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この結婚は契約であり  作者: ほねのあるくらげ
第三条

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18/42

夫の仕事について、妻は口を出してはならない。 1

「奥様、今日はこの辺りで終わりにいたしましょう。奥様は飲み込みが早いですから、もう公の場に向かわれても大丈夫かと。旦那様にもお伝えしてまいりますね」

「ええ、ありがとう、ビスカス夫人。でも、レオン様にはわたくしから伝えるから大丈夫よ。貴方のことは、次は本当にお友達として招かせていただくわ」


 その日予定していたマナーのレッスンを終え、家庭教師の女性を相手にシャルリアは微笑む。その笑みに何かを感じたのか、家庭教師は心得たように一礼した。

 今日は休日だ。レオンヴァルトからは外出の予定を聞いていないから、屋敷のどこかにいるだろう。彼を探すシャルリアの足取りは軽い。

 シャルリアはレオンヴァルト以外の男を知らなかった。それでも適齢期を過ぎた身で、うぶな少女は気取れない。好奇心混じりに腰掛け修道女達がこっそり読んでいた大衆小説のおかげで、耳年増と呼べるほどの知識はあった。実際に自分が身をもって知ることになるとは思わなかったが。

 レオンヴァルトは―あくまでも本人の申告ではあるが―久しぶりに交わす情だとは思えないほどの穏やかさでシャルリアの肌に触れたし、それはシャルリアにとっても心地よい温度だった。あとは文字通り、隣で寝ていただけだ。

 二人のその熱とも呼べないような時間は、もし相手の何かが違えば不満をもたらしていたのかもしれない。けれどそんな淡白(うす)い触れ合いこそ、未熟(かた)い自分達にはちょうどよかった。寄り添った肌から感じる自分ではない体温と心音に安心して、ぐっすり寝入ってしまったぐらいだ。

 レオンヴァルトが「無駄だったな」などとぼやきつつシャルリアをベッドから蹴落とそうとしなかったということは、彼も彼で納得のいく何かを認めたのだろう。レオンヴァルトを起こしにきた近侍のユライは、目覚めたレオンヴァルトに抱きつく薄着のシャルリアがいることに気づいて目を丸くしながらそのまま出ていったらしいが。


(おかしいわね。書斎にも、寝室にもいないわ。フィアは庭園でギル達と遊んでいたし、フィアのところにいるわけではないと思うのだけど)


 広い屋敷とはいえ、プライベートな空間である三階を中心に見て回っていればすぐに見つかるはずだ。まだ見ていないのは、かつては義家族の私室だったといういくつかの空き部屋と、一度もドアを開けたことのないとある部屋だけだった。


「この部屋……」


 歩いているうちに、件の謎の部屋に辿り着く。はて、最初に屋敷を案内されたとき、この部屋について執事のヤーリッツはどんな説明をしたのだったか。記憶をひっくり返すが、何一つ思い出せない。素通りされた可能性すらあった。

 念のためにノックをしてみる。「何か用かい?」聞こえてきたのは探し続けていた青年の声だ。シャルリアが名乗ると、あっさりと入室の許可が下りた。秘密の部屋というわけではないらしい。


「失礼いたします。……まぁ!」


 そこはいわゆるコレクションルームだった。ガラス製のショーケースや、天井につきそうなほど高い棚が所狭しと並べられている。分厚い本がいくつも収められていた本棚の前にはくつろぎやすそうな椅子があり、そこにレオンヴァルトが座っている。部屋自体がそれなりに広いため死角も多いだろうが、全体の大部分を眺められそうな位置だ。

 飾られているコレクションはすべて同じだった。鉄道模型だ。ショーケースには様々な風景のジオラマを走る模型があり、棚には多種多様の模型が鎮座している。中々壮観だ。


「これが、レオン様の集めていらっしゃる物でしたのね」

「ああ。他人にとっては価値のない玩具だが、私にとっては貴重な宝だ。自国の主要な列車はもちろん、他国を走る列車もあるよ。一般的に流通している物、非売品に記念品……幼い時から集め続けていたら、こんな数になってしまってね」

 

 レオンヴァルトは少年のように笑った。以前レオンヴァルトの仕事を聞いた時に、鉄道について語られた時だけやけに熱が入っていたのを思い出す。弁護士のエルドーレンも鉄道模型のコレクターなのだろう。結婚についての契約書を書いた時に二人が交わしていた何らかの固有名詞も、列車の名前か何かだったに違いない。


「それで、どうしたのかな?」

「一通りの礼儀作法についてビスカス夫人からお墨付きをいただいたので、そのことをお伝えにまいりました。後は、ダンスをもう少し上手に踊れるようになれればいいのですけれど」

「大丈夫、リードぐらいなら私でもできるさ。既婚であることを理由にすれば、無理に踊る必要もないだろう。向上心があるのは素晴らしいことだが、あれもこれもと一度に手を広げると疲れてしまうよ」

「そうですか? ……では、勉学のほうに力を入れたほうがよいでしょうか?」

「一般教養を身につけたいという意味であれば、好きにするといい。ダンスだろうと勉学だろうとね。納得するまでやりきればいいさ。だが、何事も完璧にこなす必要はないし……仮に、銀行家(わたし)の妻だからという理由で何らかの特化した専門的な学問に手を出すつもりならやめたほうがいい」

「あら。女性(わたくし)に知性は必要ない、と?」

「ははっ。だったら私はフィアに一流の教育なんて施していないよ。人形(きみ)には人形(きみ)の役割がある、ということだ」


 合理主義のレオンヴァルトが本気で性差別的な発言をするわけがないと思いつつ、冗談めかして尋ねてみる。案の定、レオンヴァルトの意図は別のところにあったようだ。


「貴方やランサス家を陥れようと、わたくしを狙って小難しい話をもちかける殿方を、澄まし顔でかわすことかしら?」

「その通り。そういう手合いにとっては私本人よりも妻たる君のほうが取り入りやすく、切り崩しやすいだろうからね。中途半端に知識を得てしまえば君も自己判断を下したくなるだろうし、連中もそれをそそのかすはずだ。わざわざ私の手を煩わせるまでもない、君の答えで十分だ、と」

 

 だからこそ、(さか)しさを身につけた愚者よりも、無知を知る賢者であれ――――ああ、なるほどそれは、ただ美しく在ればいい人形にふさわしい生き方だ。シャルリアはレオンヴァルトのビジネスパートナーではない。そんなシャルリアに必要なのは、その美を最大限に飾り立てるものだけだった。

 白痴だと思われない程度の一般的な知識、真意を見抜く頭の回転の早さ、自分を客観的に見つめる目。それらを兼ね備えた女性こそがレオンヴァルトの好む“賢い女性”だ。それを理解し、美を磨き続ける限り、レオンヴァルトがシャルリアに見切りをつけることはないだろう。


「それでは、そのようにいたしましょう。……ああ、そうでした。話は変わるのですが、一つ提案してもよろしいですか?」

「聞こうじゃないか。言ってみたまえ」

「週に一度、昨夜のような日をもうけませんこと?」

「ふむ。それはどういった理由でかな?」

「夫婦として自然に振る舞うためにも、必要な措置だと思ったからです。それに、とてもぐっすり眠れましたので。……いけませんでしたか? 共寝だけなら、貴方も苦痛を感じないと思ったのですが」

「ああ、確かに君はよく眠っていたね。私も特に不快感はなかった。……わかった、前向きに検討しよう。その場合は昨日と同じく、金曜がいいかな」


 自分で提案したこととは言え、思っていたよりもあっさりと許可が出た。レオンヴァルトは微苦笑を浮かべて肩をすくめる。


「私の悪評を面白おかしく吹聴する者や、豪気にも君に下心を持ちそうな者が社交界には大勢いるからね。そういった下世話な輩をかわすためにも、カードはひとつでも多いほうがいい」

「おっしゃる通りですわね。ご理解いただきありがとう存じます」

「せっかくだから、その時のための寝室もあつらえよう。ヤーリッツとキュラス夫人にも話は通しておく。インテリアは君に任せるから、好きなようにしてくれたまえ」

「かしこまりました。それではわたくしはこれで、」

「待ってくれ。私からも一つ、用事を思い出した」

「なんでしょう?」


 退室の挨拶を告げようとしたシャルリアを引き留めて、レオンヴァルトはおもむろに立ち上がる。そのまま彼はついてこいと言うように目配せをしてコレクションルームを出ていった。きょとんとしながらその背中を追う。レオンヴァルトが向かったのは書斎だった。


「確か今朝……ああ、これだ」


 レオンヴァルトが手に取ったのは、机の上にあった一通の封筒だ。そのままレオンヴァルトは中身を抜いてシャルリアに渡した。


「これは……」

「方々からせっつかれていたんだ。期待は十分高められたし、君もマナーについては問題ないんだろう? だから、この辺りでそろそろ君のことを披露しようかとね」


 流麗な文字で綴られるそれは、とある貴族が催す夜会の招待状で。生まれて初めて赴く華やかな社交界の気配に、シャルリアの指先は小さく震えた。

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