両者の合意により結ばれるものとする。 2
「今、なんと?」
開いた口が塞がらないとはこのことか。耳にした言葉が信じられない。父は、シャルリアを嫁がせることを諦めたはずではなかったのか。シャルリアがどこの家にも嫁げないことなど、彼もよく知っているはずなのに。
シャルリアが一生修道院で暮らすというのは、十二のときに何度も父と話し合って決めたことだ。確かにここでの暮らしは幸福だと自信をもって頷けはしないが、それでも他に行くあてがなかったのだから仕方ない。
何もせずに実家にいるより、修道院で細々と生計を立てていったほうがいいと幼心に決めたのだ。それが突然、嫁ぎ先ができただなんて話が違う。
「だから、貴方の結婚が決まったの。伯爵が素晴らしい人を見つけてくださったそうよ。今すぐにでも家に戻ってきてほしいんですって。仕事の引き継ぎについては心配しなくていいから、明後日には発てるようにしてちょうだい」
「そんな、急に言われても……!」
焦るシャルリアに、ヒルデメーラの顔がわずかに渋くなる。「わがままを言わないで」責めるような、呆れるような声にはっとなった。
「先代のレティラ伯爵が夫のよいお友達だったから、わたくしは貴方を受け入れたの。でも、修道女としてここに勤めたいと言うご令嬢はたくさんいるのよ。確かに、決めたのはわたくしだけど……貴方は、そういう子達を押し退けて今までずっとここにいたということを忘れないで。嫁ぎ先が見つかったというのなら、いつまでも置いておくわけにはいかないわ」
「……」
シャルリアの家は、この修道院に継続的な寄付などしていない。それをするだけの余裕がないからだ。わずかばかりの寄付金で修道女になったシャルリア。院長の善意と祖父の交友関係のおかげで手に入れた居場所は、正規の手順を踏まれればあっけなく失ってしまう。それを責める道理はシャルリアにない。シャルリアが聖シュテアーネ修道院の修道女になれたことのほうがおかしいのだから。
シャルリアは未婚の貴族女性で、適齢期は過ぎたとはいえまだ若い。腰掛けではないと訴えたところで、実家から縁談がまとまったと連絡が来ればそれで終わりだ。それを振り切ってまで修道院に居座る気概も力もシャルリアにはなかった。シャルリアを呼び戻したい父と、シャルリアの代わりに裕福な少女に来てほしい院長。二人の利害が重なったというのなら、シャルリアは従うしかない。
「……申し訳ありません。今まで大変お世話になりました」
ぎゅっと拳を握りしめて言葉を絞り出す。それからのヒルデメーラの話は、頭が真っ白になっていてよく聞こえなかった。
*
見送りと称して修道院中の人々が門の前に集まるのは、嫁いでいく腰掛け修道女のための恒例行事のようなものだ。しょっちゅう面倒を見ていた孤児院の子供達、よくしてくれた老修道女。惜しむべき者との心からの別れを済ませたシャルリアは、たったひとつのテリーヌバッグだけ持って辻馬車を待っていた。
「あのシスター・シャルリアが結婚だなんて信じられませんわ」
「あら、どうせすぐ離縁されるわよ。どんな顔をして戻ってくるか楽しみだわ」
「でも、ここに戻ってこられるのかしら」
遠くからくすくすと嗤う声がする。エマリーの取り巻きだ。シャルリアが嫁き遅れた理由は、修道女ならみな知っている。副院長を務めている、お節介で噂好きな中年の修道女が言いふらしてしまったからだ。
「ずいぶんな物好きがいたものね。わざわざ石女を娶るだなんて」
「お父上がうまくごまかしたのかもしれないわよ? どうせすぐにわかってしまうことでしょうけど」
年かさの修道女までもが訳知り顔で囁いている。怒りと恥ずかしさで頬がかぁっと熱くなった。馬車など本当に来るのだろうか。来るなら早くしてほしい。
「シスター・シャルリア」
「……なにかしら、シスター・エマリー」
ちょうど遠くから轍の音と馬のいななきが聞こえてきたとき、エマリーが一歩前に踏み出した。にんまり笑うその顔は、できることなら今日で見納めにしたい。
「どうかお幸せに。わたくし、ずっと前から貴方のことを案じていましたの。適齢期を過ぎたのに独り身で、とてもお可哀想でしたから。でも、こうして無事に縁談がお決まりになったんですもの。わたくし、自分のことのように嬉しいですわ」
「ありがとう。貴方も早くいい人が見つかるといいわね」
「わたくしの心配はなさらないで。すべてお父様に任せていれば大丈夫ですもの。それよりご自分のことを心配なさってくださいな。今は決まった縁談でも、いつ破談になるか……。わたくし、そればかりが気がかりで。ほら、ただでさえ奇跡的に成立した縁談ですのに、再婚となるともっと難しいでしょう?」
必死で聞こえないふりをした。馬車がすぐそこまで来ているのだから仕方ない。だから、それ以上喋らないでほしい。何も知らない子供達に聞かせないで。優しい老女に哀れみの眼差しを向けさせないで。
目を閉じて深呼吸を繰り返す。ようやく馬車が停まった。ヒルデメーラが町から呼んだだけの辻馬車なので、荷物を運びいれる使用人はいない。そもそもシャルリアにそんな経験はなかったので、自分で荷物を積み込むことに抵抗はなかったし、荷物など手に持った鞄しかないため使用人の手など不要だったが。
「それでは皆様、お元気で」
精一杯の微笑みを貼りつけ、スカートの裾をつまんで恭しく一礼する。この場所に戻りたいのか戻りたくないのか、今ではもうよくわからなかった。
*
聖シュテアーネ修道院からレティラ家のあるカリア村までは馬車で一日ほどだ。百年ほど前に隣国に侵略されて以降、レティラ領は衰退の一途を辿っていた。先祖が拓いた土地は荒らされ、大切にしていたものも失われ、今ではどこに何があったのかもわからなかった。
かつてはそれなりに広かった領地も、今では手入れが生き届かず荒れ果てたバルエ山とそのふもとの村が二つばかりほどになってしまっている。所有していた土地のほとんどは、領の借金返済に充てるために売り払ったか、あるいはそのまま借金のかたとして明け渡したからだ。そうまでしても、二つの村とレティラ家の暮らしはいまだ苦しい。村ではろくに作物が育たず、父伯爵も村民に重税を課さないからだ。
バルエ山は売れなかったらしい。きっと、中腹にある不気味に濁った茶褐色の泉のせいだろう。バルエ山にはそういう泉がいくつもあった。土でも溶けだしているのだろうか。
暗い木々の中にある汚らしいその泉の一つには、シャルリアも一度行ったことがある。好奇心から深い山の中を歩いているうちに迷ってそこまで行ってしまったのだ。
見慣れないその泉の中に手を浸すことはためらわれた。幸いすぐに村人達が見つけてくれたが、それ以来シャルリアはバルエ山には近づかなかった。どこをどう歩けば泉に辿り着くかなんてもうわからないが、あの奇妙な色と、何故か泉から湯気が立っていたことだけはぼんやりと覚えている。当時としては嫌な経験だったが、今となってはいい思い出だ。
本当に何もない小さな田舎の道を、御者はきっと不安そうにしながら馬車を走らせていたのだろう。目的地である村に着いた途端、馬車はシャルリアを降ろしてそそくさと来た道を戻っていった。日が暮れる前に大きな街へ着きたかったに違いない。
(心配しなくても、この辺りの治安は悪くないのに)
この辺りは確かに貧しい地域だ。だが、だからこそ悪事に手を染めたところで見返りがない。盗むものがないのだから盗賊になったところで特に暮らし向きがよくなることもないし、村人の全員が顔見知りだ。意味がないし、なによりやりづらいだろう。
そもそも、そんなことをする暇があるなら少しでも真面目に働いたほうがいいとみな知っている。それに、何をしてでものしあがりたいと願うような気概があるのは若者だけだ。その手の若者はみな村を出て町に行っていた。そこでちゃんとした職に就けるので、罪を犯す理由がない。喜ばしいことであり、悲しいことでもある現実だ。
「あれ、お嬢様じゃないかえ? ずいぶんべっぴんさんになったもんだ」
「ゲオ婆さん! 久しぶりね!」
「お嬢様? ほんに帰ってきてくだすったんか!」
「ちょっと色々あって、ね」
「おお、お嬢様だぁ! ずいぶん大きくなりやしたねぇ」
「七年ぶりですもの。みんなも元気そうで安心したわ」
すれ違う村人達に挨拶しながら、記憶にあるものより過疎の進んだ村を歩く。村人達にはよくしてもらったものだ。無能な領主とその娘は決して好かれてはいないだろうが、村に住む父娘としては嫌われてはいなかった。
貴族の家としてはこぢんまりとした屋敷は、手入れすらも行き届いていない。シャルリアが家にいた頃よりも使用人を減らしたようだ。荒れ放題の庭、蔦の這った外壁。ここがもし小さな子供も多いような、都会の街の外れであれば、ここは“領主の館”ではなく“幽霊屋敷”だっただろう。
しばらく前の代ではもっと貴族らしい、きちんとした大きな館に住んでいたと言うが、シャルリアが生まれ育ったのはこの古めかしい館だった。
錆びついた門扉を押し開ける。嫌な音に顔をしかめながらも敷地内へと踏み込んだ。節約のためか、庭や玄関に明かりの類いはついていない。暗い屋敷は静まり返っている。本当に人がいるかも疑わしい。すりきれたカーテンで閉じられた父の書斎の窓から明かりが漏れていなければ、そのまま踵を返したことだろう。
修道院に入ったときに持たされた鍵を使って玄関の扉を開ける。屋敷の中は寒々しかった。きしむ床と階段を足音がわりに二階へ進む。案の定、父は書斎にいた。
「待ちわびたぞ、シャルリア! いやはや、元気そうでなによりだ」
「お父様もお変わりないようで安心いたしました」
男手一つでシャルリアを育ててくれた父。七年前より白髪が増え、やつれてはいるが、それでも浮かべる笑みだけは翳りがない。目の輝きさえも衰えていたら、定型句とはいえこんな挨拶はできないだろう。
(服が……新しい?)
ふと、妙な違和感があった。その正体はすぐにわかる。屋敷内は相変わらずのがらんどうで、調度品などないに等しいのだが……父の身につけているものだけが、やけにきちんとしている。一分の隙もないのりのきいた服は、見慣れないものとしてシャルリアの目に映った。
父、フェルストはもともと身なりに無頓着な男だ。服に金をかけるぐらいなら食費に回す、農民に混じって畑を耕す領主に華美なものは必要ない。常々そう言っていた。もちろん悪いことだとは言わないが、何故急に服装に気遣うようになったのだろう。
「この格好が気になるのか?」
シャルリアの視線に気づき、フェルストははにかむ。小さく頷くと、彼は気恥ずかしげに服の裾をつまんだ。
「実は今日、来客があってな。相応の格好でもてなさなければいけない相手だったんだ。……これを仕立てる金は、その相手からもらったわけだが」
戸惑うシャルリアに、フェルストは窺うように告げる――――お前の夫となる青年だ、と。
「急な話で驚かせてしまったのはすまないと思っている。だが、これはまたとない話なんだ。私も本当にいいのか何度も確認したが、先方は何も問題ないとおっしゃっている」
ほつれも汚れも何もない、新品の服。決して派手なわけではないが、こざっぱりとしたその格好はシンプルだからこその気品があった。その立ち姿は、父であって父でないようにも見える。
「ビアフォル伯爵を知っているだろう? この縁談は、彼が持ってきてくだすったものだ」
ビアフォル伯爵は父の古くからの友人であり、父が借金をしている者の一人だ。ビアフォル伯爵と父の関係を考えれば、たとえそれがうわべだけ取り繕った話であったとしてもシャルリアには断れない。
「相手の名はレオンヴァルト・ランサス。貴族ではないが資産家で、気品や教養もある。願ってもないほどの素晴らしい青年だ。彼が、是非お前を妻にと言っている」
「……お父様は、本当にそう思っていらっしゃるのですか?」
尋ねると、フェルストはわずかに表情をぎこちなくさせた。居心地の悪い沈黙が降りる。父娘の間に余計なおためごかしは不要と察したのか、フェルストは小さくため息をついた。
「直接彼と会ったのは今日が初めてだが、彼からもらっていた手紙からは誠実で真面目な人柄だという印象を受けた。それはビアフォル伯爵からもお墨付きだ。ただ、レオンヴァルト君には二度の離婚歴があり……性的に倒錯している、との噂がある。幼い少女が好きだとな」
「……」
「ビアフォル伯爵はこれを悪質な嘘だとして教えてくれたが、事実レオンヴァルト君は最初の結婚をする前から幼い少女を親戚の子だと言って養女として引き取っていたらしい。離婚の原因はいずれもその養女にある、とビアフォル伯爵はおっしゃっていた。伯爵も詳しくはご存じないそうだが……本人も、その点については否定しなかった。彼は、お前に夫婦としての営みも望まないともおっしゃっている」
ようは、幼女趣味を隠すための偽装結婚である可能性が高いということか。彼の恋愛対象は幼い少女なのだから、十九のシャルリアにはそういった関心を抱けない。養女がいるから、シャルリアが子供を産めようが産めなかろうが構わない。なるほど、確かに願ってもない話だ。相手にとっては、だが。
「レオンヴァルト君は、此度の縁談にあたって莫大な支度金を都合してくださった。持参金は不要だとも言われている。しかも周到なことに、レティラ家が方々にしている借金を、彼はすべて買い取ってしまった。……お前にはすまないが、こちらに断れる理由がないんだ」
「それは……ずいぶんと気前のいい方ですわね」
(願い下げよ、と突きつけられたら楽なのだけど。……ビアフォル伯爵は、借金を理由にしてお父様に相手を紹介したはずよ。それに、相手の男からはもう金が支払われているわ。この身が売り物になるのなら、それも仕方がない……か)
フェルストの借金は、シャルリアにも関係のある話だった。シャルリアがいなければ、フェルストの代で家計が大きく傾くこともなかっただろう。
先祖から受け継いだものである爵位を返上することはためらわれる。しかしシャルリアが資産家と結婚すれば、表向きは全員が幸せになれるし実家の助けにもなった。
元手さえあれば、貴族としての家を建て直す見込みだってあるはずだ。父からすれば、何もできない娘を売り払うことぐらい安いものだろう。たとえそれがどれだけ苦渋に満ちた決断であっても、結果的にそうだというのは変わらない。
「わかりました。謹んでお受けいたします」
嫁ぎ先がどんな家であっても構わない。これは、エマリーに媚を売るのとはまったく違う話だ。
エマリーにへつらったところで実家に見返りが来るわけではないが、レオンヴァルトに媚びれば実家は恩恵を受けられる。そもそも、すでに受け取ってしまった金を無下にはできない。シャルリアは、金で買われたのだ。大金を払う価値のある女だとみなされただけましだろう。
たとえその事実がどれだけ気にくわないものであったとしても、従う以外に道はなかった。




