親子仲および夫婦仲は円満であることが望ましい。 1
シャルリアの注文した品が届いたのは、三日後のことだった。
レオンヴァルトに教えてもらったいくつかの商会の中から、シャルリアが愛用しているとあるものを扱っている商会。そこで、普段シャルリアが使っているものと同じ商品を取り寄せた。
ギルと会話したその後に、メルツィスカを通してクリスフィア付きの使用人から様々な確認はした。もちろん購入元の商会にも、レオンヴァルトにもだ。
レオンヴァルトは悪戯っぽく笑って、「なるほど、それはいい提案だ。ではその贈り物のことは、箝口令を敷いておこう。そのほうがきっとフィアも驚く」と言っていた。止められなかったということは、贈っても大丈夫だということだろう。
「メルツィスカ。今日のクリスフィアさんのおやつの時間、わたくしも同席できるようにしておいてくれるかしら」
「かしこまりました、奥様」
メルツィスカは心得たように深く一礼する。もう後戻りはできない。あとはクリスフィアが、シャルリアの贈り物を気に入るかどうかだ。
*
食堂でクリスフィアを待つ。ほどなくして開いたドアからギルとクリスフィアが現れた。シャルリアの同席を聞いていたせいか、クリスフィアの表情は若干硬かった。
「栞、ありがとう。嬉しかったわ」
「お友達には、宝物をあげるのってご本に書いてあったの。……お姉さんはお姉さんだけど、お父様とギルはお姉さんのことを悪く言ってなかったから」
まだ完全な信は得られていないようだ。それでも初対面の時よりは前進しているのだろう。敵ではないと、理解はしてもらえたのだから。
「わたくしは貴方のような愛らしい少女ではなかったけれど……あれを持つと、わたくしでも可愛い女の子になれた気がしたの。だからこれはそのお礼。貴方が、いつか貴方の目指すような素敵な淑女になれますように」
「……ありがとうございます」
丁寧な包装の施された差し出す。クリスフィアはおずおずと包装を解いた。流麗な装飾の施された箱だ。仮に中身がいらないと捨てられても、小物入れとして活用してもらえるだろう。
「箱?」
「ええ。開けてみてちょうだい」
「……?」
中身の予想がつかないのか、クリスフィアは戸惑うように箱を開ける。その顔がぱぁっと輝くのに、そう時間はかからなかった。
「わたくしとお揃いなのは、ごめんなさいね。でもわたくしも、立派な淑女になれるよう頑張っている最中だから。たとえ目標とするところが違っても、手段は同じじゃだめかしら?」
箱の中身は、化粧品の一式だ。ルージュにチークカラー、それから白粉。他にも多くの道具が、クリスフィアに合いそうな色を中心に、普段使いから夜会用まで揃えていた。アイシャドウというらしいまぶたを彩るための粉のような、この国では珍しいものもある。遠い異国では日常的に使われているらしく、この商会と懇意にしてからは珍しさに釣られてシャルリアも愛用していた。
もっとも今回のクリスフィア用の化粧道具は、どれもお試し程度の量しかない。品ぞろえこそ豊富だが、一度か二度使えばなくなる使い切りの品々だ。
けれど、そのどれもが宝石のようにきらきらときらめいている。頬を上気させたクリスフィアは、そっとピンクのルージュを手に取った。
「これ、わたしが使ってもいいの?」
「ほんのちょっぴりしかないけれど。品質的にも体質的にも問題はないはずよ。もちろん貴方は、そのままでも十分魅力的で可愛らしいわ。でもだからこそ、今のうちから触れておくべきだと思ったの」
デビュタントならいざ知らず、まだ七歳のクリスフィアには化粧など程遠い。だから誰も彼女に化粧品を贈ろうなんて思わなかっただろうし、彼女ももらえるとは思っていなかっただろう。
だから、あえてそれを贈ることにした。健やかな成長への願いと、華々しい未来への期待を込めて。
「貴方がもっと大きくなったら、今度は貴方の好きな色や好きな物を好きなだけ揃えるといいわ。どれだけ使っても飽きないように。どんなものがいいか、考えておいてね」
「うん!」
ルージュを大切そうに握りしめて、クリスフィアは花が咲いたような笑みを浮かべた。
クリスフィアのメイドのロザルデが、微笑ましげに手鏡を用意する。それを見ながらクリスフィアは自分の唇に一生懸命ルージュを塗っていた。本来なら化粧はメイドに任せるものだが、自分の手でやってみたいようだ。
「……ねえ、わたしには、どんな色がにあうと思う?」
クリスフィアがそう問いかけてきたのは、ギルやロザルデとああでもないこうでもないと化粧品を選んでいる時だった。彼女の前にはきらびやかなアイシャドウが広げられている。どうやらそこが最後の仕上げらしかった。
クリスフィアの視線はまっすぐにシャルリアを見ていた。ギル達は口をつぐんで一歩下がっている。その問いが彼らではなく自分に向けられているものなのは明らかだった。
「貴方は……そうね、柔らかいピンクがいいわ。甘いリラの瞳にそっと乗せて、優しくまぶたを飾ればきっと素敵よ」
「わかった。じゃあ、ぬってくれますか?」
うかがうような小声の問いに、否と答える声は持たない。シャルリアは小さく肯定の返事を返して立ち上がり、クリスフィアの前でかがんだ。
「さあ、目を閉じて。くすぐったくても動いちゃだめよ」
「だいじょうぶ。がまんすればいいんでしょう?」
意を決したようにクリスフィアは目をつむる。シャルリアが手に取った真新しいブラシは、すぐにピンクに染まった。
粉を軽く落として、少女のまぶたの上にブラシを乗せる。ゆっくりと、慎重に。まぶたは徐々に愛らしく色づいていく。無垢な少女の羽化にはまだ早いが、それでも時計の針はかちりと進んだ。
「さあ、できたわよ。どうかしら?」
目を開けさせて、鏡を見せる。クリスフィアは鏡をじっと見つめていた。数秒の沈黙が永遠にも思える。シャルリアが固唾を飲んだ、その時だった。
「――ありがとう、シャルリアさん」
天使のような微笑を浮かべたその少女の唇は、確かにその言葉を紡いだ。
「いただいたものは大切にします。きっとすぐになくなってしまうけど、大きくなったらまた同じものを揃えます。……だから、今日のことは忘れません」
「ええ。そうしてくれたら、わたくしも嬉しいわ。……フィアがどんな大人になるのか、楽しみね」
クリスフィアの手が、きゅっとシャルリアのドレスを掴んでいる。かがんだまま、シャルリアも手を重ねた。子供の手は小さくて柔らかくて、温かかった。
空いていたもう片方の手で、シャルリアは少女の柔らかいダークブラウンの髪をそっと撫でる。クリスフィアは拒まなかった。クリスフィアの暗くつややかな髪は、きちんと手入れをされた今のシャルリアの髪と少し似ていた。
*
クリスフィアは時計を見ながらそわそわしていた。化粧を施した姿は執事のヤーリッツや女中頭のカロエッタをはじめとした使用人達にも好評で、先ほどまではクリスフィアも満足そうに「お父様にも見せるの!」と、無邪気にはしゃいでいたのだが……いざその時が近づいて緊張しているのだろう。おめかしをした小さな貴婦人と手を繋いだまま、シャルリアはくすりと笑った。
使用人からレオンヴァルトの乗る馬車の到着を告げられて、クリスフィアは跳ねるように立ち上がった。シャルリアも彼女に合せて立ち上がる。
「シャルリアさん、早く早く!」
「あらあら。レオン様は逃げないわよ? 転ばないように気をつけてね」
ぐいぐいと手を引っ張られるも、しょせんは小さな女の子の歩調だ。クリスフィアの歩みについていくことは造作もない。エントランスに着く頃には、二人の歩幅はほぼ同じになっていた。
「お父様、お帰りなさい!」
「お帰りなさいませ、レオン様」
レオンヴァルトはギルに鞄を預けていた。声をかけられ、彼の視線がシャルリア達に向かう。「ああ、今帰っ……」言葉は、最後まで紡がれることなく消えていった。
「お父様?」
「これは……想像以上だったな……」
「レオン様、どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない、なんでもないんだ」
レオンヴァルトは取り繕うように笑った。その表情は、彼のこれまでの笑みに比べればぎこちなく見える。けれど揺れる彼の瞳に宿る感情の色は、シャルリアには読み取れない。
「……レオン様?」
再度問いかけるシャルリアの声は、レオンヴァルトには届かなかったようだ。レオンヴァルトはクリスフィアの頭にぽんと手を置く。「フィアはきっと、お母様似の美人さんになるよ」……それを聞いたクリスフィアははしゃいでいたが、その触れ合いの時間は短く、彼の声音はどこか固かった。
「すまない。少し、一人にしてくれないか。実は仕事を持ち帰ってきていてね。それを片付けたいから、食事は先に二人で食べていてくれ。……もう、二人だけでも大丈夫だろう?」
「お父様がそうおっしゃるなら。でも、むりはなさらないでくださいね! きゅうけいはだいじですから!」
「かしこまりました。じゃあ行きましょうか、フィア」
ギルをともなったまま逃げるように階段へ向かうレオンヴァルトの顔色は、少し悪い気がした。
* * *
仕事を片付けたいなら向かう先は書斎だ。けれどレオンヴァルトが寝室を目指していることに気づいても、ギルは何も言わなかった。
仕事なんて持ち帰っていなかった。ギルから鞄だけ受け取り、すぐに部屋の外へ締め出す。部屋の灯りをつける余裕はなかった。
(わかりきっていたことじゃないか)
吐き気がする。タイを緩めてシャツをはだけさせた。それでも気持ちの悪さは収まらない。ベッドまで行きつく気力もなく、そのままずるずると扉にもたれかかる。
(フィアは顔も性格も、私と似ているところなんて一つもない。当然だろう)
胸が苦しい。空気を求めて荒い呼吸を繰り返しながら、きつく目を閉じた。
かつて見た景色がぐるぐる頭を巡る。刻み込まれた記憶が。消えない苦い思い出が。
(だってあの子は――忌々しいあの二人の、忘れ形見なんだから)
のちの義兄となる少年と初めて会った時。
――――あの時は、幼馴染が義兄になるだなんて思いもしなかった。
両親が憐れむような、失望したような表情で自分の話をしているのを見てしまった時。
――――あの時、はじめて事態の深刻さを知って神を呪った。
姉と幼馴染の唇が重なった瞬間を偶然見てしまった時。
――――あの時は、見てはいけないところを見てしまった罪悪感と、二人が結ばれた結果自分の身に起きるであろうことへの恐怖だけを感じていた。
幼馴染との結婚を承諾させるため、姉が父と大喧嘩をしていた時。
――――あの時だけは、姉と幼馴染の覚悟と父の決定に感謝した。
姉が大きなお腹に手をやって、幸せそうに微笑んだ時。
――――あの時、ようやく姉という生き物が妻であり母になったのだと思い知った。幼馴染だったはずの男もまた、今は夫であり父でもあるのだと理解した。
姉がひとつの命を産んだ時。
――――あの時、屋敷中の誰もがそれを祝福する中で自分だけは不浄場に駆け込んで嘔吐した。誰の顔も見られず、姉達に何の言葉もかけられないまま耳をふさいでずっとそこでうずくまっていた。
姉と義兄の訃報を聞いた時。
――――あの時も、姪は乳母の目を盗んで自分のところにやってきていた。慌てふためく執事の言葉を、姪は何一つ理解できていないようだった。
姉と義兄の葬儀が行われた時。
――――あの時、誰も彼もが姪の話と姉夫婦の遺産の話をひそひそしていた。素知らぬ顔でその場に混ざり、姉夫婦の遺産目当てに姪を求める奴らを牽制した。
姪を自分の養女とする書類に、サインした時。
――――あの時だけは珍しく、普段はうるさくて手のかかる姪が、おとなしく自分にしがみついていた。あの時に限らず姪と触れ合うのはいつだって嫌だったのに、姪はいつもと同じようにてとてとと必死に後をついてきた。
(私に自分の子供はいない。そんなものなど必要ない。……私に必要なのは、この家と財を継ぐにふさわしい優秀な後継者だけだ)
クリスフィアは姉と義兄によく似ている。ランサス家のあり方を厭って自由に生きようとした女と、争い事も儲け話も好まずのんびり生きていた男に。
優秀ではあるが、優しくて穏やかな少女。それがクリスフィアだ。しかしランサス家の後継者とは、国の経済、ひいては社会を操る立場にある者だった。隙を見せれば、たちまち分家にすべてを乗っ取られてしまうだろう。レオンヴァルトを嗤い、レオンヴァルトからすべてを奪おうとしたあの連中に。けれどそんなことは、絶対にさせない。
金を貸すのは趣味であり仕事だ。仕事として金を求めるところに融資はするし、興味を感じればどんな零細の工房にでも投資する。金を貸したところが大成してさらなる金を産むさまを眺めるのが楽しかった。
けれど一族が経営する会社に出資している理由は単純だ。金の循環を見たいからではないし、ましてや一族への情でもない。奴らの会社に口出しするためだ。奴らの頭を上げられなくするためだ。レオンヴァルト・ランサスという天才を一族から追放しようとした愚かさを、思い知らせてやるためだ。
たとえ自分の引退後だろうと死後だろうと、親戚連中にみすみす返り咲かれてたまるか。そんなことがあれば、ランサス家の破滅だ。先を見通す目も才能を見抜く目もない、無能な奴らに経済の舵取りなどできはしない。
ランサス家の血を引きながら、少年時代のレオンヴァルトを知らない人間は、今はクリスフィアしかいない。クリスフィアなら、誰だってレオンヴァルトの過去を吹き込めない。彼女は、彼女だけは、レオンヴァルトのことをまっすぐな目で見てくれる。慕ってくれる。馬鹿にもしないし追い落とそうともしない。だから彼女だけには、自分の遺産も継がせたい。
性質なんて教育でどうにでもなる。クリスフィアは頭がいい。家に頼るのを嫌っていただけで、あの姉でさえ金を操る人間としての才覚はあった。クリスフィアには補佐役だっている。ギルとクリスフィアには次代のランサス家をより発展させてもらわねば。レオンヴァルトが築いた栄華と財を礎にして、黴臭い老害共がしがみついていた伝統を足蹴にして。
「姉さん。姉さんが自分勝手に生きていてくれたおかげで、私は私の立場を守ることができたよ。そのことだけは感謝しよう。だからフィアは、私が完璧に育ててみせる。……あの子は私の、切り札なのだから」
両手で顔を覆う。手のひらからわずかに覗く口元は、歪な笑みを形作っている。
大嫌いな姉。大嫌いな幼馴染。その二人が遺した小さな少女。無垢で無力で、珍妙で純粋な――――
「――レオン様、こちらにいらっしゃるのですか?」
背中越しに伝わるノックの振動と澄み渡った女性の声に、心臓が大きく跳ねた。




