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この結婚は契約であり  作者: ほねのあるくらげ
第五条

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39/42

生命および自由、ならびに幸福追求は阻害されない。 3

(これだけ集めれば十分でしょう)


 レオンヴァルトのいる書斎に向かうシャルリアの手にある手帳は、二週間ほど前にレオンヴァルトから頼まれたことに対する答えだった。


 シャルリアの知らない、無名の商会の名前と連絡先。どこの家の誰が、どの商会で何を買ったのか。贔屓の商人と彼らが扱う品物を自慢するべく、貴婦人達は得意になってそれを教えてくれた。

 思った通り、情報収集に熱心なシャルリアの姿はなんの違和感も抱かれなかった。常に最新の情報に目を光らせ、己をよりよく見せる努力を怠らないのは、情報を武器にする商売人の妻としても……美貌を武器にする貴族の女としても正しいありようだからだろう。

 書斎のドアをノックする。返事は返ってこなかった。だが、執事のヤーリッツと小姓のギルの話では、彼は間違いなくこの部屋にいるはずだ。しばらく待っていると、近侍のユライの声がした。


「申し訳ありません、奥様。レオン様、すっかり居眠してしまって。ぜひ奥様から叩き起こしてやってください」

「あら。それなら出直したほうがいいかしら」


 疲れが溜まっているのだろう。最近のレオンヴァルトは残業が多い。

 休日も家に仕事を持ち帰り、シャルリアには意味のわからない書類を片手に電話越しでてきぱきと指示を出している。書斎にこもりきりのレオンヴァルトを屋敷の者達も心配して、彼らを代表してシャルリアやクリスフィアが様子を見にいっているのだが、いつ行ってもそんな姿しか見ていない。

 今日も休みだというのに、朝から彼は仕事にかかりきりだ。とうのレオンヴァルトは「休める時に休んでいるよ」の一点張りだったが。

 食事と入浴は人として当然の時間であり、それは休息には入らないと思うのはシャルリアだけだろうか。唯一の救いは、いつも日付が変わるころには寝室に行っているとユライが教えてくれることだけだ。


「まあまあ。愛しい妻の顔を見れば疲れなんて吹っ飛びますよ。僕だったらそうです。恋人すらいないけど。それに、起きた時に目に入る顔は、僕のよりも奥様のもののほうがいいに決まってますからね。多分。レオン様にもそれぐらいの感性は備わってますよ、だからどうか見捨てないでやってください」

「大げさだこと」


 ウインクを残してユライは書斎から出ていく。ユライの言葉通り、レオンヴァルトが書斎机に突っ伏していた。


「レオン様、起きてくださいまし」

「ん……ああ――十五時っ!? ユライ、私は十分後に起こ……シャルリア?」

「ええ、シャルリアでございます。レオン様、昼食はお済みですの? まだならば、持ってこさせますけれど?」

「……昼は食べたよ、大丈夫だ」

 

 レオンヴァルトはため息をついて傍らの置き時計から視線を外し、「二時間か、思ったより寝すぎたな……」「あまり無理はなさらないでくださいな」モノクルをはめた。シャルリアの手が、自然と彼の寝癖へと伸びる。


「……っ、ごめんあそばせ」

「乱れていたかな? 見苦しかっただろう、手を煩わせてすまないね」


 一瞬触れた茶色の髪は柔らかかった。レオンヴァルトは特に気にしていないように頭を手で整え、はねた毛を押さえている。


「それでシャルリア、何か用かい?」

「え……ええ。こちら、頼まれていたお品物です。わたくしなりに、まとめてみましたの」

「ありがとう、助かったよ」


 手帳をぱらぱらとめくるレオンヴァルトの口元に笑みが浮かぶ。彼の満足のいく結果は出せたようだ。


「ここしばらく、君やフィアのことをおろそかにしてしまったことは謝罪しよう。だが、君のおかげでこの厄介な案件は片が付きそうだ」

「お役に立てたのならなによりですわ」


 レオンヴァルトは手帳に印をつけながら、受話器に手を伸ばす。よそいきの声で取り次ぎを頼んだ先は、警視庁にいるという彼の旧友なのだろう。確か結婚式の時に一度、シャルリアとも顔を合わせたことがあったはずだ。


「ああ、ライリー。昨日渡した書類は目を通してくれたかい? ――当然だろう? うちの行員はみな優秀だからね。それからもう一つ、新しい資料がある。すぐに用意するから、おって送ろう。そこから先は君の仕事だ、令状ぐらいは取ってみせたまえよ。――うん、健闘を祈る」


 電話の時間は短かった。レオンヴァルトは軽く伸びをする。寝癖がまたぴょこんとはねた。シャルリアは微笑み、寝癖をそっと撫でつける。


「一段落ついたのなら、休憩いたしませんこと? フィア達も、貴方のことを心配していますもの。たまには書斎から出てあげてくださいな」

「……そうだなぁ。なら、夕食までにすべてを終わらせよう。だから、寝る前にハーブティーを淹れてくれるかい?」


 笑みをもって頷く。レオンヴァルトは相好を崩した。


「ところで明日だが、美術館に行かないか? フィアが行きたがっているんだろう?」

「あら、よろしいのですか? 明日は日曜ですもの、ゆっくり寝ていたほうがよいのではなくって?」

「これからは、別の意味で忙しくなりそうだからね。できることはできるうちにしておきたいのさ。それに、君に見せたいものもあるんだ」

「……? レオン様がそうおっしゃるなら、構わないのですけれど」


 見せたいものとはなんだろう。心当たりは特になかった。

 代わりに浮かんだのは、クリスフィアの喜ぶ顔だった。


*


 ギゼルバート美術館。数代前の王の名を冠したこの大きな美術館は、国内でも類を見ないほど膨大なコレクションが収められているらしい。歴史的な古美術から新進気鋭の現代美術まで、その展示品は多岐に渡るとか。

 芸術とは高尚な文化であると同時に、万人に向けた娯楽でもある。あらゆる作品を許容するこの美術館は、その認識を浸透させるのに十分な効果をもたらしているようだ。階級を問わず、中は多くの見物客で賑わっていた。だが、内部はかなり広いようで、圧迫感などは感じない。


「あのね、お母様! ここには、お父様の絵がかざってあるの!」


 レオンヴァルトの? 

 一瞬戸惑い、クリスフィアの頭を越えてレオンヴァルトを見たシャルリアだったが、すぐに気づいた。はしゃぐクリスフィアが今口にした『お父様』は、画家だったという彼女の実父、ダンヴィーのことだ。


レオンヴァルトおとうさまが、ダンヴィーおとうさまの絵をきぞうなさったのよ。ダンヴィーおとうさまの絵は他にもあるけれど、それはわたしのものなんですって」

「もともと寄贈が決まっていたものを、何点かね。私は、義兄の代わりにその手続きをしただけさ」


 レオンヴァルトは苦笑し、シャルリアに視線を返す。興奮した様子のクリスフィアが一人で遠くに行ってしまわないように、シャルリアとレオンヴァルトはクリスフィアを挟んで手を繋いでいた。


「……ダンヴィーの遺産は、フィアが継ぐべきものだ。あれは、私の金じゃない。手元に残したものをどうするかは、おいおいフィアに決めてもらうよ」


 恐らくそれが、クリスフィアが初めて触れる資産運用の形になるだろう。レオンヴァルトは小声でそう付け加えた。


 展示品をゆっくりと眺める。展示室ごとに違ったテーマがあるようで、見て回るだけでも飽きなかった。

 ほどなくして、一つの展示室に辿り着いた。ちょうど入館のピークを過ぎているのか人はまばらで、出入り口は一つしかない。目を輝かせたクリスフィアはシャルリア達の手をほどき、自由に見て回ろうとした。レオンヴァルトも慣れているのか、彼女の好きにさせている。

 風景画を中心に、様々な絵画が飾られている。「ここだよ」レオンヴァルトのその声も、今は耳に入らなかった。


「レオン様……この、絵は……」

「『恵み』というタイトルでね。時期としては、義兄の最後の作品になるかな。それを君に見せたかったんだ」


 奇妙な絵だった。深く茂る木々の中に浮かぶ、木漏れ日に照らされた茶褐色の泉。ともすれば陰鬱な構図にもかかわらず、自然の神秘と厳粛さが前面に出て不気味さを掻き消している。そんな絵だ。

 目が離せなかった。頭に浮かぶ景色がある。それはまだ幼い日、修道院に入るよりもっと前の記憶だ。好奇心から踏み入った山と、そこで目にした奇怪な泉。この絵画は、あの時の情景によく似ていた。

 

「義兄は昔から、観光地でもなんでもない場所を目指してふらりと旅に出てはその風景を描いていたんだ。私はどうしてもこの景色の元になった場所を知りたかった。……義兄は、バルエ山だと答えたよ」


 レティラ領にある、手放そうにも買い手のつかない荒れ果てた山。かつてそのふもとの村で暮らしていたころは、あの山に何かを感じることなどなかった。空を仰げば自然と目に入る、ただの背景の一部だ。


「それから私は、バルエ山を調べることにした。信頼できる覆面調査員を遣わしたり、専門家を呼び寄せて郷土資料をかき集めたり。あいにく文献や伝承については、百年前の戦争でほとんど失われていたが」


 村人もたまに近場へ山菜取りに入る程度で、奥まで行ったことのある者はいないだろう。何故ダンヴィーは持て余されたあの山を絵画の題材に選び、何故レオンヴァルトは興味を持ったのだろう。


「領主たる君の父君にも話を聞いていたが、参考になることは聞けなかった。……ただ、実際にそれらを行っていたのは私でも、ランサス家でもない。だから父君は最初、私があの会社の関係者だと気づかなかった」

「レオン様は、以前からレティラ家をご存知だったのですか?」

「ああ。……私が取締役を務める鉄道会社があってね。新しい鉄道を敷設するのに、レティラ領のあたりから用地を取得できないかと思ったんだ。ただ、計画が動いた時にはすでに土地のほとんどがレティラ伯爵のものではなかった。財政難を立て直すため、とうに売却されていたからね」


 レオンヴァルトは言う。線路を敷くための土地さえ手に入るのなら取引相手じぬしは誰でも構わなかった、けれど偶然君のことを紹介されたのだと。


「ちょうど、バルエ山を買おうか考えていた時だった。だが、どうせならレティラ家ともっと大きな繋がりを得ようと思ったんだ。そこで君との縁談がまとまった後、早速用地の話を持ちかけた」


 あれは確か、シャルリアとレオンヴァルトが結婚に関する契約書を作成した日のことだ。

 鉄道が好きだと言ったレオンヴァルトは、いずれレティラ領でも鉄道が身近になる日が来ると言っていた。本当に、彼は駅を作るつもりだったのだ。 


「鉄道の誘致については、伯爵も関心があったようでね。町興しに協力することを条件に、格安で土地の権利を譲ってもらえたよ。だから山は買わず、むしろ旧レティラ領を買い戻す手伝いをした。町興しの名目でいじれる範囲を広くしたくてね。近場の町が発展していたほうが、鉄道の利用客も見込めるだろう?」

「何故そこまでして、レティラ領に鉄道を?」

「バルエ山だよ。あそこは、野湯が湧き出る地だ。恐らく国内でも有数の、とても貴重な湯がね。地下の熱で温められた泉には、大地から溶けた成分が多く混ざっている。色こそ奇妙だが、身体にもいい。だからあそこを開発すれば、必ず売り物になると思ったのさ。ダンヴィーの遺作の舞台であることも、宣伝としては十分だ」


 彼は純粋に、温泉という天然の恵みが持つ強さに惹かれたのだろうが、とレオンヴァルトは笑った。シャルリアは思わず呆れてしまって、けれどくすりと笑みがこぼれる。


「レティラ領に眠る金脈とは、こういうことでしたのね」

「だが、まだあの金脈は私の目にしか映らない、可能性の世界のものだ。だからシャルリア、どうか見届けてくれないかい? この事業の成功を、現実のものにできるかどうか」

「そうでなければ困ります。レティラ家の命運もかかっているんですもの」


 手持ち無沙汰になっていたレオンヴァルトの手に指を絡める。レオンヴァルトはふっと微笑み、シャルリアの手の甲にキスをした。


「安心してくれたまえよ。私のとりえなんて、金を数えることぐらいしかないからね。だからこそ、その領分の内では最善を尽くすさ」


 ほどなくしてクリスフィアがシャルリア達の元に戻ってくる。堪能したのか、ひどく満足げな様子だ。


「そろそろ次の展示室に向かおうか。ここは広いからね、一日かけても回りきれるかどうか」

「まあ。では、もし閉館に間に合わなかったら、何度もここを訪れることができますのね」

「賛成です、お母様っ。だって、何回来ても楽しいですもの。ここに住んでもいいくらいだわ!」


 クリスフィアがうっとりと答える。だが、ふとシャルリアの胸に翳りが生まれた。

 テロリストがどこかに潜んでいるかもしれないのだ。今日はたまたまレオンヴァルトが外に連れ出してくれたが、本来ならそんな状況で出歩くのはよしとされないことなのではないだろうか。


「金勘定が仕事の私は、情けないが荒事なんてもってのほかでね。だから治安の維持は、専門家に任せることにしているんだ。なに、我が国の警察はとても優秀さ。これ以上の心配はいらないとも」


 そんなシャルリアの憂いを見抜いたのだろう。レオンヴァルトは自信ありげに微笑んだ。

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