたくしがいないほうがいいでしょう」
クリスフィアはシャルリアに敵愾心を抱いている。シャルリアのほうでは特に気にはしていなかったが、それをレオンヴァルトがどう受け取るかわからない。危ない橋は渡らないに限るだろう。
「かしこまりました。では、朝食の支度が終わりましたらお呼びいたします」
カロエッタは一礼して去っていった。
屋敷の中や庭園を散策して時間を潰す。庭園の中にある、離れらしき屋敷にも人が住んでいるらしい。明かりが点いたり消えたりしているのが窓から見えた。使用人は地下階で暮らしているはずだし、レオンヴァルトの両親は引退して田舎で隠居しているという。一体、あそこには誰がいるのだろう。
(少しぐらいなら、大丈夫かしら)
朝露に濡れる芝生を踏み分けて、その離れの屋敷に向かう。本邸よりも二回りほどは小さいが、それでも十分立派な邸宅だった。
玄関に続く敷石の前でしばし佇んでいると、不意に木製のドアが開いた。小さな子供達がいる。小姓のギルと、女中の仕着せを着た少女だ。
「あれ? 奥様? どうしてこんなところに?」
「奥様ぁ? ああ、この方が」
仕着せ姿の少女は、ギルより少し年上に見える。ギルに似ているところからして、彼の姉か何かだろうか。
シャルリアの想像通り、「姉さん」とギルが少女をこっそりつついた。少女はシャルリアに向けてふわりと微笑む。
「初めまして。あたしはレーシャと申します。この通り、女中ではありますが、まだ見習いの身ですので、至らぬところも多々あると存じます。なにとぞご容赦くださいませ」
仕着せのスカートをつまみ、レーシャは優雅にお辞儀をした。その所作は子供ながらに美しく、シャルリアよりもよほど貴族令嬢らしく見える。姉弟そろって使用人離れしているようだ。
「初めまして。よろしくね。ええと、貴方達はこの離れで暮らしているの? それともここが貴方達の主な仕事場?」
「ここですか? ここは、旦那様の後援を受ける芸術家のたまご達の下宿先です。僕は姉さんのおまけで、こっちに部屋をいただいているんですよ」
「今ここには、ギルとあたしと、作家のお兄さんと、俳優のお兄さんと、彫刻家のお姉さんが暮らしてるんです。みなさん面白い方ですから、もし退屈なようであれば遊びにいらっしゃってはいかがでしょう。では、仕事がありますので、あたし達はこれで失礼させていただきます」
「あ、」
もう一度頭を下げ、レーシャは本邸へと駆ける。ギルもぺこりとお辞儀をして姉の後を追った。
「あの子達の才能って、なんなのかしら……」
レーシャの瞳は純粋なシアンだった。彼女は弟と違って魔人ではないようだ。魔人は遺伝的なものではない。ごく普通の両親から、ある日突如として変異した子が生まれるのだ。だから姉が一般人で弟が魔人というのはさほどおかしいわけでもなかった。
魔人であるからには、ギルには普通の人とは違う才能がある。この別邸は、レオンヴァルトをパトロンとする若い天才達が暮らす家だ。しかしここにギルが住んでいるのは姉であるレーシャのおまけだと言うなら、レオンヴァルトが目をかけているのはギルではなくレーシャなのだろう。レオンヴァルトはレーシャを、なんらかの卵として支援しているのだ。
(そういえば、レーシャも可愛らしかっ――ッ!?)
一瞬頭をよぎった嫌な想像を掻き消すように、シャルリアはぶんぶんと首を勢いよく横に振った。
* * *
「おはよう、フィア」
「お父様! おはようございます!」
席について新聞を読んでいると、ドアが開いて可愛い姪が現れた。シャルリアは早起きをしていたらしく、朝食はすでに済ませていたそうだ。
少し眠そうな顔をしていたクリスフィアは、レオンヴァルトを見てぱっと表情を明るくさせる。きらきら輝く瞳は、レオンヴァルトのそれより淡く優しいリラの色。それは姉の色でもあった。
「昨日、シャルリアに会ったんだろう? どうだった?」
「知りません!」
正面に座ったクリスフィアは、その名を聞くとたちまち表情を曇らせてぷいとそっぽを向いた。だが、その反応は予想できていたものだ。レオンヴァルトは苦笑し、朝食と共に給仕が運んできたカトラリーに手を伸ばした。
「何か意地悪はされなかったかい?」
「……されてはいません。まだ、ですけど」
白パンにバラのジャムを塗りながら、クリスフィアは小さい声で答えた。ベーコンを切り分けるレオンヴァルトのことを、うかがうように見ている。
「それなら大丈夫。きっと、これからもされないさ。だからフィアも、怖がらないでいいんだよ」
「……」
我ながら小さな子供に酷なことを言っているという自覚はある。この子供は、大人の女性に二度も裏切られているのだ。それも、レオンヴァルトが選んだ女性に。
それでも懲りずにレオンヴァルトは三人目の妻を連れてきた――――妻という存在がいてくれなければ、レオンヴァルトが困るからだ。
「新しく遊び相手のお姉さんができたようなものだ。その人と遊ぶか遊ばないかはフィアが決めることで、無理に仲良くしろとは言わない。だけど、もし遊ばないのだとしても、お姉さんに失礼なことを言ってはいけないよ。お姉さんが悲しくなってしまうからね」
「お父様が、そうおっしゃるなら……」
そう諭すと、クリスフィアはしぶしぶ頷いた。
(お父様、ねぇ。もう慣れたものだと思っていたけれど……この、ふとした瞬間に感じる違和感はぬぐえないな)
そう呼ばれるようになって早五年。このわけのわからない未知の生物に対して、だいぶ自然に笑えるようになったものだ。
小さな娘を遺して死んでしまった姉夫婦に代わり、父親役を演じきる。二十歳の時に突然課せられたその使命は、レオンヴァルトの人生に大きな影響をもたらした。
養子という存在自体は、自分の秘密を鑑みれば決して悪いものではなかったのだ。それに、レオンヴァルトが姉夫婦の子を養子にすべきだというのは、姉夫婦が存命の折から……クリスフィアが生まれる前から、父が口を酸っぱくして言っていたことだった。
レオンヴァルトとしてはどちらでもよかった。だが、父が望むならと姉夫婦はそれを条件付きで承認していた。我が子を手放して見ず知らずの他人に預けるのではないのだから、と。
だからレオンヴァルトも、最初からそのつもりだった。その養子縁組は、思いがけない形で成立することになってしまったのだが。
十九の時点で付き合っていた恋人とは、養女の存在について合意の上で結婚したつもりだった。彼女には自分の秘密をまだ伝えていなかった。それよりも前にクリスフィアを引き取ることになったから、これ幸いと婚約したのだ。クリスフィアは、秘密の隠れ蓑にうってつけだった。
けれど最初の妻は、あらゆる意味で好ましいと思った女性は、その美点がゆえにレオンヴァルトと対立した。だから別れ、その二年後に二人目の妻をめとった。
二人目の妻は見合いで知り合った。顧客の娘だが、どうやらレオンヴァルトのことが気に入ったらしい。彼女もまたクリスフィアの存在を受け入れてくれた。しかしそれはうわべだけのものだった。彼女は、レオンヴァルトに対して本気になってしまっていたのだ。二人の間の子を執拗に求め、邪魔者だとしてクリスフィアを虐待した。だから別れ、一年経ってようやく三人目の妻を見つけた。
三人目の妻、シャルリア。愛と金でも、愛だけでもなく、金のみで繋がった女性。しかしその繋がりこそが、レオンヴァルトが唯一信じる理想の絆だった――――だから今度は、失敗しない。
*
シャルリアはどうやら、レオンヴァルトと話す場を設けたがっているらしかった。レオンヴァルトとしても、彼女との結婚生活についてもう少し突き詰めたかったのでちょうどいい。
「おはよう、シャルリア。ずいぶんと早起きだったらしいね。もう少しゆっくり寝ていてもいいんだけど」
書斎を訪れたシャルリアに微笑みかける。シャルリアは硬い表情で頭を下げた。
「習慣ですので。どうにも身体が勝手に目覚めてしまうのです」
シャルリアを連れてきたメイドのメルツィスカが下がった。今、書斎にはレオンヴァルトとシャルリアしかいない。近侍のユライには、レオンヴァルトの旧友かつランサス家の顧問弁護士でもある男を呼びに行かせていた。
「それでは改めて、私達の結婚の話……これからの生活についての話でもしようか」
「……はい、お願いいたします」
細身のドレスに身を包み、小柄ながらも背筋をぴんと伸ばして立つシャルリアは美しかった。
永遠の少年のようにもあどけない少女のようにも、花開いた娘にも見える危うい均衡。そんな儚げな美の中で、右目の下の泣きぼくろと長いまつげに縁どられた垂れ目がちの青い瞳が妖艶さを添えている。少し前まで固い修道服に身を包んでいた貞節な淑女なのだと思えば思うほど、彼女の纏う妖しく背徳的な魅力が色濃くなっていくようだった。
最後に女性に触れたのはいつだったか。わずらわしいソレから逃れるように、心の中で舌打ちをする。鍛えられた笑顔の仮面は、その程度では剥がれなかった。
「私は、人形と結婚した。私の好きなように着飾らせて、私の好きなように連れ回せる、美しい人形とね」
それはレオンヴァルトの本心だった。
シャルリアという女性は、レオンヴァルトからすれば人間でもなんでもない。しかし、それはシャルリアに限ったことではなかった。
自分以外のすべての者……場合によっては自分自身ですらも、レオンヴァルトにとって道具にすぎない。クリスフィアを養育していることすら打算の内だった。
「同様に、君は金貨袋と結婚した。無限に金の湧き出る、世にも珍しい金貨袋だよ。好きなように使うといい。私の金は、君の金だ」
金はいい。何があっても金だけは裏切らない。
金さえあれば、この世のすべてが手に入る。金さえあれば、ありとあらゆるものが動かせる。国も、社会も、人の心も人生も。
だからレオンヴァルトは金をばらまく。使えば使うほど金は回り、さらなる利益をもたらしてくれる。最高だった。
「もしかすると私は、そのうち人形に愛着が湧いてくるかもしれない。君も、金貨袋の魔力に魅了されるかもしれないね。……それでも、私達の間にある約束が解消されることだけは決してありえない」
一つ、夫婦の子供は望まない。
一つ、レオンヴァルトの“娘”を傷つけない。
レオンヴァルトは一本ずつ指を立て、この結婚にあたる絶対の掟を繰り返す。それをシャルリアが反故にしたとき、この愛も思いやりもない結婚生活は破綻するだろう。
「ええ――承知しております」
シャルリアは、従順に返事をした。
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