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この結婚は契約であり  作者: ほねのあるくらげ
第二条

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16/42

親子仲および夫婦仲は円満であることが望ましい。 2

「シャルリアか。どうかしたかな」


 レオンヴァルトの寝室の扉は、しばらく経ってからようやく開いた。シャルリアを迎えたレオンヴァルトは先ほどの服装のままだったが、タイだけは取っていたようだ。室内も暗く、柔らかな茶色い髪は手櫛で整えたように少し乱れていた。


「ギルからレオン様が寝室に向かったと聞きましたので、お食事をお持ちしました。ご迷惑でしたか?」


 カートに手を添えたまま、シャルリアは眉根を寄せた。仮に本当に仕事をしていたとしても食べられるような軽いものを料理長のカーメンに作ってもらったのだが、案の定書類仕事を片付けていた雰囲気はない。


「ギルが、それを君に話して……わざわざ配膳を頼んだのかい?」

「いいえ。わたくしがギルから無理に聞き出しました。配膳の役も、わたくしが自分から言い出したことです」


 配膳と言っても、二階に上がるまでは使用人達に手伝ってもらったのだが。部屋までは自分だけでいいと言って、彼らを下がらせただけだ。


「何を……。夕食は二人で食べてくれと言っただろう。フィアは?」

「わたくし達の食事はもう済んでいます。あれから二時間経っていますもの。フィアはもう眠っています。おやすみなさい、と言っていましたよ」

「なんだって?」


 レオンヴァルトは懐から懐中時計を取り出して舌打ちをする。どうやら時間を把握していなかったらしい。道理でいつまで待っても降りてこないわけだ。


「ギルからは、レオン様はまっすぐ寝室に向かったと聞いておりますが……お仕事のほうは、お済みですか?」

「……」


 レオンヴァルトは無言でシャルリアを見た。静かな圧を放つ瞳は、クリスフィアのそれより深くて昏い色をしている。けれどシャルリアを射抜くその眼差しも、ここに立つ覚悟を決めた今では怯むに値しなかった。


「何の真似だ、シャルリア」

「わたくしは妻として当然のことをしているまでですが?」

「そこまでのことを求めたつもりはない。君は人形であり私はその所有者、そして私は金貨袋であり君はそこから金を取り出す権利を持つ者。そうだろう? 人形がいちいち出歩いて、所有者を構うと思うか?」


 レオンヴァルトは取り繕った言葉を吐かなかった。きっとそれだけ今の彼は精神的に不安定なのだろう。普段の彼ならどうとでも言い繕って笑顔でごまかせるはずなのに、ただ強い語調で稚拙にシャルリアを追い払おうとするだけだなんて。


「契約書には、わたくしの自由意思を縛るような条項はありませんでした。それに、わたくしが屋敷の女主人として……貴方の妻として振る舞うことについての許可はいただいています。夫を慮るのは、妻としてなんらおかしいことではないのでは?」


 毅然として言い返すと、レオンヴァルトは言葉を詰まらせた。そしてすぐに諦めたように肩をすくめる。


「どういう風の吹き回しかな?」

「フィアと良好な付き合いができる兆しが見えましたので、そのご報告を。それから、純粋に貴方の体調が悪そうでしたので様子を見に。……金貨袋に穴が開いてしまえば、せっかく湧いた金貨も零れ落ちてしまうでしょう?」


 真顔で続けると、レオンヴァルトはきょとんとした顔でシャルリアを見た。そしてすぐに笑いだす。


「ああ、確かにその通りだ。すまなかった、少し取り乱していたらしい。私らしくもない、つまらない感傷に囚われていた」


 レオンヴァルトは扉を開けたまま、部屋の灯りをともす。明かりに照らされた彼の顔は、いたずらっ子のようだった。


「せっかくだ、入りたまえ。妻と夫がいつまでも部屋の前で立ち話をしているのもおかしいだろう」

「それもそうですね。では、失礼いたします」


 カーメンがレオンヴァルトのために用意した夜食は、夕食の一部をアレンジしたものだ。ハーブティーだけ二人分淹れる。そんなシャルリアを見ながら、レオンヴァルトはサンドウィッチに手を伸ばした。


「手慣れているな。修道院で学んだのかい?」

「いえ、これは実家で身につけました。常に傍に控えている使用人などおりませんでしたから。……お口に合いますかどうか」


 おずおずと差し出したティーカップを、レオンヴァルトは礼を言って持ち上げる。「美味い」小さく呟かれたその声は、シャルリアに聞かせるためというより自然と漏れた言葉のようだった。


「レオン様、何かあったのですか? お仕事のことであれば、わたくしでは何もできませんが……家のことであれば、わたくしにも話していただかないと。だってわたくしは、この家の女主人ですもの」


 クリスフィアと打ち解けられた。その事実がシャルリアに勇気をもたらす。引き下がるだけではだめだ。歩み寄らなければ、たとえ許諾を得たところで真の意味での女主人だと認めさせることはできない。

 シャルリアの意志の強さを感じたのだろう。サンドウィッチを飲み込んだレオンヴァルトは目を逸らし、それでもゆっくりと口を開いた。


「私と姉の仲は、ひどく悪かったんだ」

「そうだったのですか? わたくしはてっきり……」


 シャルリアの前では、誰もそんな素振りを見せなかった。これまでレオンヴァルトが姉のことを話題に上げたことはあったが、シャルリアは一度もレオンヴァルトが姉を嫌悪していると感じたことはなかった。しかしそんなシャルリアの驚きは予想の範疇だったのか、レオンヴァルトは微苦笑を浮かべた。


「喧嘩するほど仲がいい、と言うだろう? 私達の仲はそう取られていた。……事実、あの時(・・・)まではそうだった。私達が決定的に道を違えたのは……私がランサス家の後継者になってみせようと(・・・・・・・・)決意した時だった。姉が十五、私が十二の時だ」

「それは……お義姉(ねえ)様も、ランサス家を継ごうとしていたからでしょうか?」

「いいや。その逆さ。姉さんはランサス家のすべてを心の底から軽蔑していた。金のことしか考えられない、見苦しい成金の家柄だと。姉さんはいつだってランサス家を出て自分の力だけで生きていくことを夢見ていたし、ランサス家に頼ることしかできない子供の自分に苦しんでいた」


 だから、弟がランサス家の思考に染まったのが許せなかった。だから、ランサス家なしでは生きられない自分の矛盾を弟に指摘されていつも怒っていた――――そう語るレオンヴァルトの瞳は、やはり寂しそうで。彼が姉を嫌っていたというのが本心だとは、どうしても思えなかった。


義兄(にい)さんだって、父さんが支援していた芸術家だった。彼はずっと離れの屋敷に住んでいて……だからこそ、私達の幼馴染だった。姉さんは義兄さんの穏やかさに惚れたと言ったが、そもそも義兄さんがのんびり絵を描けていたのも、姉さんと出逢ったのも、ランサス家の庇護があってのものだ。姉さんが口で何を言おうとも、ランサス家と完全に縁を切れるわけがない。……金の魔力を知った者が、それから逃げられるわけがないだろう?」


 シャルリアは無言で頷いた。ランサス家に嫁いでから与えられた、贅を凝らした今の生活。これを知ってからかつてのわびしい暮らしに戻れるわけがない。

 望めば望むだけ、望んだものが与えられる安穏とした日々に背を向けることなどできそうになかった。生まれつきその生活を享受していた者であればなおさらだ。贅沢しか知らない者は、貧しさの中でどんな毎日を送ればいいのか想像もできないだろう。


「経済は常に回り、金は循環していく。けれどその流れは一定ではない。昨日まではこちらにまっすぐ向かってきた金が、ある日突然流れを変えてしまう。……利益を得るためには、ずっと走り続けていなければならないんだ。それこそが貧者が富者に成り上がり、富者が貧者に転落しないための秘訣なんだよ。姉さんにはそれがわからなかった。私のことを変わったと言って、ことあるごとに私をなじった。……私は何も変わってなどいない。私はいつだって、自分にとっての利益を最大限得られる方法を模索していただけなのに」

「……お義姉様は、貴方を誤解してしまったのですね。貴方とは、最初から価値観や考え方が違っていたから。貴方の出した答えがお義姉様の答えと違うものになった瞬間、お義姉様はその貴方を受け入れられなくなったのでしょう」

「ああ。きっと、そういうことだったんだろう」


 弟への態度の是非はともかくとしても、姿勢としては義姉のほうが普通だったのだろう。レオンヴァルトは利益のためなら人心を踏み躙ることも厭わない男だからだ。「倫理で経済が回るのかい?」なんて、そんなことを平然と言うに違いない。シャルリアが結婚したのはそういう男だ。そういう男だったからこそ、シャルリアの一生は買い取られたのだから。


「ずっとフィアのことはダンヴィー似だと思っていて……なのに化粧をしたフィアを見た時、私が想定していたより少女期の姉に似ていたんだ。それでつい、昔のことを思い出してしまった。……どれだけ父親のふりをしてみても、私があの子の本当の父親ではないという事実は覆らないんだ。あの子は私の子供ではなく、姉さんとダンヴィーの子供なんだから」

「血縁関係とはそこまで重要なものなのですか? 少なくともフィアは、貴方を十分慕っているように見えますが。貴方も言っていたでしょう、互いに父娘(おやこ)の情があると。それなのに、まだ足りないとおっしゃるおつもりで?」

「それは……」


 違和感があった。今の言葉は、まるで実父でないことを嘆いているようではないか。こんな風に自嘲気味に実の両親の名など挙げるなど、自分にまだ至らないことがあると思っているかのように見えてしまう。

 見たところ、クリスフィアはまっすぐに育っていたようだった。シャルリアが最初に警戒したように、尊厳を踏みにじられているようには到底見えない。レオンヴァルトは間違いなく父親としてクリスフィアと接していたはずだ。

 もともと姪だったとはいえ、他人の子を実子同然に育てるのは簡単なことではない。レオンヴァルトはクリスフィアが物心つく前から彼女のことを育てていたし、完全な赤の他人だというわけですらないのだから、もっと父親として胸を張ってもいいのではないだろうか。


「そういえばこの前、ギルが貴方に仕えることになった経緯を聞きました。あの流れなら、ギル達もご自身の養子にしてもおかしくなかったと思いましたが。ギルは貴方に似ているところがあります。ギルにもお姉さんがいますし、ギルは貴方と同様の価値観を持っていますから。……そのギルをご自分の養子にしなかったのは、フィアの領分を守るためですか? それとも、ギル達姉弟の仲を壊さないためですか?」

「後継者争いを避けたかっただけだ。ギルはフィアの虫除けにちょうどいいからこそ、フィアと義理の兄妹にするわけにはいかなかった。願わくばフィアの結婚相手は彼であってほしいからな。彼なら、分家の連中や商売敵に左右されることなくフィアとランサス家を守っていける」


 レオンヴァルトの返答はよどみなかった。シャルリアはハーブティーで口を湿らせ、もう一度尋ねる。


「ギルを養子にしなかった理由はわかりました。けれどやはり、貴方が実子を望まない理由がはっきりしないのです」

「……ふむ。いいだろう、夜は長い。部屋に来たのは君だったが、中に招いたのは私だ。最後まで付き合おうじゃないか」


 そう嗤い、レオンヴァルトはティーカップを傾けた。

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