夫は妻の衣食住を保証する。 2
「いやっ! いーやーなーのー!」
まっさきに耳に飛び込んできたのは、甲高い女の子の声だ。しかしその姿はない。
「じゃあギルも一緒にいて!」
女の子の声に、傍らのヤーリッツを盗み見る。ヤーリッツは申し訳なさげに眉根を寄せ、シャルリアに視線を移した。
「クリスフィア様です。奥様にご挨拶するはずだったのですが、奥にいってしまわれたようで……」
「大丈夫よ。あちらからすれば、わたくしはいきなりやってきたよそ者ですもの」
屋敷の者達の関心、今まで独り占めしていたであろう愛情。それらを奪いかねない相手に対して幼い敵愾心が燃えるのも仕方ない。実際は杞憂に過ぎないとはいえ、そこまで判断はできないだろう。シャルリアは軽く肩をすくめた。
そうこうしているうちに、奥の廊下から十歳ぐらいの少年と、彼の背に隠れる七、八歳ぐらいの少女がやってくる。あの少女がクリスフィアだろう。
「奥様、ようこそいらっしゃいました。僕は旦那様の小姓のギルと申します。もしご用があれば、なんなりとお申し付けくださいませ」
利発そうなその少年は、シャルリアを見上げてはきはきと喋った。
ギルの金の髪と褐色の肌は、この国では珍しいものだ。身なりのよさもあいまって、ただの使用人には見えない。おまけにそのシアンからエメラルドグリーンのグラデーションに染まった大きな瞳は、彼が魔人……生まれながらにして人智を越えた才を持つ特異な存在であることを示していた。
「さあお嬢様、ご挨拶を」
「……クリスフィア・ランサスです。はじめまして、お姉さん」
ギルにうながされ、クリスフィアはようやく口を開いた。おとなしそうな見た目の少女だ。けれど子供らしい丸みを帯びた頬は不機嫌そうに膨らんでいた。垂れ目がちの甘いリラの瞳はシャルリアを睨みつけるように見上げている。
「シャルリアよ。はじめまして。よろしくね……ええと、クリスフィアさん」
クリスフィアに視線を合わせるためにかがむと、クリスフィアは慌てたようにギルの背中へ完全にひっこんでしまった。そんな彼女の様子にギルは微苦笑を浮かべる。
「申し訳ありません。お嬢様は人見知りが激しくて。初めてお会いする方にはいつもこうなんです。どうかお気を悪くしないでください」
「ええ。こちらこそ、急にやってきてごめんなさいね。驚かせてしまったでしょう。でも、仲良くしてくれると嬉しいわ」
「……なかよく? どうやって? リガレータさんとヘレニアさんも同じことを言いました。……あの人達、だいきらい! どうせお姉さんも、すぐにお父様を怒らせるんだわ!」
「フィア!?」
クリスフィアはべぇっと舌を出して駆け出してしまう。ギルが慌ててそのあとを追った。子供達の背中を目で追って、ヤーリッツはやれやれとため息をつく。
「旦那様の前の奥方達は、お嬢様に対して……その、少々酷な仕打ちをなさったんです。それゆえ、お嬢様は旦那様の奥方となる方を警戒していらっしゃるようで」
「レオン様は、それでも結婚を諦めなかったの?」
「上流階級の方々とお付き合いするうえで、パートナーがいないというのは肩身が狭いことですから。それに、旦那様には妙な噂もございます。それを払しょくするためにも、妙齢の女性を屋敷にお迎えせねばならなかったのです」
妙な噂とは、小児性愛のことに違いない。
確かにあの少女は綺麗だ。きっと美人に育つだろう。たとえ幼女趣味でなくても、幼いうちから囲っておいて損はないと思わせる程度には。
レオンヴァルトの血縁だけあって整った見目には彼の面影があり、髪や目の色も似ているが、勝気そうな顔立ちの彼とは雰囲気が違う。おっとりしていて柔らかい印象のクリスフィアは、母親似だと言い張らなければあまり父子に見えないかもしれない。いや、見えたところで実子ではないという点だけあげつらい醜聞をでっちあげようとする輩もいるのだろうが。
「クリスフィアさんは、お父様似だったそうね。どんな方だったのかしら」
「ええ、お嬢様はダンヴィー様とそっくりです。ダンヴィー様は芸術家で、新進気鋭の若手画家として評価されていらっしゃいました。これからというところで、お亡くなりになってしまわれたのですが……」
暗い空気を振り払うように、ヤーリッツは数度咳払いをする。「こちらです」にこやかに微笑みながら屋敷の案内をしようとする老執事に、シャルリアも口をつぐんでそのあとをついていった。
*
「ここが奥様のお部屋です」
屋敷は三階建てだ。一階は共用の空間、二階は来客を通せる空間、三階は私的な空間。地下階もあり、そちらは住み込みの使用人達が生活したり倉庫として使われたりしているらしい。シャルリアの部屋として案内されたのは、三階の角部屋だった。
ヤーリッツがドアを開ける。そこには、何もなかった。
大きな窓がひとつあるだけで、その窓を覆うカーテンすらない。むき出しの床はどこか寒々しささえ感じられた。けれどシャルリアはひるまない。この部屋がシャルリア好みの内装になるまで、二階の客室の一室がシャルリアの仮住まいになると聞かされていたからだ。
「広くて素敵ね。窓からは庭が見えるし、気に入ったわ」
芝生の整えられた庭園の花壇には季節の花が咲いている。設置された木製のブランコはクリスフィアのためのものだろう。この屋敷には、子供の好きな腕のいい庭師がいるに違いない。
「調度品やお召し物については、後日旦那様が手配なさるでしょう。旦那様は多忙な方ですが、明日は休日ですから時間も取れるはずです。明日のお召し物については、大奥様のお若い時のドレスやアンネリッサ様……旦那様の姉君のドレスがございますので、ご心配なく」
「わかったわ。ありがとう、ヤーリッツ。それじゃあわたくしは少し休むから、食事の支度ができたら呼んでくださるかしら。着替えの手伝いは必要ないわ」
「かしこまりました」
客室に通されると、ヤーリッツは心得たように下がった。一人になったシャルリアは、外出用のドレスをさっさと脱いだ。着慣れた部屋着のワンピースに着替えてベッドに倒れ込む。糊のきいたシーツで覆われたマットレスはシャルリアの全てを受け止めてくれるように柔らかかった。
(これが、ランサス邸……)
レオンヴァルトは仕事と家庭を両立したがる人間で、けれど恐らく彼の“家庭”にシャルリアは含まれていない。
クリスフィアは可愛らしいが気難しくて、最初からこちらに敵意を持っている。あのギルという小姓がうまく間に入ってくれなければ、会話もままならないかもしれない。それならそれで互いに干渉しなければいいだけの話だ。
孤児院にもああいう子供はいた。修道女や年長の子供に構ってほしくて、後から来た小さな子を目の敵にするのだ。シャルリアがその可愛らしい嫉妬の対象になるのは自然のことで、しかしそれは無意味だと言わざるを得ない。あの男は、この屋敷のあるじレオンヴァルト・ランサスは最初からシャルリアのことなど歯牙にもかけていないだろうから。
シャルリアにとって幸運なのは、使用人達にシャルリアを冷遇する兆しがないことだろう。彼らがシャルリアに対して敬意を払っているというのは、その眼差しやしぐさでわかる。まだ多少警戒されている節はあるだろうが、無条件に拒まれているわけではない。きっとシャルリアがレオンヴァルトの妻としての条件を守り続ける限り、使用人達は忠実に仕えてくれるはずだ。
長旅にもまれ、新しい環境に放り込まれた疲れから目をそらすように枕に顔をうずめる。まどろみの手に身をゆだね、シャルリアはそっと瞳を閉じた。
起こしに来たのはメルツィスカだ。彼女の手を借りて身支度を整える。髪をとかすぐらい一人でもできるのだが、メルツィスカの仕事を奪うのも忍びないとされるがままになっていた。
一階の食堂には、クリスフィアがちょこんと腰掛けていた。シャルリアに気づいたクリスフィアはぺこりと頭を下げるが、口を開く様子はない。シャルリアも無言で会釈をして、六人掛けの長テーブルのうち女主人が座るにふさわしい位置に座った。クリスフィアの斜め前だ。シャルリアの隣、クリスフィアの目の前はきっとレオンヴァルトの席なのだろう。
給仕をしてくれるのは二人のメイドだ。彼女らの手によって料理が運ばれてくる。キノコとクリームソースのステーキ、玉ねぎのキッシュとかぼちゃのポタージュ。共に出てきたのはふかふかの白パンだ。初めて食べるその夢のような柔らかさに、たちまちシャルリアは虜になった。
(これが白パンなのね。エマリー達が黒パンに文句をつけるのもわかる気がするわ。……お父様も、これを食べられるようになれるのかしら)
実家にいたころはもちろん、聖シュテアーネ修道院でさえ固い黒パンしか出たことがない。シャルリアにとってはあの固く酸っぱいパンこそ当たり前の食べ物だ。だが、一度白パンを食べてしまうともうあの味には満足できない気もした。
とはいえ、黒パンだってスープにひたせば柔らかくなるし、固いため長期の保存もきいて栄養もある。あれはあれでおいしく素晴らしい食べ物だったのだが。
こりこりとした触感の、風味豊かなキノコの味わいに舌鼓を打ちつつステーキを切り分ける。肉料理なんて口にしたのはいつぶりだろう。絡みつくように濃厚なクリームソースに、シャルリアはすっかり魅了されてしまった。
キッシュとポタージュも平らげ、ワインを口に運ぶ。甘みの強い白ワインだ。あまり酒をたしなまないシャルリアでも飲みやすい。心地よい満足感にひたっていると、食後のデザートが運ばれてきた。モンブランだ。
優しく繊細なその味はクリスフィアの心も溶かすらしい。頬が緩んでいるのをシャルリアに見られるたびはっとなって真面目な顔をし、また一口モンブランを食べて瞳を蕩かせてはきりっと表情を繕って……というのをずっとやっている。
どうやらこの少女は、シャルリアの前では付け入る隙のないよう振る舞いたいようだ。思わず微笑むと、「何か文句でも?」と言いたげな目で睨まれてしまった。こんな小さな子供がすごんだところで迫力などちっともないが。
会話らしい会話は一言もないまま食事を済ませて湯浴みに向かう。二階のバスルームは来客用らしいが、今は来客らしい来客などシャルリアしかいないのでありがたく使わせてもらうことにした。
大理石の浴室に置かれた大きくゆったりとした猫足のバスタブにはなみなみとお湯が張られ、湯船にはバラの花びらが散っている。実用性のほどはシャルリアにはわからないのだが、まるで本物の“貴族のお姫様”になったようで気分が高揚した。シャルリアは貴族の娘であり、ランサス家は中流階級の家庭だ。本来ならそんな感覚になるほうがおかしいのだが、それでもこれはシャルリアにとってははじめての贅沢らしい贅沢だった。
「わたくしを金で買うだけのことはあるようね……」
ほのかに香るバラの香りを楽しみながら、手のひらでお湯を掬う。
金で買われたお飾りの妻。レオンヴァルトの富を誇示し、レオンヴァルトの正当性を主張するためのアクセサリー。その屈辱さえ甘んじて受け入れれば、シャルリアは幼い日に夢見た“お姫様”になれるようだった。




