生命および自由、ならびに幸福追求は阻害されない。 1
* * *
――――そろそろ潮時だ。
リーンスト・リゲロは心の中でそう呟いた。
眺めていた顧客のリストに横線を引くべくペンを取る。がり、と消した名前はデイン・セラーデ。もうすぐ用無しになる貴族だ。
「伯爵サマに会ってくる。最後の仕上げをしないとな」
仲間に声をかけて立ち上がる。この部屋にいるのはみな商人だ。しかしそれぞれ異なる名前の商会に属していて、そのうえどれも架空のものだった。
名前を変えているのは、尻尾を掴まれないようにするためだ。いくつも組織があれば、どこかが摘発されてもすぐ切り捨てて立て直せる。
リーンスト達の商会は、実売の店舗を持たず、上得意客の紹介によってのみ外商を行う会員制の商会という設定だった。その仕事内容は、見る目のない馬鹿な金持ちにイミテーションを売りつけることだ。扱う商品は多岐に渡っていて、リーンストの担当は宝飾品だった。
部屋の外に出ようとすると、自分の顧客達のご機嫌取りに行っていたギリックが入れ違いで戻ってきた。
「伯爵サマが用済みになったら、俺はしばらく隠れるからな。代わりにしっかりよそから搾り取ってくれよ、ギリック」
「言われなくてもそのつもりさ。男日照りのババアどもは扱いやすいからな」
肩を軽く叩いて笑う。ギリックはひらひらと手を振った。
リーンストは、仲間達の本名をまったく知らない。そもそもリーンスト・リゲロという自分の名も、このロイゼ王国で活動するにあたってつけた適当な偽名だ。十年近く前、まだ祖国ハーベンスにいた頃は、別の偽名を使っていた。ギリックを始めとした他の仲間も同様だ。
各々の本名など、リーンスト達にとってはなんの意味もなかった。重要なのは個人ではなく集団だ。だから互いの素性を知らないリーンスト達でも、一つだけはっきりと知っている名前がある。属している組織の名だった。
ドルヴェストル光明結社。それが、祖国の偉大なる英雄にあやかってつけた自分達の名だ。
*
「何の用だ。今度はまともな事業計画でも持ってきたのか?」
セラーデ邸の応接室で待っていると、不機嫌そうな伯爵が現れた。リーンストは笑みを浮かべて社交辞令を口にするが、それすら「つまらん御託はいい」と切り捨てられる始末だ。どうやら相当苛ついているらしい。
苛つきたいのはリーンストのほうだ。以前リーンストが彼に持ちかけた、綿の輸出入と加工に関する事業計画では、端金しか引っ張れなかったのだから。それは、この男自身から引き出せる金も底がついていることを意味していた。
かねてより伯爵が懇意にしていた銀行家とは、しばらく前に契約を切られていたはずだ。それでも伯爵が「金づるにできそうな男に心当たりがある」と意気揚々と言ってのけたから任せたというのに。おそらくまともな金貸しは、もう彼のことを相手にしていないのだろう。
今の伯爵に群がるとすれば、骨の髄まで貪るハイエナだけだ。そのころにはリーンストが伯爵のすべてを搾り尽くして雲隠れする予定なので、彼らへ渡せるものはそれこそカスしか残らないだろうが。
「事業計画……と言えば、そうかもしれません。今回は、ある慈善事業にご賛同いただけないかと」
「またそれか。前も、どこぞの浮浪者どものためにあばら家を建ててやったじゃないか。ちんけな感謝状一枚にしかならなかったがな」
伯爵は不満げに鼻を鳴らした。
金で買えない名声への投資だと言えば、この馬鹿はぽんと大金を寄付してくれたものだ。おかげで、祖国にいる仲間達にも行き渡る数の銃火器を揃えてやることができた。
儲け話、あるいは見栄を張れることであれば伯爵夫妻はすぐ食いついた。だからリーンストはセラーデ家に取り入ることにしたのだ。しかしそれも数年前の話で、今同じことを言っても同様の金額は手に入らないだろう。
「今回は違います。幸福になる権利があるにもかかわらず不当な扱いを受ける方々に、正しい幸福をもたらす計画ですよ。この世はとても不公平だ。公平であるというのならば、閣下のような立派な紳士が不幸になるはずがない」
「……」
「禍福は、積み重ねてきた徳と業によって決まるべきだ。セラーデ伯爵、私は閣下ほど聡明で公正な紳士を見たことがありません。その閣下がこれほど不幸に見舞われるなど、明らかにおかしいんです」
いつまで経っても実らない新規事業。止まらない浪費。税収でも追いつかないほど傾ききった財政。思い当たることには事欠かないのだろう、伯爵は居心地悪げに視線をそらした。
お前のせいだろう、とは言われない。プライドの高いこの男は、自分が見込んだパートナーに足を引っ張られたと認められないからだ。
もしも認めようものなら、自分はその程度の器であると宣言してしまうに等しい。由緒正しい大貴族たるもの、常に正しくなければいけなかった。そんなくだらない幻想の持ち主こそが、リーンスト達の最大のカモになるわけだが。
「そこで私はこう考えました――閣下が得るべき大金を、どこかの悪人が不当に独占しているのでは、と」
数年をかけて、リーンストはすっかりセラーデ家に取り入っていた。
伯爵は自分こそ優位に立っていると思い込んでいるが、実際はすでにリーンストによって掌握済みだ。それは、伯爵の思考回路はもちろん、この家のすべての資産をリーンストが握っているという意味だった。
伯爵の態度こそ高圧的だが、それもリーンストの意図した通りのものだ。自分が主導権を握っていると勘違いさせておいたほうが、色々と操りやすい。
しかしいくら洗脳状態にあるといえど、ないものは得らえない。どれだけ伯爵をつついたところで吐き出す金はなく、あとは腹を裂いて唯一残った金の卵を取り出すだけだ。
だが、どうせならその前にもう一稼ぎしてもらいたい。瀕死の豚でも、鳴き声ぐらいはまだ上げることができるはずだ。むしろ滑稽な姿と鳴き声で人を寄せるのは、痩せ細った豚にしかできない見世物だ。
「たとえば、閣下に協力しない者。たとえば、閣下を理解しない者。いかに閣下に能力があるといえど、閣下の成功を阻もうとする者が横槍を入れてくる限り、閣下が得るはずだった利益は失われてしまうのです。それどころか、奴らに掠め取られているのかもしれない」
「そうか……ワイトスもランサスも、私が成功するのを妬んでいたのか。むしろあの素晴らしい事業計画の数々を知れば、それを乗っ取ろうと考えてもおかしくはない……!」
ならあいつも、それにあいつだって、と伯爵は憎しみを込めて何人かの名前を口走った。その中には伯爵の実弟の名もある。
「彼らは、自分一人が儲けるために裏で手を回して私達の計画をことごとく潰したに決まっています。そうでなければ、あれほど失敗が続くわけがない」
「なんたる外道か。許してはおけん!」
己の正当性を保ったまま責任をなすりつける先を見つけた伯爵は、怒りに染まった顔で吐き捨てた。ここまでくれば、あともう一押しだ。
「裁きを下したいところですが、連中は狡猾です。損害の補填を命じたところで、素直に応じはしないでしょう」
「ではどうするというのだ。この屈辱は、必ずや晴らさなければならないぞ」
「簡単ですよ。別の名目で、賠償金を請求すればいいのです」
まずは論点のすり替え。それから、結論の固定。伯爵から選択肢は奪った。あとは、リーンストの指示通りに踊ってもらうだけだ。
「連中は、正攻法では裁けない。しかし最初に閣下に対して非道を行ったのは連中だ。大貴族たるセラーデ家を虚仮にし、反旗を翻した罪がいかに重いか、身をもって知ってもらわなければ」
「ふむ。法で裁けぬ悪には、こちらも相応の制裁をもって対応せねばならないな。だが、別の名目というと……」
「閣下のご所望のものを、向こうから差し出さざるを得ない状況を作ることができればいいのですが。卑しく強欲なあの連中は、見返りがなければ何も渡そうとはしないでしょう。かといってわざわざ閣下御自らが御下賜品を用意しては、連中は増長するばかり……」
ちらり、伯爵の様子をうかがう。
彼を動かす最後のピースは、彼自身で見つけてもらわなければいけなかった。
「……そうか。非道には、非道をもって報復となせばよいのか。私から何かを与えずとも、奴らの大切なものを奪えばいい。そうすれば、奴らはそれを取り戻そうとするはずだ」
狙い通りの言葉を引き出し、リーンストは心の中で笑みを浮かべた。
人は、とても簡単に堕ちていくものだ。五年ほど前、芸術家気取りの落伍者を焚きつけて貴族の家に放火させた時もそうだった。
あの時、リーンスト達は祖国の裏切者……とある一人の亡命者の老女を追っていた。彼女はさる将校の未亡人で、結社にとって都合の悪いことが書かれた機密文書を美術品に隠してロイゼ王国に亡命してきたのだ。その未亡人の始末は、資金集めのためにロイゼ王国に潜入していたリーンスト達に任された。
機密文書を隠すのに美術品を選んだのは、王国での彼女の庇護者が芸術好きの貴族だったからだろう。果たして未亡人は、数々の美術品とともに疑われることなくただの賓客としてロイゼ王国にやってきた。
機密文書もろとも未亡人を葬り去らなければならず、同時に未亡人の身元を引き受けた王国貴族も消してしまったほうが憂いがない。しかし露骨にこの二人を殺してしまえば、ロイゼの警察も黙ってはいないだろう。未亡人の来歴が洗われて、祖国の結社やリーンスト達の存在が暴かれる可能性もなきにしもあらずだ。
だから、身代わりを用意することにした。ハーベンスとも、ドルヴェストル光明結社とも、未亡人ともまったく関係のない動機を持つ暗殺者に、何もかもを葬り去ってもらうことにしたのだ。
利用できそうな人間を調べ上げ、偶然を装って近づいて。そして、自ら凶行に走るよう働きかけた。実行にあたって多少の手助けはしたものの、リーンスト達の関与を疑わせるようなものは残していない。実行犯たる落伍者も、その場で大火傷を負ってすぐに死んだ。
今回も、同じことを伯爵にしてもらえばいい。他の資産家から金を巻き上げるため、最後の舞台に立ってもらうのだ。
これまでリーンストが商人として伯爵に渡した無数の売買契約書の中には、それとはまったく無関係の書類も何枚か混ぜていた。
たとえば、伯爵が死ぬか破産するかするなら夫人と娘達の世話はリーンストが務めるとか、借金以外で相続可能な伯爵の財産および領地はすべてリーンストに所有権が移るとか。一度に分厚い契約書の束を渡され、流れ作業でサインをしていく伯爵は、そのことにまったく気づいていないだろうが。渡した控えも、書斎のどこかで埃を被っていることだろう。
拠点の金庫にしまってあるあの契約書は、伯爵の腹に残った最後の金の卵だ。厚化粧の中年女はどうでもいいが、若く美しい二人の娘はいかようにも利用価値がある。
「女……いや、子供を狙ったほうがやりやすいか。荒事が得意で、消えても誰からも怪しまれないようなごろつきに心当たりはあるか?」
「お任せを、閣下」
今回は、伯爵こそがスケープゴートだ。伯爵の名で人を雇い、金を受け取ったらすぐ伯爵ごと口封じすればいい。
この豚から搾り取るだけ搾り取って屠殺するには、今がちょうどいい頃合いだ。
* * *




