夫には、妻の予定に同行する義務は生じない。 1
「動いてはだめよ、お母様」
クリスフィアはスケッチブックとシャルリアを交互に見ながら、素早く鉛筆を動かしている。シャルリアのスケッチをしているのだ。
「ありがとうございました。お母様、もう動いてもいいですよ。あとは色をぬれば完成です」
「これぐらいお安い御用よ。絵が描けたら、わたくしにも見せてちょうだいね」
「はい!」
モデルを頼まれたのは、午後の時間の手慰みにと居間で刺繍をしている時だった。満足のいくスケッチを終えた可愛らしい画家は、自分の部屋へと戻っていった。
中断していた刺繍を再開しようと、傍に置いていた刺繍枠に手を伸ばす。だが、集中できた時間は短かった。メルツィスカが来客の訪れを告げたからだ。
「奥様、メイスク男爵夫人がお見えです」
「あら? 何か予定はあったかしら」
「いえ、たまたま近くを通りかかったのでお顔を見に、と」
「そう。小応接室にお通ししてちょうだい。すぐに行くわ」
客を迎えるにふさわしいよう身だしなみを整えてから階段を降りる。居間は三階、小応接室は一階だ。女主人が訪れたことに気づくと、メイスク男爵夫人は泰然と微笑んだ。
「急に押しかけてしまって申し訳ありません。お邪魔ではないかしら」
「お気になさらないでくださいな。ちょうどわたくしも、お会いしたいと思っていましたもの」
この女性は、シャルリアの“お友達”の一人だった。主に出入りしているサロンはさる公爵夫人が主催している、恐らく王都で一番華やかな場として注目が集まっているサロンだ。シャルリアもたまにそこに呼ばれており、中核をなす貴婦人達とも言葉を交わした。そのサロンを掌握するための足掛かりとして親しくなったのが、このメイスク男爵夫人だった。
裕福な男爵家の夫人で、社交界の事情に明るいメイスク夫人は、シャルリアにとって狙い目の交流相手だった。年や趣味が近いことを利用して、会話に花を咲かせたものだ。おかげであっという間に気に入られ、件の公爵夫人のサロンにも招かれた。以来、まめな交流を続けている。
階級が高ければ高くなるほど、貴族というのは市井の労働から遠ざかる。領地経営にだけ尽力して国からの年金やら領地の税収やらで暮らすか、政治や学問あるいは軍事を仕事として宮廷に出入りするからだ。なんなら、貴族の家に生まれたというだけで日がな一日道楽に明け暮れても生きていける者だっていた。
爵位を継げない者の中には貴族社会から離れる者もいる。そういった者には医者や法律家といった、人から尊敬を集められる高尚な職が好まれた。
貴族がそれ以外に金を稼げることがあるとすれば、ひいきの職人や芸術家を売り込んだり、領地発展のためにどこかの商会と手を組んで事業を始めたりするぐらいだろう。それだって、金儲けは―体裁上は―ついで扱いだ。
貴族でありながら生活のための金を稼ぐことを主目的とした仕事をするのは、度し難い変わり者かよほどの貧乏人、あるいは世間の目に左右されずに我を貫く実利主義者だけなのだ。汗水たらして働かなくてもいい、それこそ特権階級の象徴なのだから。もちろんそれと引き換えに、煩雑なしきたりやら義務やらが課せられるわけなのだが。
爵位の中では格下と思われがちな男爵位だが、決して侮ってはいけない。貴族社会という生きづらい枠組みの中にはまって商売の選択肢を狭められることを厭う生粋の商売人は、ランサス家のようにあえて中流階級に留まるが……中流階級の中でも上位に位置する家の人間の中には、覚悟のうえで転身を狙う者も多かった。そんな彼らが辿り着くのが、公的に金で買える唯一の称号である男爵位だ。男爵位を自分で買えば、結婚せずとも、そして婚家の顔色をうかがわずとも自分が貴族になれるのだから。
メイスク家も、そうやって貴族の一員になった家柄だ。木材業で財を成した家らしい。今でこそ経営は息のかかった商会に委ねているが、権利を持っている山は多いし業界内での顔も利く。下手な貴族より金があった。成り上がり者は元の身分を理由に馬鹿にされがちだが、その手腕はただの道楽貴族では太刀打ちできないものだろう。
レオンヴァルトは自身の商売を続けつつ、クリスフィアにレティラ家の伯爵位を相続させようとしている。ただ男爵位を買うよりいい買い物をしたのだろう。どうせレティラ家には、ランサス家に指図できる人間などいないのだから。たとえ伯爵位を得ても、ランサス家の商売は続けさせるに違いない。長らく成金と蔑まれ、それでも貴族達を顧客にし続けた財力と胆力は本物だ。
「明日のヤナシエ邸でのお茶会、ランサス夫人もいらっしゃるのよね?」
「ええ、もちろん。楽しみにしております」
ドレスやオペラの話でひとしきり盛り上がったし、新しくできたという香水の店の情報も仕入れた。品ぞろえや品質について、本格的に流行り出す前に確かめなければ。シャルリアが選んだものが流行になる、そう思われていたいのだから。ランサス家の広告塔としての価値を保つためにも、そして何より自分の名誉のためにもだ。
メイスク夫人に予定を確認されたのは、そろそろ帰るのだろうという頃合いだ。メイスク夫人は退去の挨拶を口にして、安心したように微笑んだ。
ヤナシエ夫人は侯爵家の未亡人だ。年のころは三十の半ば。老侯爵の後妻として嫁いだらしく、夫の死後は女盛りを楽しんでいるという。男遊びのせいでいい噂は聞かないが、その侯爵家というのがかなりの名家だった。義理の息子が当主として立っているため夫人本人に力はないものの、名のある家からの誘いを無下に断るのは外聞が悪い。
それに、聞けば今回のお茶会には、裕福かつ流行に敏感で社交界の花とも呼べるような貴婦人や令嬢ばかりを招待しているらしい。彼女達と繋がれる機会を棒に振るわけにはいかなかった。
何やら珍しい商品を扱う外商を呼んでいるのだとか。話題に乗り遅れるわけにはいかない。たとえお気に入りの若い燕に花を持たせるために催した会だったとしても、その場に参加していたという事実が重要なのだ。主催に多少難があったとしても、招待客とは結べる縁もあるだろう。
*
ヤナシエ夫人の招待を受けていたのは、事前に耳に挟んでいた通り華やかな富裕層の女性ばかりだった。夫人の誘いを断れば、自分を高く買ってくれた彼女の顔に泥を塗ることになるし、社交界の花の一輪に選ばれたというステータスを自ら否定することになる。この場にいるだけで評判が守られるなら、足を運んだほうがいい。社交界とは、そういう見栄で成り立つものだ。
いまやシャルリアも、その栄華を彩る一人だった。日ごろ出入りしているサロンの婦人達と会話を楽しみ、初めて見かける婦人との交流を取り持ってもらう。交流相手は貴族だけに限らない。普段の橋渡し役と派閥が異なるサロンの参加者や、ランサス家と関わりの薄い資産家の妻達とは接点が持ちづらいので、こういう場はありがたい。
招待された令嬢の中にエマリーはいないようだった。エマリーが呼ばれていないことを、令嬢達が不思議そうに話している。自分達は選ばれて、彼女は選ばれなかった――――やがて彼女達の疑問は、くすくすと嗤う声に変わっていった。ここに来ていないということは、そうなのだから。
主催のヤナシエ夫人も、招待客と談笑している。傍に控えている身なりのいい男は、きっと新しい愛人だろう。噂の外商かもしれない。
「皆様に、わたくしの友人を紹介いたします。彼は不思議な力の持ち主で、わたくしが欲しいと思う物をぴたりと当ててくれますの。きっと皆様にも、素敵な出会いをもたらしてくれますわ。ギリック!」
「エディード商会からまいりました、ギリック・ダランデと申します。このような麗しい花園にお招きいただき、恐悦至極に存じます」
やがて、今日のメインイベントが始まった。ギリックと名乗ったその商人は気取った様子で頭を下げて、部下に指示を出しながら恭しく商品の陳列を始める。宝石商のようだ。聞いたことのない商会だったが。
遠い昔、どこかの国の王妃が愛したティアラ。高名な舞台女優が愛用していた、宝石をちりばめた手鏡。他にも多様な逸話のある指輪やら首飾りやらが並べられた。たいそうな能書きとともに、ギリックは商品の説明を始める。
「まあ、とてもきらびやかね。ランサス夫人、何かお買いになる?」
「あいにく、今日は宝石の気分ではありませんの」
傍にいたメイスク夫人に小声で囁かれ、微苦笑を浮かべて応じた。
宝石の気分ではない日などない。欲しい物はいつだって欲しいのだから。だが、何故か心がときめかないのだ。リコッドで買い物をしているような、あるいはひいきの外商を迎えた時のような高揚感がなかった。
「残念ね。きっと似合うのに」
メイスク夫人は宝石を興味深そうに見ているが、購買意欲はさほどでもなさそうだ。「最近、イヤリングを新調したの。他の装飾品も間に合っているし、今回は他の人に譲るわ」シャルリアの視線に気づいたのか、夫人は小さく肩をすくめた。
「こちらは、我が商会で取り扱っている物のほんの一部にすぎません。ご用命とあれば、より多くのお品物とともに御宅までお伺いさせていただきますが……その前に、ぜひ皆様にご覧いだきたい逸品がございます」
招待客達がきゃあきゃあと試着をしながら商品を選び、購入を進めていく。ほとんどの品物が売れた時、ギリックが再び口上を述べた。注目が彼に集まる。
彼の部下が、別室から何か持ってきた。ビロードの布で覆われている。次は一体何を見せてくれるのだろうと女性達が見守る中で、ギリックはもったいぶったように布を取った。
「ここにございますイヤリングは、その可憐さで国を傾けた魔性の姫が肌身離さず付けていた逸品――あしらわれているのはなんと、世にも珍しいピンクのダイヤモンドでございます!」
「まあ……!」
「初めて見ましたわ……。まさか、こんな愛らしい宝石だなんて……!」
あちこちから感嘆の声が上がる。ガラスケースの中のイヤリングはまばゆく輝いていた。透き通った鮮やかな薄紅色の宝石が、雫型の金の台座にはめこまれている。女性の親指ぐらいはありそうな大きさだ。
「とても希少なものですから、お手に取ってご覧にいただくわけにはまいりませんが……どうぞお近くでご覧になってください」
ギリックはにこやかに呼びかける。一人の夫人が、潤んだ瞳をダイヤに釘付けにしたまま値段を尋ねた。ギリックは声を落として価格を告げる。それなりの規模の城が一つ二つ、余裕で買えてしまう額だ。みな息を飲んでいる。シャルリアを除いては、だが。
(ガラスよね?)
シャルリアの目には、それが着色を施したガラスにしか見えなかった。繊細なカットが施されていて、愛らしく輝いている薄紅色の宝石は確かに美しい。美しいのだが、何か違和感があるのだ。
オペラで見た求婚の首飾りを再現させるため、様々なダイヤとガラスを見比べていたからだろうか。それとも日ごろから、多様な宝石をこの目で選んでいるからだろうか。外商を呼び、彼らが持ってきたごく少数のえりすぐりの商品だけを見るという買い物の仕方も確かに好きなのだが、実際に多くの商品が展示されている店頭へと赴くのも好きだった。誰かに言われたものではなく、自分の目で選んで気に入った物を買いたいからだ。単純に、無数の宝石が並んでいるのは見応えがあって楽しいからでもあるのだが。
「どうしましょう……あんなに魅力的な宝石があるだなんて……」
「……メイスク夫人。差し出口ですけれど、夫人には艶めいて深みのあるルビーのほうがお似合いになりますわ」
「そう? そうよねぇ、この前主人に買ってもらったイヤリングもルビーなの。ピンクのダイヤモンドは確かに綺麗だけど……贈ったイヤリングよりそれのほうがいいのかって主人に怒られてしまうわ。あの人、宝石の違いなんて何もわからない朴念仁なんですもの」
さすがにルビーとダイヤモンドは見間違えないだろう。さらりと惚気を混ぜられたが、メイスク夫人の考えを改めさせることはできた。
元がガラスでも、手間暇をかけて加工すればまばゆい輝きを放てるものらしい。オペラの首飾りの再現を職人に依頼した時に、そんな話を聞いたことがある。それでもやはり、本物のダイヤモンドと並べてしまえば鮮烈さで劣るというが……色のついたダイヤモンドという希少すぎる宝石の実物を見たことがある者は少ない。よほど宝石に造詣が深いか、シャルリアのように最初から疑っていない限り、そういうものだとごまかせてしまえるだろう。
ピンクのガラスのイヤリングの前には購入希望者が殺到している。付け値はどんどん吊り上がっているようだ。傾国の美姫のイヤリングを我こそ手中に収めてみせると、目をぎらつかせた貴婦人達は競い合うようにして財力をひけらかしている。そのオークションに脱落した者や初めから乗れなかった者は、垂涎の眼差しで事の成り行きを見守っていた。
お茶会の舞台だった応接間はすでに異様な熱気に包まれている。だが、シャルリアは口を閉ざしたままだった。ここでイヤリングが偽物である可能性を訴えても、何の意味もないからだ。
もしここでシャルリアが疑問を口にすれば、貴婦人達は詐欺に遭わずに済むかもしれない。その代わり、偽物を見抜けず踊らされていた間抜けだと思われる。表面上は感謝されて慧眼を称えられるかもしれないが、彼女達が内心で抱くのは羞恥と憤怒だ。人脈を築くどころではない。
主催のヤナシエ夫人は自信満々に詐欺師を紹介したことになるし、それどころか詐欺の片棒を担いでいたと思われても仕方ない。お茶会を台無しにしたシャルリアはひどく恨まれることだろう。すべて勘違いなら、大恥をかくのはシャルリアのほうだ。
どう転んでも、シャルリアにとってよくない結果が生まれてしまう。だったら余計なことをせず、オークションに参加していない他の客人のように静観を決め込むのが賢明というものだ。
結局、傾国のイヤリングを落札したのはドルゴー侯爵家の夫人だった。羨望の視線が集まる中、ドルゴー夫人は得意げな様子で小切手にサインしている。ヤナシエ邸でのお茶会は、こうして幕を閉じた。




