生命および自由、ならびに幸福追求は阻害されない。 2
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「会長、こちらアイン・ゴルトミュンツェの過去号になります。他三社および二年以上前のものについては、引き続き資料室の職員が調査に当たっています」
「ああ、ありがとう、ヨナ。目を通しておくよ」
執務机の上に置かれた新聞の山がまた一つ増えた。ロイゼ経済新聞の過去号からわずかに顔を上げて微笑む。最近秘書室に異動した若い女性秘書は、少し慌てたようにお辞儀をした。
「会長、ワイトス氏からお電話が。先ほどの件について、ぜひ協力したいとおっしゃっていらっしゃいます」
「釣れたか。好都合だ、とことん利用してやろう」
にやりと笑い、ハイリウスから受話機を受け取る。
これが平時であれば、とても仇敵ワイトス家にはしない対応だったが、今のワイトス家なら食いつくと思って連絡したのだ。乗ってくれなければ困る。
予想通り、交渉はスムーズにいった。バーヘリムとしても、国に恩は売りたいのだろう。それに、通信塔の一件で傷ついた信頼を取り戻すチャンスでもある。これを逃すほどバーヘリム・ワイトスが愚かではなかったことに感謝した。
「会長、各都市支店の取引記録ですが、精査にはかなり時間がかかるそうで……」
「ゆっくりで構わないと伝えてくれたまえ、重要なのはあくまでも正確さだ。大口顧客を中心に、不自然な入出金あるいは高額の貸付がないか、見落とすことのないようにね」
報告に来た管理職に笑みを返す。ただでさえ、一部の行員には面倒な仕事を頼んでいるのだ。他の行員の業務も、彼らのサポートのためにより増やされている。これ以上負担をかけるのは好ましくなかった。
「会長、省庁のお偉方の接待に付き合っていただけますかな。私ども弁護士団だけで行けば、悪目立ちしてしまうもので」
「わかった。連中から情報を引き出すのは、エルドーレン、君に任せたよ。存分に私をダシにするといいさ」
特に国税庁と内務省の役人に訊きたいことは多い。過去十年の間に死んだ資産家で、赤の他人へ多額の遺産を贈与するなどの奇妙な相続が起きた例はなかったか。隣国ハーベンスからの在留者で、国内の資産家を身元保証人にしている者はいないか。手がかりになる可能性があるなら、どんな角度からの情報でもほしかった。
「会長、行内で保管していた王都在住の顧客資料ですが、紳士録と預かっていた控えの財産目録を照らし合わせたところ、ここ数年で奇妙な動向がある顧客は見られませんでした。ただ、継続して浪費に走っている者が何名か」
「帳簿が綺麗ならば救いようがある。被害者で押し通せるからね。さて次は、その浪費癖がどこから来たのか見極めないとな」
ランサス銀行が把握している顧客の財産目録には、裏帳簿が付随しているものもある。一部の上客には、脱税や裏金作りの指南など黒い財務管理の助言を依頼してくる者もいるからだ。
法律の穴をすり抜けられるよう、細心の注意を払って取り扱われるそれらに瑕疵などあってはいけなかった。その裏帳簿にも異常がないというのなら、欲をかいたあまりに骨の髄まで食い物にされた間抜けは―少なくともまだ―レオンヴァルトの顧客にはいないということだ。
表の資産が多少溶けても修復は効く。だから顧客も気にせず浪費を繰り返しているのだろう。賭け事でも買い物でも、金を使うという行為そのものに快感を見出す者も少なくない。
だが、いつ詐欺師が裏の資産に気づくかもわからない。
無論、ランサス銀行のおかげで築けた裏の資産をランサス銀行の意向を無視してまで食い潰す、そんな馬鹿を上客に選んだつもりはなかった。
ただ、どさくさに紛れて裏帳簿の存在が明るみになると厄介なのだ。他の上客にも迷惑がかかるし、ランサス銀行の信用にもかかわる。不安要素は早めに解消したほうがいい。
膨大な書類と向き合っていると、一日一日があっという間に過ぎていく。
優秀な手駒を総動員させて回る機械の中では、レオンヴァルト自身も機構の一部だった。
「まったく、ライリーの奴も簡単に言ってくれる!」
レオンヴァルトがライレンズに頼まれたこと。それは、国中の金の流れを調べることだ。その緊急にして重大な案件のため、ランサス銀行は上も下も一丸となって対応に当たっていた。
ドルヴァの亡霊達が、どこの資産家に取り入ったのか。どこの誰が、テロリストどもの食い物にされているのか。悪意を持ってテロリストを支援している者がいないか。それを突き止めることが、ライレンズからの頼みだった。
あの時、ライレンズは続けてこう言った。「まだ確証がないから何も言えないが、もしかしたらお前の無念を一つ晴らしてやれるかもしれない」と。
それが何を指しているのかはわからなかった。だが、経済活動を守り、優秀な警察官に恩を売って名声を買えるせっかくの機会だ。ついでに友を助けてやれるし、何かレオンヴァルト個人にとっても得があるというのなら、なおさら乗らないわけにはいかなかった。
ランサス銀行の主要顧客は、国内外の中流階級の資産家や経営者だ。彼らが大金を動かすのなら、少なくともその瞬間のやり取りは把握できる。誰が誰に、いくら支払ったのか。その金の動きを虱潰しに調べ、国内の不審な金の巡りを追っていけば、富を吸い上げる亡霊の正体に辿り着けるはずだ。
当然、ランサス銀行本社の内部にある資料だけでは国内すべての経済活動を網羅するには到底足りない。だからこそ、顧客層の異なるワイトス銀行にも協力を要請した。各都市の支店から様々な資料も取り寄せている。使えるものはなんだって使った。
「だが、このレオンヴァルト・ランサスを侮るなよ。三流詐欺師が、喧嘩を売る相手を間違えたな。ランサス家の威信にかけて、ネズミの巣穴を必ず暴き出してやろうじゃないか」
ランサス家は、ロイゼの経済に大きな影響力を持つ家の一つだ。
その当主として、決して譲れないものがある――――財界の若き黒幕は、己の手の内にある資産をおびやかす敵を決して見逃さない。
* * *
「いかがですか、お母様」
得意げに胸を張るクリスフィアの問いかけに、ようやくシャルリアは我に返った。手にしていた画用紙から視線を上げ、クリスフィアを強く抱きしめる。
「お母様? どうかなさったの?」
「……なんでもないわ。ありがとう。フィアは絵が上手なのね」
こぼれる涙が少女を濡らしてしまわないように、そっと指で拭い取る。声は少し震えてしまっていた。
画用紙に大きく描かれていた、子供らしい筆触の似顔絵。きっと一生懸命に、そして楽しみながら描いたのだろう。
四肢の角度も関節も、顔のパーツの大きさも自由そのもので。髪が長くてドレスのようなものを着た、笑顔の女性。その程度の稚拙な絵だ。それなのに、とてもまばゆく見えた。
「レオン様に自慢しないといけないわね。それとメルツィスカ、額縁の用意をお願い」
「かしこまりました、奥様」
自室に飾ろう。それがいい。よく見えるところに飾っておくべきだ。
「次は、お父様とお母様と、わたしの絵も描きたいの」
「たくさんお描きなさいな。きっとレオン様も喜んでくださるわよ」
クリスフィアは嬉しそうに笑った。
しかし、何か気になることでもあったのか、クリスフィアははたと赤面した。
「お母様、わたし、美術館に行きたくて……。前に三人でお出かけできなかったから、次こそ一緒に行きたいんです」
「いいじゃない。わたくしも行きたいわ。わたくしからもレオン様に頼んでみるわね」
「ありがとう、お母様!」
脳裏によぎるのは、レオンヴァルトが今抱えている厄介な案件についてのことだ。彼が旧友から受けた依頼とその背景については、シャルリアも聞かされていた。
少女の願いは、今すぐに叶えられることではない。詐欺師だかテロリストだか、とにかく犯罪者がどこかに潜んでいるのだ。何が起きるかわからないし、レオンヴァルトも忙しい。シャルリアも、シャルリアなりの戦場に身を投じなければいけなかった。
だが、だからこそ。クリスフィアの願いを叶える日を迎えなければならない。それこそが平和の、あるいは勝利の象徴になるだろう。無垢な子供の未来は、必ず守ってみせる。




