第三者にそれを悟られてはならない。 1
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執事ヤーリッツ・ハドラは、先代当主の代からランサス家に仕えている。レオンヴァルトの父である先代当主マクシアスが妻のエーデロッテとともに隠居を決めた時、ヤーリッツも夫妻についていく話こそ出たが、結局若き当主を支えるために屋敷に残ることになった。
ヤーリッツは十代の時から五十年ほどランサス家で奉公している。使用人達の中でも最年長の枠に入る、古株の使用人だ。周囲からの信頼も厚く、丁寧な仕事ぶりは先代の時から変わっていない。
レオンヴァルトが生まれたころから、ヤーリッツは彼のことを知っていた。姉夫婦の死を乗り越えて父の後を継ぎ、親譲りの才覚で財界に君臨する若き天才……というのはあくまでも表向きの評価で、実態は真人間への擬態が異様にうまいだけの金の亡者だ。
商売気質と言えば聞こえはいいが、もし万が一人の体の価値などを尋ねようものなら笑顔で値段をつけてくるに違いない。奴隷や労働力としてはもちろん、遠い国の医術では生き物の臓物を元に薬を作ると聞く。違法でさえなければ、あるいは罪の立証をさせない自信があれば、たとえ倫理に反することでも気にせずやってのける。ヤーリッツの主人は、そんな青年だ。
そのレオンヴァルトが、ついに花嫁を買った。売買契約が成立したと近侍のユライから電話がかかってきたときは、思わず卒倒しかけたほどだ。長年培われた執事としてのプライドから、なんとか平静を装い続けたが。
これまでレオンヴァルトは二度も離婚をしている。それ自体は致し方のない結果だったとはいえ、まさか三人目の妻を金で用意するとは。いや、むしろ最初からそうしなかっただけレオンヴァルトにもまだ人間味があったということだろうか。
「今度の奥様は、いい方だといいんですけどね」
「誰が相手でも使用人の役目は変わりません。しっかり務めを果たすように」
ぼやくロザルデを、女中頭のカロエッタが睨む。とはいえ、二番目の奥方が癇癪を起こして使用人を解雇しようとしたとき、使用人達を庇おうと矢面に立って真っ向から彼女と対立したのは他ならないカロエッタだ。
その後すぐにレオンヴァルトは離縁を決めたので大事には至らなかったが、カロエッタの警戒心は人一倍高まっていることだろう。
カロエッタも古株の一人だ。ランサス家を影ながら支える者としての意識は、ヤーリッツと同じだけ強い。
緊張に包まれたまま、ランサス家に三人目の奥方がやってきた。
金に物を言わせて妻にした女性は、名をシャルリアと言った。とうに枯れたヤーリッツでさえ、確かに大金を払う価値があると舌を巻かざるを得ないほど儚げで美しく、同時に神秘的な娘だ。一目で人を虜にするような、何とも言えない不思議な魅力を湛えている。
だが、修道院育ちで世間を知らないような娘に、果たしてあの非人間の妻が務まるのだろうか。
自分にできるのは、せめて彼女が心安らかに過ごせるように生活を整えてあげることだけだ。
「キュラス夫人、ここに飾っている花瓶のことなのだけど」
「ちょっといいかしら、ヤーリッツ。素敵な銀食器を見つけたから、管理をお願いしたくて」
シャルリアは、ことあるごとにカロエッタやヤーリッツに声をかけてきた。使用人達に指示を出し、助言を聞き入れ、「じゃあ、あとはお願いね」と去っていく。
その堂々たる振る舞いは、彼女こそランサス家の女主人であると認めざるを得ないものだ。「金で買われただけの可哀想なお嬢さん」というシャルリアに対する評価を、ヤーリッツはすぐに改めた。
シャルリアを迎えた直後は、女主人として彼女に敬意を払いつつもどこかぎこちない空気が使用人達にはあった。しかしギルやロザルデ、そしてメルツィスカの説得でその緊張は氷解している。今の奥様はこれまでの奥方とは違うのだ、と。これまでずっと無垢で小さな女の子を守るために結託してきた使用人は、本当の意味でシャルリアに気を許した。
シャルリアのおかげで屋敷がさらに華やいだと、メイド達のはしゃぐ声がする。これまでも見栄えをよくするために調度品にこそ気を使っていたが、やはり女主人から直々に声をかけられると気合が違うのだろう。
シャルリアが社交界に出入りするようになり、ランサス邸が女性達の社交の舞台になることもあった。婦人達のお茶会はもちろん、レオンヴァルトの顧客や取引先をもてなすための晩餐会でもシャルリアは女主人として遺憾なく采配を振るっている。まさか彼女が金で買われたお飾りの妻だなどと、誰も信じないだろう。
寄り添うレオンヴァルトとシャルリアは、まるで一枚の絵画のようにさまになっている。結婚のきっかけこそ明かせるようなものではないが、すっかり情や絆が芽生えたらしい。いいことだ。
「ヤーリッツ爺、帳簿を見せてもらってもいいですか? 旦那様にランサス家の収支に関するレポートを出さないといけなくて」
「おや。わかりました、少し待つように」
夕食を終えて就寝時間まで休んでいると、ギルがやってきた。ヤーリッツが管理しているランサス家の帳簿は、本来おいそれと見せていいものではない。だが、ギルについては例外的に許可していいとレオンヴァルトからも言われている。
ギルは小姓としての仕事やクリスフィアの勉強に付き合う他に、レオンヴァルトから専門的な教えも受けていた。いつかクリスフィアが跡目を継ぐとき、この奇妙な瞳の少年がその補佐を務めるからだろう。ヤーリッツはそれまで長生きするつもりでいた。
「ヤーリッツ爺、これは貴方を人生の先輩と見込んでの相談なんですけど……」
「相談? 珍しいこともありますね」
帳簿のメモを取りながら、ギルはおずおずと切り出した。時には大人すら小馬鹿にする生意気盛りの少年が、今日はやけにしおらしいものだ。
「最近、お嬢様がやけに奥様に懐いていて……それ自体はすごくいいことだと思うんですけど、なんかもやもやするというか……いや、奥様が悪いわけじゃないですよ。でも、なんかちょっと……」
「ああ。つまり、お嬢様に放っておかれて寂しいと?」
「……なるほど。これが寂しさですか。勉強になります」
真っ赤になって否定でもしてくれれば、もう少し可愛げが出るものを。ヤーリッツは苦笑を浮かべる。まあ、受け止め方はどうあれ素直に認められるのは悪いことではない。
「……ちなみに、お嬢様の好きな人ランキング、奥様が怒涛の勢いで順位を追い上げてるみたいなんですけど、二位を死守するためにはどうしたらいいと思います?」
「えっ……? わ、私の順位は……いや、言わなくて結構です」
そんなもの聞いたこともない。クリスフィアのことは孫娘のように可愛がっているつもりだが、いかんせん使用人とは陰に徹する仕事だ。特に執事ともなれば、かかわる機会は極端に少ない。
日ごろ世話をしているメイドのロザルデや、美味しい食事やデザートを提供する料理長のカーメンには、間違いなく順位で負けているだろう。知りたくない現実だった。
「あーあ。お嬢様が笑ってくださるのはいいことですけど、ちょっと残念です。僕の背中に隠れてくれるの、結構好きだったのに」
「お嬢様の世界が広がったのですから、お嬢様を真に想うのであれば喜びなさい。……それに、他に頼れる人ができたとして、それでお嬢様の中の君の立場が弱くなるわけではありませんよ」
「そういうものですかね?」
使用人は主人に似ると言うが、レオンヴァルトに似て感情の機微に疎い少年だ。ヤーリッツは目を細め、「人の心は何よりも複雑ですからね」優しく頷く。その理論で行くとヤーリッツも人でなしになるのだが、その辺りは棚の上に投げておいた。
「好意ひとつをとっても、多くの種類があります。お嬢様が奥様や旦那様に向ける好意と、君に向ける好意は同じではありません。しかし、それぞれの好意に優劣があるわけでもない。それを決して間違えないようにしなさい」
「……いつか僕とフィアは、旦那様と奥様のような関係になれますかね?」
「可能性の一つとしては、もちろんあるでしょう。ですがそれは君一人で決められることではないですし、何よりも君達はまだ幼い。未来と言うのは、広く世界を知ってから掴むべきものです」
ギルは少し考え込んだようだった。沈黙の後、ギルは帳簿を閉じて立ち上がる。
「今日はありがとうございました。おかげでいいレポートが書けそうです。それじゃあ、おやすみなさい」
「それはよかった。明日、寝坊などしないように気をつけてくださいね」
ギルはぺこりと頭を下げて部屋を出ていく。子供が、理想の夫婦の形としてレオンヴァルトとシャルリアを挙げた。ヤーリッツが何かをしたわけではないが、無性に誇らしかった。
後日、レオンヴァルトとユライが「ギルに“一位の座を奪うのは諦めましたが、それはそれとしてどれだけ世界を知られても大丈夫なように頑張ります”と言われたんだが、一体何の話だと思う?」「さぁ。元々何考えてるかよくわからない奴ですからね。常人には視えないものが視えてるんじゃないですか?」と不思議そうに話していたのだが、ヤーリッツはそれを知らないので何の説明もできなかった。
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