夫には、妻の予定に同行する義務は生じない。 2
「初めてのお店でお買い物をするのは、何歳になっても胸が躍りますわね」
「ええ。何か気に入る物があればいいのだけれど」
シャルリアは、かつてマナーの家庭教師を務めてくれたビスカス夫人とともに馬車に揺られていた。向かう先は、一昨日メイスク夫人から聞いた香水の専門店だ。
シャルリアが一通りのマナーを習得して以来、ビスカス夫人とはよい友人として付き合っている。彼女はさる子爵の妹で、裕福な医者の元に嫁いでから五年あまりが経つそうだ。シャルリアより少しばかり年上のビスカス夫人は、その穏やかな気質もあってまるで慕わしい姉のようだった。
香水を選ぶのには時間がかかる。香りの変化をしっかり確かめておきたいし、多様な香水を嗅ぎすぎて麻痺する鼻を休ませる時間も必要だ。だからなるべく朝の早いうちから店に行くことにした。ビスカス夫人を誘ったのは、打算抜きで気兼ねなく話せる相手だからだ。
シャルリアの他の“お友達”とは違い、彼女はランサス家の広告塔ではないシャルリアの姿を知っている。それどころか、シャルリアを広告塔に育てた一人と言えるだろう。そんなビスカス夫人の前だからこそ、利害に縛られない本音の感想を言い合えた。
洒落た店の前で馬車が止まる。扉を開けた御者のルーデスは、大仰な仕草と口上でシャルリア達を送り出した。のんびり屋のペルゲンとは異なり、この御者は何かと騒がしくてお調子者なところがある。御者としての優秀さについては、どちらも文句のつけどころはないが。さすがはランサス家の使用人といったところか。
ドアベルが軽快に鳴った。店主らしき老婦人が恭しく頭を下げる。客はまばらで、ゆっくりと見て回ることができそうだ。さっそくビスカス夫人とともにいくつかの香水を試香紙で試す。甘い匂い、爽やかな匂い、異国情緒のある匂い。店主の説明を聞きながら、香りが変化するのを待った。
(この香りは……少し癖が強すぎるかしら。人を選びそうだし、やめておいたほうがよさそうね)
纏う香りのイメージで、人は上品にも下品にもなる。シャルリアが探しているのは、自分の価値をより高められるアクセサリーだ。コーディネートを引き立て、シャルリア・ランサスという偶像に説得力を与えるためのもの。それがなんであれ、五感へ直に訴えかけるアイテムは相手に与えたい印象を大きく左右する。だが、それを決めるのは相手ではない。シャルリアだ。思われたいように思われ、傅かれ、尊敬される。そういう風にありたかった。
ゆっくりと時間をかけて、気に入ったものをいくつか選ぶ。趣きの異なる香りはシャルリアの雰囲気を変え、その時々で違った姿を演出するだろう。ビスカス夫人もいい買い物ができたようだ。小包を抱え、嬉しそうにはにかんでいた。品揃えも接客態度もよかったし、この店は流行りそうだ。
雰囲気のいいティーハウスでお茶をしてから夫人と別れて帰路につく。おしゃべりに花を咲かせていたせいで、屋敷に着くころにはすっかり日は傾いていた。
優雅な貴婦人らしい一日の過ごし方にもすっかり慣れた。充足感のおかげか、一日中外出していたというのに足取りはまだ軽い。疲れこそ確かにあるのだが、今はそれすら心地よかった。
「おかえりなさい、お母様」
「ただいま、フィア。いい子にしていたかしら」
一昨日のスケッチを元に絵を描きたいからと、今日のクリスフィアは留守番を選んでいた。クリスフィアを抱き寄せると、湯上がりらしくほのかに石鹸の香りがする。
「もちろんです。あら? お母様、なんだかいい匂いがするわ」
シャルリアを出迎えたクリスフィアは不思議そうにくんくんと辺りを嗅いでいる。一方でクリスフィアの背後に控えるギルは何も感じないのか、きょとんと目を丸くしていた。クリスフィアの感覚が鋭敏なのだろう。
「香水のお店に行ったからかしら。はい、フィアにお土産よ」
「わぁ! お母様、ありがとうございます!」
渡したのは、クリームがたっぷり使われたケーキのような香水だ。摘みたての瑞々しいストロベリーの香りを中心に、濃厚なバニラやふんわりとしたスポンジのような匂いを楽しめる。甘いものが好きな、可愛らしいクリスフィアにはぴったりだろう。
香水の付け方を簡単に教え、「寝る前に少し付けてみましょうか」「うん!」自室へと向かう。今付けてしまえばそのうち夕食の匂いと混ざってしまって、あまり香りを楽しめないだろう。クリスフィアは新しい香水に興味津々らしく、気もそぞろの様子だったが。
部屋で少し休んでから入浴を済ませる。その間にレオンヴァルトが帰っていたようで、執事のヤーリッツによると今はレオンヴァルトも自分の浴室にいるという。今日は朝早くに出たようだから、そのぶん帰宅も早かったのだろう。
「お帰りなさいまし、レオン様。ふふ、なんだか久しぶりにお顔を見た気がします」
「ただいま。少しタイミングが合わなかっただけさ、大げさだな」
昨日のレオンヴァルトは残業で、シャルリア達の就寝後に帰宅していた。修道女時代の早起きの習慣も最近では鳴りを潜めていたので、レオンヴァルトが家を出た頃にはまだシャルリアも寝ていた。
軽くキスをしてから食堂へ向かう。こういった些細な振る舞いこそが、夫婦を演じるのに必要不可欠な要素なのだ。家の外であろうと中であろうと、理想の夫婦像は崩せない。
「そういえば昨日、このようなことがありましたの」
シャルリアがヤナシエ邸でのお茶会を話題に上げたのは、食後の紅茶が運ばれてきた頃だった。
ヤナシエ夫人が、無名の宝石商と懇意にしていること。名家の女性達が招待されたこと。目玉商品として見せられたピンクダイヤモンドがガラスにしか見えなかったこと。それは、シャルリアとしてはただの世間話の延長のつもりで、何の気なしに口にした出来事の一つにしか過ぎなかった。クリスフィアも楽しそうに聞いている。だが、レオンヴァルトにとっては違ったらしい。はっとして顔を上げた彼の口元にはすぐに笑みが浮かんだが、眼差しは真剣だった。
「エディード商会。その商人は、そう名乗ったんだね?」
「ええ。エディード商会のギリック・ダランデ、と。お名刺もお持ちしましょうか?」
帰り際、あの商人は婦人達に名刺を配って回っていた。断ってもよかった―メイスク夫人は受け取らなかった―のだが、一応もらっておいたのだ。万が一エディード商会がランサス銀行の取引先だったなら、下手な振る舞いをするわけにもいかないだろう、と。
メルツィスカに言付けて、ギリックの名刺を持ってこさせる。受け取ったレオンヴァルトは眉間にしわを寄せた。
「何か不都合がございまして?」
「……いや、むしろよかったよ。実は旧友に、ちょっとした仕事を頼まれていてね。君のおかげで、早く片付けられるかもしれない」
レオンヴァルトはそのまま名刺をしまう。何が何だかわからないが、彼にとって悪いことでないのであればいいのだが。
「シャルリア、もしまたこの商会を見かけるようなことがあれば、私に教えてくれないか」
「……? ええ、それは構いませんけれど」
「それと、君のご友人がたで、エディード商会と……違うな。君の聞いたことのない名前の商会のうち、高価なものや日常的に使うものを扱うところと懇意にしている者がいるかどうかはわかるかい?」
「話を聞けば、教えていただけるかと。皆様に尋ねてみますわね」
貴婦人が好んで利用する商会の名前なら、大抵は知っている。シャルリアだって、そういった商会の上客の一人なのだ。耳慣れない名前を聞けばすぐにわかるだろう。
それに、流行の最先端を目指すシャルリアが、無名の商会の情報収集を行っていても不思議には思われないはずだ。シャルリアも知らないとっておきの店を知っているというなら、相手もきっと得意になって教えてくれるに違いない。
「助かるよ。……それから、しばらくは新規の商人を招くのは控えてほしいんだ。特に、高額な服飾品や継続的に使う必要のある化粧品なんかを扱うところとはね。たとえ誰かの紹介であっても、私に一言伝えてからにしてくれたまえ」
「まあ。今日行った香水のお店は、初めてのお店ですわ」
住所と店名を尋ねられたので素直に答える。レオンヴァルトはメモを取っているが、急にどうしたのだろう。
「他にも、誰かに何かを紹介されるようなことがあれば、併せて教えてくれたまえ。ただ、その相手からは決して何かを買ったり、契約したりしてはいけないよ」
「レオン様、一体どうなさったのです? 急にあれこれとおっしゃるなんて。わたくしは、そこまで信用がないのかしら」
「そんなつもりはないんだが、そういう風に聞こえたのならすまない。ただ、少し込み入った事情があってね」
苦笑するレオンヴァルトの視線がわずかに動く。その先にいたのは、デザートのプディングに夢中のクリスフィアだ。子供の前でする話ではない、ということだろう。
後でじっくり聞かせてもらいます、と心の中で呟き、レオンヴァルトを一瞥する。シャルリアの念が伝わったのか、レオンヴァルトは諦めたように紅茶を飲み干した。
*
「すてき。なんだか、ケーキでできたベッドで眠っているみたいだわ」
枕に顔を埋め、クリスフィアはくすくすと笑った。付け始めはショートケーキの香りだ。腰のあたりに軽く吹きかけただけなので、匂いをきつく感じすぎることもないだろう。ほどよく温められたころに香るバニラが、よりよい睡眠へとクリスフィアを導くはずだ。
「今日は、この前の続きからにしましょうか」
寝物語に聞かせる本を開く。シャルリアの声と香水の香りは、よい睡眠導入剤になったようだ。ほどなくして可愛らしい寝息が聞こえてきた。
それを確認したシャルリアは、本を片付けてクリスフィアの毛布を掛け直す。きっとクリスフィアが本当に欲しているのは、読み聞かせではない。眠るまで傍にいてくれる母親なのだろう。それならば、シャルリアはその理想に応えるだけだ。
「おやすみなさい、フィア」
辺りに漂う香水の匂いほど甘くはないけれど。それでもその声音は、眼差しは、クリスフィアが希った通りの愛の形を表せているだろうか。ただ一人それに答えられる少女は、すでに深い夢の中だ。




