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この結婚は契約であり  作者: ほねのあるくらげ
第三条

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26/42

家族として、互いに助け合うべきである。 2

* * *


 結局レオンヴァルトが行舎を出ることができたのは、次の日の夜だった。後処理のためにほか数名の行員達とともに行舎に泊まり込み、行員達を帰していく中で自分だけ帰るタイミングをなくしたまま終業時間まで残ることになったのだ。

 こうやって一人で休む間もなくあれこれと抱えては、むしろ効率が落ちてしまう。それはよく知っているのだが、少なくとも今回のような有事の際は会長(トップ)がその場にいたほうが都合がよかった。休憩自体は適宜取っていたので問題ない。

 働き続けた行員は、出社したばかりの行員と交代させてさっさと休ませればいい。レオンヴァルトの代わりに決済を行える権限を持つ者達をいちいち呼びつけるより、彼らの本来の仕事をさせていたほうが無駄がない。金の流れを追うのに休息などあってないようなものだが、だからと言って労働力じんざいを使い潰す気はレオンヴァルトにはなかった。機械を長く使うコツは、仕様書に沿った使用法を続け、適切なメンテナンスを定期的に行うことだからだ。

 本物の機械の話であれば、時には維持費より新設備の購入費のほうが費用面で優れることもあるが……人間についての費用対効果にそれは当てはまらない。優秀な人材を維持しつつ、新たな人材を育成する。それを両立させるには、まず今いる行員はぐるま達を丁重に扱うのが第一だ。

 冷たい風に追い立てられないよう外套を着込み、まだ中に残っている行員がいないか確かめてから外に出た。夜間の警備員に会釈をし、凍てつく月を見上げる。敷地内の停車場に停めてある馬車はランサス家のものだけで、迎えに来た御者のペルゲンはレオンヴァルトの姿を認めると帽子を取って頭を下げた。ペルゲンは御者台を降り、レオンヴァルトのために馬車の扉を開けようとする。


「ランサス氏!」


 女性の声で呼びかけられて、馬車に乗り込もうとした足がはたと止まる。声の主に心当たりがあった。


「これは驚いた。まさかニングリー女史自ら来ているとは思わなかったよ。アイン・ゴルトミュンツェ社の記者なら、すでに広報課の担当が取材に応じたと聞いていたんだが」


 振り返った先にいたのは、想像通りの人物だった。レオンヴァルトも購読している経済新聞、それを手掛ける出版社。二十五歳の若さで副編集長の座につく才媛は、レオンヴァルトを見て微笑んでいた。


「今回の混乱に最も素早く、そして正確に対処なさった氏の手腕、称賛されるべきものだわ。今ごろは、貴方達ランサス銀行を褒めそやす記事が印刷されていることでしょう」

「なら、明日は新聞が一つも届かなくても問題ないかもしれないな。新聞なら他所からも取っているが、どの社の記者も同じことを言っていた。内容がわかっているものに目を通すほど、私も暇ではないんだ」


 レオンヴァルトは大仰に肩をすくめる。副編集長もくすくすと笑った。


「では、私はこれで。遅くまでお疲れ様、ニングリー女史。気をつけて帰りたまえよ」

「あら、乗せていってはくれないの?」


 視線を向けられたペルゲンは、気まずそうに手を止めてレオンヴァルトをうかがう。レオンヴァルトは溜息をついた。


「申し訳ないが、君を乗せることはできない。どこに君の子飼いのカメラマンがいるかわからないからね。ありもしないスキャンダルを捏造されるのはまっぴらだ」

「そんなもの、連れてきていないわよ!」


 副編集長はまなじりを吊り上げた。月の冴えた光だけが、レオンヴァルトもよく知る理知的な風貌を照らす。夜の闇の中にあるせいか、その美貌はより迫力を増したように見えた。


「そうかい。それはよかった、アイン・ゴルトミュンツェはまだ私の購読に足る経済紙だということか。低俗なゴシップ誌に成り下がっていたのなら、契約を切らせてもらうところだったよ」

「貴方に会いに来たのは、仕事とは関係ないわ」

「なんだって? 君が私に、プライベートの用事? ますます信じられないな」


 眉根を寄せたレオンヴァルトに、副編集長は唇を噛む。「いきなり押しかけられて貴方も困惑したかもしれないけど」切り出した彼女は、まるで怯えているようだった。


「通信塔の誤報の件で……エープル商会の会長が、自殺したわ」

「それはそれは。お悔やみ申し上げよう。エープル商会とは一年前に契約を打ち切って以来一度も取引をしていなかったから、うちの連絡網から外れていたんだろうな」


 重々しく切り出されたから、何かと思ってみれば。わざわざ夜の寒空の下で聞くまでもない、どうでもいい話だった。だってそうだろう、縁もゆかりもない赤の他人のことなのだから。

 二番目の妻の父、元々は顧客だった貿易商の男は、すでにレオンヴァルトにとってなんの利益ももたらさない存在に成り下がっている。綺麗さっぱり取引関係を精算して、仕事上の付き合いすらなくなった商人なのだ。どうなろうと知ったことではない。


「エープル商会のお金の流れに、不自然なところがあったみたいで。他国の株を不正に売買したり、偽の株取引をでっち上げて帳簿をごまかしたり……今回の事件を捜査する中で、それが浮き上がったんですって」

「ああ、敵を作りすぎていて高飛びしようにもできなかったのか。さては両替詐欺にも手を出していたんじゃないかな?」

「……ランサス氏、全部貴方が仕組んだことじゃないわよね?」


 彼女の怯えの理由がようやくわかった。彼女は、自分を恐れていたのだ。それがあまりにもおかしくて、レオンヴァルトは思わず笑ってしまった。

 

「そんなことを訊くためにわざわざ来たのかい? どうやらアイン・ゴルトミュンツェは私が思っていた以上に暇らしい。ニングリー女史、君は少しばかり私を買いかぶりすぎているようだ」


 確かに、元取引先の黒いネタはいくつか知っていたし、通信塔の誤報の件で事情聴取に来た警察には、一市民として影響がありそうな商会・・・・・・・・・・についての話はした。だが、決定的なことは何も言っていない。この短時間で犯罪を暴いたのは、ひとえに警察機構が優秀だったからだ。

 レオンヴァルト自身はもちろんランサス家は、犯罪には手を染めていない。取引先に対しても、黒いところがないか目を光らせている。犯罪を犯しても、得られるのはリスクだけだ。だからこそ、法の網をかいくぐる。決して犯罪行為として立証されないように、不利益を被ることのないように。そのために、顧問弁護士エルドーレンをはじめとした選りすぐりの弁護士団がいる。

 今回摘発されたらしいエープル商会の不正は、ランサス銀行と縁が切れてからのものだ。別の銀行家と契約して黒い知恵を仕入れたか、あるいはランサス銀行のような万全のサポートが得られずに犯罪計画がお粗末なものになったのか。どちらにせよ、ランサス銀行は完全に無関係だと言い切れるタイミングまで待って、すべてを暴露するつもりではいた。

 とはいえ、通信塔の誤報は完全に偶然だ。いくらエープル商会が他国の株絡みで不正を行っていたとはいえ、エープル商会を潰すのにわざわざそこまで手の込んだことはしない。他の無関係な犠牲が大きすぎるからだ。


「レオン。貴方は、貴方を侮辱する人を許したためしがないでしょう? 貴方が小児性愛者だなんて根も葉もない噂を流したのはエープル商会のご息女だわ。でもエープル商会が没落したから、彼女はもうそんな、」

「リガレータ、君も私の愛を疑っただろう? 君の場合は、外で吹聴しなかっただけ分別があったが」

「あれは……だって他に、わたしを拒む理由が思いつかなくて……! 本気でそう思ってたわけじゃないわ!」

「ああ、君を信じきれなかった私にも非はあった。君に対して、私はずっと不誠実だったよ。だから、それについて君を責める気はないさ」


 レオンヴァルトの眼差しに、彼女は何を見たのだろう。リガレータはただ口をつぐんで目をそらした。その才能を遺憾なく発揮して職業婦人として大成した元妻に向け、レオンヴァルトは言葉を続ける。


「君と離縁した理由はただ一つ、君が姉夫婦の遺産に手を出そうとしたからだ。君が考えた姪への教育方針は私の希望とは大きく違っていたし、金は私の……ランサス家の金じゃない。私の妻だからといって、あの金の管理を任せたつもりはなかったんだがね」

「……ええ、わかってるわ」


 彼女はかつて、まるで売り飛ばすかのようにクリスフィアを勝手に別の場所へ養子に出そうとした。そんなことをしても、レオンヴァルトには彼女との子供を作ることはできなかったのに。

 あまつさえ、彼女はクリスフィアが継ぐべき姉夫婦の金を着服しようとした。幼い子供クリスフィアには過ぎたものだからと、一方的に決めつけて。もっと別の、建設的な夫婦の何かに使おうという意見には賛成できなかった。 

 アイン・ゴルトミュンツェ社の副編集長、リガレータ・ニングリー。彼女の手掛ける経済紙はレオンヴァルトも愛読している。だが、それはあくまでも有益な情報が載っているからだ。離婚してからこれまで一度も私的な時間に彼女と会ったことはなく、仕事の場で会おうものなら徹底して“ランサス氏”と“ニングリー女史”として振る舞っている。どちらから言い出したわけでもなく、自然とそういう関係に収まった。二人がかつて夫婦だったことを知る者は、その凍てついた様子を見るたび震え上がっているらしいが、レオンヴァルトの知ったことではない。


「だけど……ランサス氏、これだけ聞かせてちょうだい。エープル商会を潰したら……次は、わたしの番なの?」

「ニングリー女史、しばらく見ない間に君の知性は錆びついてしまったようだね。実に嘆かわしいことだ。……たとえ敵と定めた者が相手だろうと、利用価値があるうちは何もしないよ。どれほど嫌悪しようとも、なんらかの利益をもたらしてくれるというなら目をつぶるさ」


 元妻ともあろう者が、恐怖で判断力を狂わせるなんて。胸に渦巻くのが落胆とも失望ともつかないまま、レオンヴァルトはペルゲンに目配せをする。ペルゲンはすぐに馬車の扉を開けた。帰路につく前の目的地として、何件か馴染みの店を小声で囁く。ペルゲンは心得たとばかりに頷いた。


「君は昔から、とてもいい記事を書いていた。視野が広くて公平で、革新的だ。君を副編集長に据えたアイン・ゴルトミュンツェの目は正しい。……私には、君の優秀な頭脳を継ぐ者の父親になる気こそなかったが……その才能を潰してしまうのはあまりに惜しいと、今でも思っているよ」


 リガレータは何も答えなかった。だが、これだけで意味は伝わっただろう。

 レオンヴァルトを乗せ、馬車の扉が閉まる。レオンヴァルトは振り返らなかった。

 ペルゲンは彼女に一度だけお辞儀をして、そそくさと御者台に戻る。馬車がゆっくりと走り出した。わずかな振動を探るように、レオンヴァルトは目を閉じた。




「お帰りなさい、レオン様」

「お父様っ! お帰りなさいまし!」

「ただいま、二人とも。昨日はすまなかったね」


 駆け寄ってくるクリスフィアの頭を撫で、悠然と佇むシャルリアに微笑みかける。抱きついてくるクリスフィアは温かかった。一日家を空けただけだが、なんだかひどく懐かしい気がする。


「フィア、シャルリアにわがままを言って困らせはしなかったかな?」

「はい、お父様! わたし、とてもいい子にしていました! ね、お母様!」

「ええ。こんないい子は国中のどこを探してもいないでしょうね」


 何気なくかけた言葉に、クリスフィアは頬を赤らめさせて元気よく答える。シャルリアも幸せそうに頷いた。二人の関係に何か変化があったことにレオンヴァルトは気づいたが、わざわざ口に出そうとはしなかった。


「それはよかった。じゃあ、これはいい子で待っていたご褒美だ」

「わぁい! おみやげ、ありがとうございます!」


 屋敷に帰る前に立ち寄った店で買った、うさぎのぬいぐるみをクリスフィアに渡す。クリスフィアはそれを嬉しそうに抱きしめた。

 シャルリアにはバラの香水だ。贈り物を確かめて、シャルリアはうっとりと礼を言った。彼女は、自信に満ちた笑みを浮かべている時が一等美しい。まるで妖精の女王のようだ。


「でもね、お父様、今日はわたし達からもおみやげがあるんです! おいしいチョコレートですけれど、食べたら歯をみがいてくださいな。虫歯になってしまいますもの」

「ありがとう、いただくよ」


 レオンヴァルトはクリスフィアの額にキスをする。クリスフィアはくすぐったそうに微笑んだ。

 

「レオン様、随分お疲れのようですわね。食事はいらないと聞いていましたけれど……早くおやすみになられたほうがいいのではありませんか?」

「色々あってね。湯浴みだけ済ませてくるから……ハーブティーを淹れてくれるかい? 君の淹れたハーブティーは、とても落ち着く味がするんだ」

「ええ、もちろん。すぐに用意いたします。風味に合うチョコレートも一緒に。……歯は、磨いてくださいましね?」


 シャルリアは悪戯っぽく付け加えた。レオンヴァルトは苦笑して肩をすくめる。なにか気の利いた言葉を返そうと思ったが、うまく声が出なかった。

 徹夜で仕事をこなして、元妻に会って。疲れた。とても疲れる一日だった。今はもう、何も煩わしいことは何も考えたくない。


「ッ、レオン様!? ああもう、こんなところで寝ないでくださいな! 湯浴みは明日の朝になさい、今日はもうおやすみになったほうがよくってよ!」

「……ハーブティーと、チョコレートは、欲しいなぁ……」

「もう! お持ちしますけど、まず貴方を寝室にお連れするのが先ですわ!」

「たいへん……! 今日のお父様、とてもとてもおつかれなのね!?」


 シャルリアとクリスフィアの声にはっとして目を開ける。盛大にバランスを崩したのだ。すんでのところでシャルリアが支えてくれていたため倒れることはなかったが、寝言か何かを言った気がする。今、何を考えていたっけ。

 それを思い出す前に、シャルリア達によって寝室まで連れていかれた。シャルリアに肩を貸され、クリスフィアにぐいぐいと手を引かれて進む姿は情けないが、二人を払いのけられない。ユライにおぶられるよりはましだろう。

 ただひたすらに眠かった。油断したら浴槽の中で眠ってしまいそうだ。確かに、今入浴するのはやめておいたほうがいいかもしれない。我が家に帰り着いたことで糸が切れ、一気に疲労と眠気が押し寄せてきたのだろうか。頭に靄がかかっているような気がする。

 それでも多分、シャルリアとクリスフィアが選んだチョコレートを食べて、シャルリアの淹れてくれたハーブティーを飲んで眠れば、何事もなかったかのように明日を迎えることができるのだろう。 


* * *

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