妻と家事使用人の距離感は、適当であるべきである。 1
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その孤児院は、掃きだめのような場所だった。
食事の量は極端に少なく、雨漏りは建物全体の空気を重くさせる。一人また一人と減っていく子供は、里親に引き取られた者よりも飢えや寒さで死んだだけ……あるいは、この環境に耐え切れずに脱走した者のほうが多いと誰もが知っていた。
移民や元奴隷の親を持つ子供を、国からの補助金目当てで集めただけの施設だ。浮浪児や捨て子が入所することもあった。まともな世話をしてもらえるなんて誰も最初から期待はしていない。だから子供達は誰も彼もが昏く淀んだ目をしていて、あばらの浮いた身体を抱えて縮こまっていた。
そんな負け犬のような奴らと同じ空気を吸うのが嫌で、ギルはよく孤児院を抜け出していた。けれど必ずその日のうちに帰ってくる。本気で脱走する気はないからだ。
「ギル、あんたまた抜け出したのね。そのまま帰ってこなくてもよかったのに」
「心配した? 大丈夫、僕がここを出るときは姉さんも一緒だよ」
不機嫌そうなレーシャに笑いかけると、レーシャは目を逸らした。
姉の言葉の真意がどこにあるかはすぐにわかる。彼女は優しいから、弟だけでもこのひどい場所から脱走してほしいのだ。
けれどギルはそうしなかった。孤児院の目の届かない場所に行ってしまえば、もう子供だけでは生きていけないと知っていたからだ。
自分一人はもちろん、姉の手を引いて脱走することはたやすい。古新聞や古本で得た知識だってあるし、読み書き計算も問題なくできる。それでもその先がどうにもならない。まっとうに生きていくのに必要な元手が、足場が、ツテがない。見知らぬ街で、一目で奴隷か移民の血を引くとわかる孤児が屋根のある居場所と暮らしていけるだけの収入を手に入れるのは大変だ。
「今日はどこに行ってきたの?」
「古本屋。珍しい本をもらったんだ。パン屋で売れ残りのパンももらってきたよ」
今日の収穫を見せびらかすと、レーシャはふっと微笑んだ。「それじゃあみんなで食べましょう」その言葉に、逆らわず頷く。町からもらってきたまともな食料を子供達に分け与えているうちは、彼らはギルに従順だから。
「もっとよこせ」と喚く輩には、明日から何も与えなければいい。力に訴えようとする者もいるが、痩せ細った腕など怖くもなんともなかった。第一、相手の目や息遣いで動きが読める。屈強な大人が相手ならばいざ知らず、同年代の子供が振う暴力なんてギルには脅威でもなんでもない。
その日もギルは孤児院の職員の目を盗み、均等にわけたパンを卑屈に笑う子供達へと配り、いずれ彼らが自立できるよう教育を施していた。手足は少しでも多いほうがいいが、馬鹿のままでは使いづらい。手元にある駒はどんどん使えるようにしなければ。そして窓辺で歌うレーシャの歌を聴きながら、眠りについた。
次の日も、そのまた次の日も、同じような日が続くのだと思っていた。この孤児院に預けられてからずっと、同じ毎日の繰り返しだったからだ――――けれど次の日は、いつもと違った。
窓の外からレーシャの歌声がする。その声でギルは目覚めた。レーシャは歌が好きだから、よく何かの歌を口ずさんでいる。傍にいる人にしか聴こえないような小さな声で、あるいは世界に響かせるようにしっかりした声で。姉の歌が上手なのか下手なのか、ギルにはよくわからなかったが……聴いていて、嫌な気はしなかった。
「あれ?」
不意に歌が止んだ。不思議に思って窓を開けて身を乗り出す。孤児院の門扉の前で、姉が知らない大人と喋っていた。目つきの悪い、不気味な男だ。その傍には馬車が停まっている。御者台には小太りの御者が座っていた。馬車の中にはまだ人がいるようだった。
「姉さん! どうかしたの? 先生を呼ぼうか?」
レーシャに向かって声を張り上げると、レーシャは困ったような顔で「この人達、先生に用事があるんだって!」と叫び返した。それだけ騒げば孤児院全体も事態に気づく。ギルが身体を縮こませて窓を通り抜けるのと、孤児院の職員と院長がやってきたのはほぼ同時だった。
「朝早くから失礼いたします。ランサス銀行の者ですが」
「ま……まあ! お待ちしておりました! で、ですがまさか、本当にいらっしゃるとは……」
レーシャは即座にギルのところに駆け寄ってきた。院長に向かって、大人がそう告げる。職員も院長も面白いぐらいに顔を蒼褪めさせていた。大人は気にせずに馬車の扉を開ける。
降りてきたのは、若い男だった。一見すると青年と少年の間に位置するような年に見えるが、童顔なだけで成人はしているだろう。にこやかで生き生きとした雰囲気が、彼をより幼く見せているのかもしれない。
しかし金持ちだと一目でわかる。先の大人も中々ちゃんとした格好をしていたが、彼よりこの若い男のほうが身分が上なのは間違いないはずだ。
「お会いできて光栄です。レオンヴァルト・ランサスと申します」
「な……なんてこと! ランサス家の方が直々に……!?」
「弊行にとっても大事な契約ですから。……おっと、申し訳ない。どうやらうちの秘書が、子供達を怖がらせてしまったらしい」
その男は人懐っこい笑みを浮かべていた。院長と半ば無理やり握手を交わしたその男は、ふと視線を下にやったのちにしゃがみこんだ。ギルとレーシャに視線を合わせ、男はポケットから色とりどりのキャンディを六粒取り出す。
「仲良く分け合って食べなさい。君達はきょうだいかな? 名前を聞いても?」
「僕はギル、こちらは姉のレーシャです。ところでこれは餌付けですか? それとも施しですか?」
「ギ、ギル!?」
微笑まれているから、ギルも微笑み返した。目を剥いたレーシャがギルの服の裾を強く引っ張る。けれどレオンヴァルトは気にもしていないようだった。
「残念、どちらも違う。宣伝だ。これはうちの家の者が開発した新商品でね。味がお気に召したら買ってくれ。この町の雑貨屋にも置いてもらえることになったから」
「そうでしたか、失礼しました。それでは、ありがたくもらっておきます」
珍しい答えだった。そう問われれば、大抵相手は怒るか困るかするのに。現に院長のほうは顔を真っ赤にして睨みつけている。それでも目の前の男は変わらず微笑んだままだ。
予想外の答えを返してくるなんて、中々面白い人間のようだ。ギルは六粒すべて受け取り、内三粒をレーシャに渡した。そしてもらったキャンディを一粒、包み紙を剥がして口に放り込む。何の味かはギルの知識になかったのでわからなかったが、優しい甘さがした。
「おいしいです。気に入りました。じゃあこれは、僕が買えるようになるまで売っていてくださいね。ちなみにこれは、なんという味ですか?」
「はは、ありがとう。今君が食べたのはデイジー味だ。ペタルキャンディと言って、他にもいくつか種類がある。君の残りはストック味とバーベナ味、レーシャはデイジー味とサフラン味、ビオラ味だな。機会があればぜひ他の味のキャンディも食べ比べてくれたまえ」
「なるほど、道理で知らないわけでした。さすがにまだ花を食べたことはありませんから。これは花を煮詰めたものを混ぜ合わせているんですね。たとえば……そうだな、ジャムのようにしたものを、固めてる? きっと花自体も食べられるんでしょう。今度デイジーを見かけたら食べてみます。ストックとバーベナも」
「ふむ……。デイジーは、花びらだけなら甘くておいしいらしい。しかし苦い部分もあるそうだから、気をつけてくれたまえよ」
そんな二人をレーシャは奇妙なものを見る目で見やっていたが、好奇心に負けたのか自分もキャンディを食べ始めた。「おいしい!」思わず叫んだ彼女の目はきらきらと輝いている。
「二人とも! この方々は大事なお客様なの、粗相をする前にあっちに行っていなさい!」
院長は、いつもより丁寧にギル達を追い払った。目は三角で口調もきついが、これでも丁寧なほうなのだ。
ぶたれてもおかしくなかったが、お客様とやらの手前自重したのだろう。「さ、どうぞこちらへ」職員は男達を孤児院に案内しようとする。大人は無言で中に消えたが、中に入る直前、若い男が一瞬だけギルを見た。
「あの人達、里子を探しに来たのかな」
「違うよ、姉さん。多分、この孤児院を買い取りに来たんだ。たとえ孤児院の権利を買うつもりがなかったとしても……運営する側にはなりたいんじゃないかな。土地そのものが欲しかった、っていうのも考えられるね」
「……ギルの言ってること、たまにむずかしくてわかんないわ」
「あの人達は、この町に自分の店を持ってない。そもそもこの町には、あんなお金持ちそうな人はいないよ。だから町の外から来た人達だ。それに最初の大人は、自分のことを銀行の人間だって言った。銀行はお金を貸したり、貸したお金を回収したりするところだ。他にも仕事はあるけど……今回関係するとしたら、この二つのどちらかだろうね。だけど、そのどちらでもない。だから他の見方から考えてみた。銀行はお金をたくさん持ってる。つまり院長達があの人達のお客さんなんじゃなくて、あの人達のほうがお客さんなんだよ」
この孤児院は、国からの補助金欲しさに院長が建てた場所だ。孤児院とは名ばかりの収容所で、集めた孤児達の世話は投げやりだから、銀行に頼らないといけないほどの赤字が出ているとも思えない。初期費用の捻出を銀行に頼っていたなら債権者の彼らが様子見に来るのもわかるが、少なくとも返済が滞るほどの借金をしてまで孤児院を建てようとはしないだろう。
「どうしてそう思うの?」
「補助金と違って、借りたお金は返さなきゃいけないからさ。でも院長には、よそからお金を借りてまで孤児院を運営する理由がない。そんなことしたら、せっかく補助金をもらえても返済に追われるだけだから。……だったら、運営費用や補助金よりも多いお金でこの孤児院を買い取ってくれるところか、たくさんのお金を寄付してくれるところを探していたほうが不思議じゃないよ」
「つまり、院長達もあの人達もしあわせなのが、あの人達がここを買っちゃうことなのね!」
「そういうこと」
院長の反応からして、あの男達……特にレオンヴァルトというキャンディをくれた男は、それなりに地位のある人間のようだ。名乗った銀行の名と同じ家名を持っていることからも明らかだろう。上流階級か、あるいは中流階級の中でも上層に位置する身分か。そんな立場の人間が、わざわざこの掃きだめのような孤児院に自ら足を運ぶとは思えない。もしもそんなことをするとしたら――――それは、商品の品定めを自分の目でしたい時だ。
「面白そうな人達だ。ちょっと様子を見に行ってみよう」
「えっ!?」
同じことばかりが繰り返される閉鎖的な孤児院に、奇妙なよそ者がやってきた。何もかもが珍しい彼らは、このじめじめした孤児院に何をもたらすのだろう。




