夫婦の間における報告、連絡、相談は日常的に行うものとする。 1
(眠ったみたいね)
ベッドの上で安らかな寝息を立てるクリスフィアを一瞥し、シャルリアは手にしていた童話集をぱたりと閉じた。
シャルリアは婦人達との社交、クリスフィアは勉強と、平日の昼は何かと忙しい。そんな中、夕食を終えた後にクリスフィアがおずおずと本を差し出してきた意味を掴めないシャルリアではなかった。
渡された童話集は内容のほとんどが文章で構成されているが、クリスフィアの学力なら自力でも十分読めるだろう。寝る前の読み聞かせという行為自体を求めるなら、彼女のメイドのロザルデにでも頼めばいい。それでもクリスフィアは、シャルリアを指名した。なら、自分はそれに応えなければいけない。
ふっくらとした頬があまりにも柔らかそうで、思わずつつきたくなる。起こしてはいけないから、とその衝動をなんとかこらえ、シャルリアは本をサイドテーブルの上に置いて立ち上がった。明かりを消して、静かに部屋を出る。
(もしも、わたくしに子供がいたら……)
何の問題もない健康な身体を持ち、美しい伯爵令嬢と縁づくに足りるだけのものをもつ夫がいて、そんな彼との間の子供を産んだら。その仮定の未来は想像もできなかった。子供はどちらに似ているかとか、理想の夫はどんな見た目でどんな雰囲気なのかとか。代わりに思い浮かんだ情景の中にいたのは、レオンヴァルトとクリスフィアだった。
シャルリアとクリスフィアでは、母娘と言うより年の離れた姉妹だと言ったほうが近いだろう。童顔のレオンヴァルトも同様だ。三人並べば、家族と言ってもまるで三兄妹のように見えるかもしれない。それが少し面白くて、くすりと微笑んだ。
「シャルリア、少しいいかな?」
「レオン様! もうお帰りでしたのね。ごめんなさい、気づかなくて」
「いいんだ、フィアの部屋にいたんだろう? ギルから聞いているよ、あの子を寝かしつけてくれてありがとう。……ただいま、シャルリア」
「はい、お帰りなさいませ、レオン様」
私室に戻ろうとするシャルリアを呼び止めたのは、残業を終えてようやく帰宅したレオンヴァルトだった。鞄と上着だけはもうギルに預けていたらしい。彼はそのまま「話しておきたいことがあるんだ」と居間に向かった。
確か今日遅くなったのは、どこかの得意先との会食の予定があったからだったはずだ。帰りが遅いこととその理由は朝の時点で聞いていたので、シャルリアは使用人達にお茶の用意だけ言付けてレオンヴァルトについていった。
「さて。シャルリア、君はエマリー嬢の家名を知っているかな?」
「あいにく、失念してしまって。王都でも名高い家の生まれだと、ご自身が吹聴していらしたことは覚えているのですけれど」
「名高い家、ねぇ。まあ、間違っているとは言いづらいが……しょせんは過去の栄光さ。名ばかりが立派でも、何の役にも立ちはしない」
ソファに座り、レオンヴァルトはやれやれと首を横に振った。どうして急にエマリーの名前が出てくるのだろう。眉根を寄せるシャルリアに、レオンヴァルトは軽く告げる――――今日、彼女の父親に会ったのだ、と。
「エマリー・セラーデ。それがエマリー嬢の名だ」
「セラーデ……もしかして、あの伯爵の?」
「ああ。諸々の打診は丁重に断ってきたがね。もしそれで君がエマリー嬢に小言を言われても聞き流してくれていいし、そもそもセラーデ家とはかかわらなくていい。それと、あのターチス商会という商会の人間ともね」
「言われなくてもそのつもりです。向こうから会いに来たとしても、わざわざ時間を作る義理はありませんもの」
修道院の誰もエマリーの虚飾に気づかなかった。もしかするとエマリー自身も、わかっていなかったのかもしれない。自分の家が没落しかけているだなんて知っていたら、シャルリアを嘲る行為は慎むはずだ。その言動が、すべて自分に返ってくるのだから。
シャルリアの暮らしぶりが修道院にいたころとまったく異なっているのは、あの夜会でエマリーも察しただろう。自分より下だと思っていた年増女が、高価な服飾品に身を包み、見目麗しい資産家の妻になっている。おまけにその資産家は―すべて計算だとはいえ―シャルリアを愛し、丁重に扱っているのだ。エマリーにとっては面白くない話だろう。
自分のほうが優れているのだと、ことあるごとにひけらかしてくるエマリーに付き合っている暇はない。夜会の時に声をかけてきたのだって、シャルリアが惨めな暮らしをしているに違いないと思い込んでそれを嗤いたかったからだろう。
ところが蓋を開けてみれば、それはエマリーの思い違いに過ぎなかった。となると次に彼女がやりそうなことといえば、シャルリアを引きずり下ろそうと躍起になるか、あるいは対抗心をむき出しにして無理やり優位性をアピールしてくるかのどちらかだ。どちらの姿も容易に想像できた。どちらにせよ、付き合っていられないことに変わりはない。
「セラーデ家は今、弾ける寸前の風船のような状態だ。借金は空気と同じだよ。大きく膨らんでいるから立派に見えるが、それは借金の力に過ぎない。ほんの少しの刺激を与えるだけで破裂してしまう。金貨袋が貯め込んだ金貨のおかげで膨らむのとはわけが違うんだから」
「けれどみな、セラーデ家にあるのは金貨袋だと誤解してらっしゃるのね? 借金のおかげで、羽振りはいいように見えますもの」
「その通り。今の時点でセラーデ家の財政難を察しているのは、主に私の同業者ぐらいだろう。もっとも、いずれ知れ渡ることになるだろうが。支払いが滞れば、商人達は容赦しないよ。当然、返済を拒まれた金貸しもね。恥をかきたくなければ、潔く身の回りの整理をするか、さもなくば何かの奇跡に期待するしかない」
貴族らしい生活を送るために、一体どれほどの借金が重ねられたのだろう。他人事ながらぞっとする。聖シュテアーネ修道院育ちというブランドにだって多くの金をかけたはずだ。だが、風船が破裂すればそれらすべては台無しになる。それどころか、いつまでも虚栄に固執していた愚か者だと言われることになるだろう。
「言っておきますけれど、わたくしは“あの子を助けてあげないと”などと言うつもりはございませんわ。だって、わたくしには関係ありませんもの」
「おや、彼女の優位に立たなくていいのかい? 彼女のせいで、修道院ではずいぶん面白くない目に遭っていたと思っていたが」
「ええ、確かに嫌な思いは何度もしました。ですが、素直に施しを受ける子ではありませんから。謝罪や感謝があるとは思えませんし。手を差し伸べたところで不愉快な気持ちになるのなら、最初から何もしないほうがいいではありませんか」
聖女ごっこに興味はない。エマリーがそんな危うい均衡の中にいたと知り、湧き上がってくるのは嘲謔と憐憫の念だった。
直接「お気の毒ね」と言ってやりたい気持ちはあるが、きっと口角が上がるのを抑えきれない。そういった意味でも、エマリーには会わないほうが無難だろう。と言っても、悪感情のない聖人の皮を被りたいわけではなかった。単純に、あの娘と同じレベルになるのが嫌だからだ。
「夜会でエマリー嬢と再会してしまったのは想定外でしたけれど、ランサス銀行もセラーデ家とは関わり合いにはならないのでしょう? 少し安心いたしました。わたくしの今の境遇を知れば、あの子はきっとそれを奪うか泥を塗るかしようとしますもの。それが無駄だということもわからないまま吠える子に、煩わされるのはまっぴらです」
「はは、確かに。……ではここで、もう一つ君の耳に入れておかなければならないことがある。実はセラーデ伯爵に、愛人を持たないかと打診もされた。エマリー嬢はどうか、とね。それがエマリー嬢の意志なのか、それとも伯爵の独断なのかはわからないが」
「なんてこと! けれどあの子は、妾で満足する性質には思えませんわ」
「ひとまず愛人として囲わせて、ゆくゆくは君を追い出して正妻の座に収まるつもりなんだろう。……私は、そこまで節操のない男に見えるのかい?」
完璧に夫婦を演じているつもりだったのに、よもやそんな話を持ちかけられるとは。さすがのレオンヴァルトも、珍しく落ち込んでいるらしい。
シャルリアは―それが何に対してなのか自分でもわからないが―苛立ちを表に出さないよう涼しい顔で答えた。
「ご自分の結婚生活の短さと、離婚から次の結婚までの期間の短さをお考えになったらいかが?」
「……二番目の妻と再婚したのは、一番目の妻と離婚して二年経ってからのことだぞ。二番目の妻と別れて君と再婚するまでだって、一年は間を開けている。交際期間を被せたことだって一度もない」
「交際期間? そんなもの、貴方に必要だったのですか? 試用期間の間違いではなく?」
畳みかけると、レオンヴァルトはしゅんと顔を背けてぶつぶつと弁明じみたことを口にしだした。まるでいじけた少年のようだ。きっと彼がこんな風に子供じみたところを見せてくれるのは、シャルリアの前だけに違いない。少し意地悪をしたかもしれないとは思ったが、溜飲は下がった。
「きっと伯爵は、それだけ周りが見えていなかったのでしょう。大丈夫ですよ、レオン様。わたくし達は、きちんと夫婦に見えています。今日のお茶会でも、わたくし達は仲睦まじいと多くのご婦人からお褒めの言葉をいただきましたもの」
「そうかい? それならいいんだが。よほど私達の振る舞い方が下手だったのかと焦ったよ。結婚して早々愛人を持つなんて不利益しかないことに手を出すと思われるなんて、まったく私を馬鹿にしている。あまりにも心外だ」
頷きながら、感じた怒りの理由を分析する。
シャルリアの夫を、エマリーが奪おうとしたから? エマリーごときが、シャルリアに取って代わろうとしたから? せっかく修道院から出たのに、エマリーに邪魔されそうだったから? きっとどれも正しいだろう。けれど何故か、少し違うようにも思えた。
「エマリー嬢からわたくしの話を聞いた伯爵が、わたくし達の仲を都合のいいよう解釈したのでしょう。あるいは彼女自身が曲解したのかもしれませんけれど。貴方のような素晴らしい金貨袋、どんな手段を使っても手に入れたいと思うのは当たり前でしょう?」
「伯爵にとって計算外だったのは、私に君を手放す気が一切なかったことか。その程度の見極めもできない男が私を意のままに操ろうだろうなんて、本当に嘆かわしい」
「わたくしほど美しく、貴方の性格にも理解があって、おまけに都合のいい女はいませんものね。貴方の妻は、あの子には決して務まりませんわ。当然、フィアの母親も」
「……君と話していると、首輪をつけたのがどちらなのかたまにわからなくなるよ」
強く言い切る。するとレオンヴァルトは目を細め、ふっと微笑んだ。




