締結日から発効し、半永久的に有効とする。
列車が停まった。カリア駅に着いたのだ。“蒼穹の女王”の名を持つこの列車は、いつ利用しても快適な旅をシャルリア達に約束してくれていた。
忘れ物がないか確認し、レオンヴァルトの手を取って客室を出る。先頭を行くのは、真新しい白の帽子を被ったクリスフィアだ。
クリスフィアの帽子は、彼女のお気に入りのものだ。あしらわれた繊細なレースと花の飾りが愛らしい。ジューエという新進気鋭の若手デザイナーが手掛けたもので、彼女のブランドはシャルリアも愛用していた。
今年で十七歳になる彼女は、もう滅多なことではシャルリア達と手を繋ぎたがらなくなった。それに一抹の寂しさはあるものの、悲しくはない。
何故なら、それはあくまでも年相応の反応であってクリスフィアがシャルリア達を本気で厭っているわけではなかったし、なにより成長の証のように感じられたからだ。
「お嬢様、風が少し強いようですからお気をつけて。せっかくのお帽子が飛ばされてしまいます」
「その時はギルが取りに行ってくれるんでしょう? 貴方なら、どこに飛ばされたかも予測できるわよね?」
荷物を運ぶギルがクリスフィアに声をかけると、クリスフィアは澄まし声で応じた。ギルは苦笑しながら肯定している。
寄宿学校に通いだしたとき彼は小姓の仕事を辞めた。今の彼は大学生で、あくまでも離れの屋敷で暮らす書生だ。だが、雑用をこなすという意味ではどのみちやっていることはあまり変わらなかった。
男子生徒と女子生徒で学舎の違いはあったが、クリスフィアとギルは同じ寄宿学校に通っていた。在学期間が重なっている間は、そこでも何かとクリスフィアの世話を焼いていたらしい。人に仕えるのが性に合うのだろう。あるいは、相手がクリスフィアだからかもしれない。
「お父様、お母様。早くしないと置いていってしまいますよ?」
「慌てなくてもホテルは逃げないわ。走って転ばないようになさい」
「シャルリアの言う通りだ。それに、迷子にならないよう気をつけたまえよ」
「もう! お父様もお母様も、わたしはそんな年ではなくってよ」
クリスフィアに続いて駅舎を出る。
シャルリアを出迎えたのは、シンプルながらも気品のある服装に身を包んだ老紳士だった。シャルリアの父、レティラ伯爵フェルストだ。髪こそすっかり白くなっているが、溌溂とした笑みは年齢を感じさせない。
「今年もお前に会えて嬉しいよ。レオンヴァルト君もクリスフィアちゃんも、よく来てくれた」
「お父様! お父様もお変わりないようで安心したわ」
「お久しぶりです、お義父さん。お元気そうでなによりです」
「光栄です、おじいさま。今年もよろしくお願いいたします」
クリスフィアの通う寄宿学校が秋の中休みに入ると、レティラ領に旅行に行くのがランサス家の恒例行事になっていた。
宿泊自体はホテルを取ってあるが、レティラ邸にも何度か寄る予定だ。今のレティラ邸は、幽霊屋敷のようだった面影など見る影もなかった。広く立派で、どんな賓客をもてなすのにも不足はない。
当然レティラ領も、かつての寂れようから一転して発展を遂げていた。今のレティラ領は、王族も頻繁に足を運ぶような人気の観光地だ。
手頃な価格帯の宿も多いため、階級を問わず観光客が集まってくる。特にレティラ領でも指折りの高級ホテルに泊まるのは、富裕層にとって一種のステータスになっていた。
観光の目玉はもちろんバルエ山の温泉だ。レオンヴァルトが何年もかけて調査していた甲斐はあったようで、彼の見立て通りバルエ山の野湯はいくつもの貴重な成分を含む稀有な温泉として国内外に知れ渡っていた。湯治のために訪れる浴客も多い。
今のレティラ領は、観光業によって成り立っている。かつての何もない田舎だった故郷は、自然を楽しめる風光明媚な地として生まれ変わっていた。レオンヴァルトは己の言葉を真実にしてみせ、シャルリアはその証人となったのだ。
街の空気をじかで感じたいからと、領主の館までは徒歩で行くことにしていた。荷物と使用人達を乗せた馬車が一足先にホテルへ向かっていく。
街の治安はいいし、威圧感を与えないよう周囲に溶け込むランサス家の護衛もいる。ふらりと露店に寄ってみたり、屋台で軽食を食べたりするのも楽しかった。
まだカリアの街が村だったころから住んでいる住人はもちろん、移住してきた住人も敬意と親しみを込めて頭を下げる。声をかけられればフェルストは気さくに答えたし、シャルリアも微笑をもって応じた。
レティラ邸は華美ではないが、よく手入れのされた屋敷だ。落ち着いた内装でまとめられていて過ごしやすい。
レティラ邸で昼食を済ませ、しばらく団欒の時を過ごす。
夕方になり、シャルリアとレオンヴァルトは滞在先のホテルへ向かった。クリスフィアはギルとレーシャと一緒に街を見て回るようだ。姉弟とは広場で落ち合うらしい。友達と一緒にのびのび遊びたい年頃だろうから、好きにさせてやることにしていた。
客室に入る。ローテーブルの上には赤いバラの花束が飾られ、洒落たワインクーラーにワインが入れてあった。
「明日は結婚記念日だからね。たまには都会の喧騒を忘れて、ゆっくり過ごそうじゃないか」
「あら。フィアったら、気を利かせてくれたのかしら」
ソファに寄り添って座る。静かに乾杯し、ゆっくりとワインを味わう。酒に弱いシャルリアに合わせたのか、甘くて飲みやすい。
「ねえ、レオン様。この十年、わたくしはとても幸せでした」
そう、十年だ。結婚して十年経った。
満たされた、幸せな日々を送った。レオンヴァルトはシャルリアを慈しんだし、シャルリアはレオンヴァルトを愛した。だが、だからこそ怖い。
誰にも打ち明けたことのない恐怖が、どろりと溢れてくる。もうシャルリアにも止められなかった。
「けれど……貴方が買い取ったレティラ家の借金は、もうすべて返済された頃ではなくって?」
「そうだね。利子を含めてもお釣りが来るぐらい儲けさせてもらったよ。やはりレティラ領には金脈が眠っていた。この通り領内は大きく発展したし、融資した甲斐があったというものだ」
レオンヴァルトは笑った。穏やかな笑みだった。
その笑みが、今はただ恐ろしかった。レオンヴァルトが悪いわけではない。シャルリアの中にある不安のせいだ。
「なら……もう、十分なのではないかしら」
「……それはどういう意味なのかな?」
「フィアは大きくなりました。フィアはとても可愛らしいから、わたくしに代わってランサス家のよい広告塔になるはずです。わたくしのお友達にも、フィアのことをくれぐれもよろしくとお願いしてありますし」
だから、自分はもういらないのではないか――――ワイングラスに添えた手は、震えていた。
ランサス家への借りは返した。シャルリアがいなくても、レオンヴァルトとフェルストはよきビジネスパートナーとして付き合っている。
レティラ家をクリスフィアが相続することは、フェルストも了承していた。もともと親類もおらず、シャルリアで断絶するはずだった家だ。レティラ領を知らない赤の他人に土地を奪われるよりは、ランサス家という強固な後ろ盾を持つ者に託したほうが未来がある。
つまるところ、ランサス夫人の座にシャルリアが居座る理由は、もう残っていなかった。
齢二十九となったシャルリアの美貌は努力の甲斐あっていまだ衰えてはいないが、それでも鏡を見ると昨日の自分より老いが感じられて疎ましくなることもある。
十代も半ばの瑞々しい娘を見れば、焦りを覚えるばかりだった。これからさらに歳を重ねていけば、その思いはより強くなっていくだろう。
いっそう美容の研究に励むものの、それで気が休まるわけではない。まるで、お前が輝いていられる時代は終わったのだと突きつけられているようだった。
それに、クリスフィアも大きくなった。経済学や目利きに明るく、帝王学を身につけた彼女はランサス家の才女として名高い。もう手のかかる子供でもないのだから、次の後妻は母親役に適さなくても問題ないだろう。
子供を産みたくない、あるいは産めない女性は探せば見つかるはずだ。無用な後継者争いを起こしたくない、という理由は十分に通用する。かつてシャルリアがレオンヴァルトに見初められたように、若く美しい後妻をいつレオンヴァルトが見初めてくるかわからなかった。
「ふむ。困ったな、私は君の一生を買い上げたつもりだったんだが。急にそんなことを言い出すなんて、まさか他に惚れた男でも現れたのかい?」
「なんてこと! そのような相手はおりませんわ、わたくしが愛しているのは貴方だけです! ただ、いつ契約を解消されてしまうのか、不安で仕方なくて……」
「ならよかった。君以外にフィアの継母になれる者はいないし、私だって君を愛している。なにより、君は一度も契約に違反していないだろう? それなのに何故、私がこの結婚を終わらせると思うんだい?」
優しく尋ねられ、シャルリアは嗚咽とともに胸中の不安を吐露した。
シャルリアが話し終えるまで、レオンヴァルトは黙って耳を傾けていた。
「まず、君はみっつの勘違いをしている。美しさとは、若さに直結するものではないよ。その証拠に、歳を重ねた君はより魅力的になっている。それから、確かに私は君の美しさに利用価値を見出したが、そのことと結婚については直接的な関係にない。そして最後に、君が今も社交界でもてはやされている理由は顔立ちの美しさだけじゃない。本物を見抜く目と、相手の心に自らを刻む力があるからだ。君のように代替のきかない人材を手放すのはあまりに惜しい」
シャルリアの涙をぬぐい、レオンヴァルトはシャルリアの頬に手を添える。思慮深い紫の瞳がじっとシャルリアを見つめていた。
「私達の子を望まない、そしてフィアを傷つけない。この約束を君が守ってくれる限り、シャルリア、君のことを生涯大切にすると言ったはずだ。そういう契約だったろう?」
夫婦の子を望んだことは一度もない。望んだところで叶わないのは、互いによく知っていた。
たまに肌を重ねる夜を過ごすのは、ただ彼の温もりを求めてのことだ。そもそも不可能なこの条件を、シャルリアが反故にすることはありえない。
クリスフィアを傷つけたことはない。もちろん叱ったことも、喧嘩の最中に嫌いだと言われたこともある。だが、シャルリアはクリスフィアを愛したし、クリスフィアはシャルリアを愛してくれた。
たとえ血を分けていなくても、あの子はシャルリアとレオンヴァルトの可愛い娘なのだ。だからこの条件はシャルリアの矜持にかけて、反故にするわけにはいかなかった。
「人の感情に永遠の保証なんてないし、明日何が起きるかなんて誰にもわからない。だからこそ、契約書を拠り所とするのさ。いいかいシャルリア――この結婚は、契約だ」
あたたかな声音だった。
低く落ち着いたレオンヴァルトの声は、ゆっくりとシャルリアの心に溶けていく。
「人間などという不確かな存在が確固たるしるべを得るためには、契約書が必要なんだよ。それこそが己と相手を縛り、同時に守ってくれるからね。時と場合によって内容を変更することもあるかもしれないが、その時は第三者の見届けと互いの合意を得たものでなければならないし」
改めて問おう、シャルリア。
それでもまだ、何か不安に思うことがあるのかい?
そう訊かれ、シャルリアはゆっくりと首を横に振った。
「ごめんあそばせ。わたくし、ひどい女ですもの。答えのわかりきったことでも、あえて貴方の口から教えていただきたかったのです」
「なに、私もずるい男だからね。お互いさまさ。自分の求める言葉と行動を相手から引き出したいのは当然だよ」
あれほど重くのしかかっていた不安も恐怖も、もう感じなくなっていた。
「でしたら、せっかくの十年目の節目ですもの。そろそろ契約の更新をしてもいいのではなくって?」
レオンヴァルトにしなだれかかり、シャルリアは蠱惑的に微笑んだ。
「わたくし達の、契約にもとづいて……貴方の妻で居続けることを誓います、レオン様」
「ではシャルリア、私は私達の契約にもとづいて、君の夫で居続けると誓おう」
それ以上の言葉はいらない。誓いのキスを静かに交わす。
それは二人にとっては、ただ愛していると告げるよりも重く真摯な誓約だった。




