夫婦の間における報告、連絡、相談は日常的に行うものとする。 2
「おはよう、シャルリア。目覚めの紅茶はいるかい?」
「……おはようございます、レオン様。いただきますわ」
眠い目をこすりながら起き上がる。ベッドの側のテーブルに腰掛けていたレオンヴァルトがティーカップを手に微笑んだ。
昨夜は夫婦で決めた共寝の日。ただ寄り添って同じ寝台で眠るだけの淡白な、けれどとても満たされる時間だ。ネグリジェの上に上着を羽織り、シャルリアはティーカップに手を伸ばした。時計を見る。七時半。少し寝坊してしまったが、今から支度すれば朝食には間に合うはずだ。
「そうだシャルリア、今日は何か予定はあるかな?」
「いいえ。何かご用件がおありですの?」
シャルリアの予定など、とっくに把握済みだろうに。シャルリアは口角をわずかに上げる。案の定レオンヴァルトはシャルリアの返事を予想していたようだ。彼はよどみない動きでテーブルの上にあった本をシャルリアに渡した。
「なら、これを君に貸そう。暇潰しぐらいにはなるんじゃないかな。読んだら是非感想を聞かせて欲しい」
「この本は?」
「離れに住んでいる小説家が書いた物さ。新刊らしい。つい今朝がた、出版社がそれを持ってきたんだが……あいにく、私には文学はさっぱりでね。売れるか売れないかならまだわかるが、面白さについてはよくわからない。私の手元にあるより、君が持っていたほうが有効活用できるだろう」
「あら。なら、読んで聞かせてさしあげましょうか」
「以前作者本人から原稿を見せてもらったからね、内容ならすでに把握している。まあ、君の声で読み聞かせてもらえばまた違った感想を抱くかもしれないな」
軽口を軽口で返し、レオンヴァルトは肩をすくめた。手にした本の表紙をそっとなぞる。大衆向けとは思えない高級感のある装丁だ。
「貴族女性を読者層にしたいのですね。これをサロンで広めてくればよろしいのかしら?」
「そういうことだ。その小説家、普段は中流階級向けの大衆文学を書いていてね。それなりの知名度が出てきたから、上流階級にも売り込もうと思って」
「娯楽は誰にだって必要ですもの、いいお考えかと」
修道院にいたころは、こんなものに堂々と触れる機会もなかったが。あの頃は嗜好品のほとんどが禁止されていて、年配の修道女達の目を盗んでそれらを楽しむ若い修道女達がいて……彼女達のはしゃぐ声を聞きながら、遠巻きに眺めているだけだったっけ。腰掛け修道女達の空気になじめなかったシャルリアが、彼女達の輪に入れたことは一度もなかった。
灰色の記憶にそっと蓋をする。過去は過去、今は今だ。かつて手に入らなかったすべてが、今では好きなだけ手に入るのだから。
「よろしく頼むよ。……ああ、それと来週なんだが、よかったらオペラを観に行かないかい? 特等席の桟敷を押さえてあるんだ。フィアも一緒だが、静かにしているから心配はいらないよ」
「オペラですって? 素晴らしいですわ!」
ああ、ほら。誰が想像しただろうか。あの落ちぶれた令嬢のシャルリア・レティラが、こんな輝かしい日々を送っているだなんて。
「レーシャにはもう会ったかな? ギルの姉で、我が家が後援している歌姫のたまごなんだが……彼女が出演する舞台が始まるらしくてね。君もきっと楽しめると思うよ」
「確か彼女も別邸に住んでいるんだったかしら。楽しみにしていますわ。……ねえレオン様、観劇のためにドレスを新しく仕立てても構わないかしら?」
わかりきったことを尋ねる。先のレオンヴァルトと同じように。
あくまでも形だけの確認に対するレオンヴァルトの返事は、シャルリアの予想通りのものだった。
*
シャルリアの目からはらはらと大粒の涙がこぼれる。だが、それはなにも彼女自身に悲しいことが起きたからではない。読んでいた小説の主人公に、感情移入しすぎてしまったからだ。
読むように言われ、義務感で開いた小説だったが……気がつけば、すっかり時間を忘れて没頭してしまった。昼下がりの手慰みにと始めたはずなのに、気づけばすっかり暗くなっている。そろそろ夕食の時間になりそうだ。
(つまらない話ならどうしようかと思ったけれど、この本ならサロンでも胸を張って紹介できるわね)
ページをめくる手を休ませずに文章を追ったかいがあり、なんとか食事前にすべて読み終わることができた。そうでなければ、せっかくの美味しい食事の味が、物語の続きが気になってわからなくなっていただろう。
充足感とともに本を閉じる。後でもう一度、ゆっくり読み返そう。お気に入りのサロンに出入りしている婦人達の顔と嗜好を思い浮かべながら、推薦の言葉を考える。どう言えば彼女達が興味を持ち、この感動を味わってもらえるだろう。なんとかしてこの感情を共有したい。メイドのメルツィスカが呼びに来たのでいったん思考を現実に引き戻したが、心は浮足立ったままだった。
「シャルリアさん、なんだかとてもうれしそうね? 今日はお部屋にいたみたいだけど、何か楽しいことがあったのですか?」
「ええ、とても面白い本をレオン様に貸していただいたの。フィアにはまだ少し難しいお話かもしれないけれど、よかったら読んであげましょうか」
「うん! 難しくなんてないです、ご本はわたしも大好きですもの!」
戯れの提案に、クリスフィアは目を輝かせて頷いた。そんなシャルリア達を見て、レオンヴァルトはまぶしげに目を細めている。
「気に入ってもらえたなら何よりだよ。作者の男は人とめったに会いたがらない性質だが、感想の手紙ならいつでも受け付けているだろう。君さえよければ、使用人に託けたらどうかな」
「ええ、是非そうさせていただきます」
推薦の言葉の原稿にもちょうどいい。あの素晴らしい小説を書いた相手に自分のつたない文章を見せるのはしのびないが、だからこそそこまでしようと思うほど心を動かしたことを知ってほしかった。
「今日は遊び相手になれなくてごめんなさいね、フィア。でもその代わり、明日一緒にお出かけしない? 新しいドレスを買いに行くのよ。レーシャの晴れ舞台を見に行くんだから、それにふさわしい格好をしないと」
「シャルリアさんとお買い物? 行きたいわ! お買い物ならきっとリコッドに行くのでしょう? 楽しみです! お父様も来てくださいますか?」
「おや、私もお邪魔していいのかな?」
無邪気にはしゃぐ娘、優しげな表情でワイングラスを傾ける夫。美しいシャンデリアに照らされた、豪勢で温かい食事の並ぶ食堂。そして恭しく給仕をして回る使用人達。絵に描いたような、裕福で幸福な家庭だった。これが実利の元で成り立った虚像だなんて誰も信じないだろう。
ランサス家の絆など、利権で結ばれたものに過ぎない。強欲な男と傲慢な女、そして孤独な少女がごっこ遊びに興じているだけ。けれどシャルリアは間違いなく幸せだ。その想いは、偽りなどでは決してなかった。
*
「すまないシャルリア、急な仕事が入ってね。リコッドへは二人だけで行ってくれるかい?」
翌日の朝、会って早々レオンヴァルトは申し訳なさげに眉根を下げた。
とはいえ近侍のユライの手を借りながら慌ただしげに身支度をしている姿を見れば、文句の一つを言う気も失せる。「かしこまりました、お気をつけて」休日にもレオンヴァルトが火急の用件で仕事に行く姿はこれまで何度か見たことがあったので、シャルリアは落胆を隠して微笑んだ。
「旦那様、馬車の用意ができました。朝食は、移動中に摂れる簡単なものを用意しております」
「ああ、ありがとうヤーリッツ。留守のことは頼むよ」
執事のヤーリッツが恭しく一礼する。小姓のギルから鞄を受け取り、レオンヴァルトは慌ただしげに出ていった。
「一体何があったのかしら?」
「なんか、レオン様の銀行で取り扱ってる他国の株に大きな変動があったみたいですよ。秘書の人から電話がありました。なんでもその国でちょっとした政変があって、大暴落したとか。情報の精査とか、売買の手続きとか、やらなきゃいけないことが山積みらしいです。僕は銀行の仕事には全然かかわってないので何とも言えないですけど。でもレオン様が事前に気づけないなんてことはありえないと思うので、誤報だと思いますよ。それでもちゃんと確認はしなきゃいけないんだから、大変ですよねー」
どこか他人事のような調子ではあるが、ユライの口から流れるように言葉が溢れ出す。しかし途中でヤーリッツに睨まれ、ユライは取り繕うように笑った。
「いや、ですから絶対に誤報ですって。奥様が心配することじゃありません。仮に本当だったとしても、あの人は相当財産隠し持ってますからね。ちょっとやそっとじゃ揺らぎませんよ、レオン様もランサス家も。奥様もそんな不安そうな顔しないでくださいよ、何も問題ありませんから」
「? ええ、そうでしょうとも」
不安そうな顔などしていただろうか。頬に手を当てる。よくわからない。
もしそんな顔をしていたとしたら、ランサス家が富を失うことに対してに違いないだろう。そうに決まっている。
(だけど……彼は、無限の金貨袋を自称する男よ? 離縁されてこの生活を失うことは確かに怖いけど、ランサス家の財政を不安に思う要素がないのよね)
何が不安だったのかを辿る。
レオンヴァルトがばたばたと出ていったことに対して、大変そうだとは確かに思った。働きづめは身体によくない。たまの休日ぐらいゆっくりすればいいのに。そうだ。金貨袋が破れては、いくら金貨が湧いても意味がない。
シャルリアは、その先にある答えに至る前にそう納得した。
シャルリアが抱いたのは、正確には不安ではない。落胆だ。彼女自身もそれに気づいてはいなかったが、ユライが「不安そうな顔」だと評したその切なげな表情の意味は一つだった。
――――もっと一緒の時間を、過ごせたらよかったのに。




