妻と養女の関係は、良好ないしは普通でなければならない。 1
「だいぶ物が揃ったわね」
選び抜かれた調度品だけ置かれた自室を見渡し、シャルリアは微笑を浮かべた。シャルリアがランサス邸にやってきてから二週間、ようやく客室暮らしも終わりそうだ。
好きに金を使えという言葉通り、レオンヴァルトはシャルリアの浪費に対して何一つ文句を言わなかった。唯一何か言われるとすれば、店選びの指針ぐらいのものだろう。シャルリアが自分で店を選ぼうとすると、「この店のほうが品位がある」「ここは品揃えも品質もいい」「そこは商売敵だから別の店にしてくれ」……こんな言葉が飛んでくるときがある。実際、レオンヴァルトが代替として提示する店は、シャルリアの好みにも合うし、より高級で良質な物ばかり取り扱っていた。品物自体に関心があるかは別として、人を見る目はあるのだろう。そしてそのオーダーを丸ごと叶えてしまう財力も。
海外製の珍しいカーテンやじゅうたん、高級な素材だけを用いた家具、お気に入りの高価な小物、一流の香水をはじめとした数々の化粧品。シャルリア専用の衣裳部屋には、贅を凝らしたドレスだってたくさんある。空っぽだったシャルリアの部屋は、どこかの宮殿の一室と比べても引けを取らないものになっていた。ここがあのシャルリアの自室だなんて、修道院の誰もが思わないだろう。
シャルリアとレオンヴァルトの結婚式は、滞りなく行われていた。初夜もなく、寝室も別。求められたらどうしようかと不安だったのだが、何事もなく夜は明けた。
式自体はレオンヴァルトが三度目の結婚だということもあり、そこまで派手な式ではない。そう聞かされていた。聞かされていたはずだった。身内や親しい者だけを集めた、こぢんまりとしたものだ、と。もっとも、式にかける金と招待客の格式はその規模にそぐうものではなかったし、レオンヴァルトの言うこぢんまりは、シャルリアの思うそれと同じものですらなかったが。
田舎で隠居している義両親とも初めて顔合わせをした。義母が足を悪くしたのを機に、義父は引退を早めてレオンヴァルトにすべてを譲ったようだ。二人とも健康そうではあったが、空気と景観以外の取り柄がなさそうな静かな場所で、使用人がいるとはいえ小さな子供を育てていけるほどには見えない。
特に義父は愛想のない、気難しそうな老人だ。クリスフィアも祖父のことはあまり得意ではないのか、隅で緊張したように縮こまっていた。いつものことなのか、誰も気にした様子はなかったが。
その席に、シャルリアは父以外の誰も招かなかった。他の新婦側の参列者と言えば、レオンヴァルトがカリア村の重役を何人か呼んだぐらいだ。修道院の面々と顔を合わせる気は一切ない。
修道院に対して行ったことといえば、これまでシャルリアが修道院で過ごした年月分に足る額の寄付をしたことぐらいだ。その寄付金だって、シャルリアの幸福の証明になるわけではない。夫の資産家が面目のためにシャルリアの名前で行ったのだろう、と院長は思うだろうし、事実院長から届いた謝礼と結婚祝いを兼ねた手紙はそれを前提にした内容だった。きっと他の修道女達は、シャルリアが寄付したことすら知らされていないだろう。
だから、今のシャルリアの転身を知る者はいなかった。それが残念で、けれど同時に安心する。だって、過去の呪縛に囚われる心配がないのだから。
聖シュテアーネ修道院に勤める修道女はみな、シャルリアのみじめさを知っていた。伯爵家とは名ばかりの、貴族らしい生活を維持することすらできない貧しい家に生まれた、見た目だけが取り柄の子供も産めない女。それがシャルリアだ。貴族の娘に生まれた以上、後継ぎを産めなければどうしようもない。だからシャルリアには、嫁ぐ家ももらえる婿もなかった。
それが今や、国でも指折りの富豪の妻だ。飾りは飾りでも道具ではなく、美術品として大切に扱ってもらえる。実家を盾に矜持こそ奪われたものの、丁重に扱われているのだから悪い気はしない。この美しさと身分を思えば、これこそ与えられて当然の待遇だ――――高慢なシャルリアは、すぐにそう気持ちを切り替えることができた。
この境遇に不満などはなく、むしろ人にうらやまれるような立場であることは理解している。シャルリアに取って代わりたい娘は多いだろう。特に聖シュテアーネ修道院の腰掛け修道女達。エマリーなどその筆頭だ。
彼女達には身分がある。実家の財力もある。美貌が、そして教養がある。子供だって産める。条件だけ見れば、彼女達のほうがよほどレオンヴァルトの妻にふさわしい。客観的にもそうだし、彼女達自身もそう思うだろう。だからレオンヴァルトのことを知られれば、余計な面倒に煩わされてしまう。
レオンヴァルトは彼女達のことなど歯牙にもかけないだろう。わざわざ妻の実家の力に頼らずとも、ランサス家は盤石だ。後継者問題を起こす気もない。ゆえに彼は立場の弱い家の娘こそ選ぶし、子供の産めないシャルリアだからこそ妻に迎え入れたのだ。
それでも粉をかけようとする者や、シャルリアの幸運を妬み足を引っ張ろうとする者はいるだろう。かつてのシャルリアと今のシャルリアを比較する彼女らの存在は、あの寒々しい修道院での生活をちらつかせ、父の重しにしかならなかった半生を呼び起こし、誰にも求められず愛されもしない孤独な未来をシャルリアに見せる。そんな思いはまっぴらだった。だって今のシャルリアは、シャルリア・ランサス――――幸せな人形なのだから。
(この部屋を守るためにも、金をかける価値のある人形だとレオン様に思われ続けていないと。だって、一度この暮らしを味わってしまったら、もう二度と他の場所には行けないもの)
際限なく金を使えることの、なんと甘美なことだろう。生活に一切の不自由もなく、労働の必要すらもなく、贅沢のことだけ考えられるなんて。知ってしまったこの快楽を捨てることなどできそうにない。
味も見た目も一流の料理、ただ一度身につけるためだけの服飾、花びらの浮かべられた湯船、湯上りのマッサージを含めたあらゆるケア、各地から取り寄せられた嗜好品……これまでとんと縁のなかったすべてのものが、シャルリアの手の中にある。修道女だったころ、自分は一体どうやって生活していたのか。一ヵ月も前のことではないというのに、もうよく思い出せなかった。
シャルリアから逃げ道を奪ったのは、レオンヴァルトも意図してのことだったのだろう。金貨袋を自称する彼は、金の魔力とそれに取り憑かれた人間の欲望も理解しているはずだ。彼がシャルリアを選んだのは必然で、両者にとっての正答だった。
* * *
三番目の妻にかける金があるということは、当然最愛の養女にも同等かそれ以上の金をかけているということだ。生まれた時からランサス家の恩寵を与えられてきた彼女は、シャルリアよりもよほどこの生活になじんでいるのだろう。
家畜が野生で生きられないように、クリスフィアもまたランサス家の庇護のない場所では生きていけないはずだ。だから彼女のことは、温室育ちの世間知らずな小さいお嬢様だと思っていた。
「なぁに、お姉さん」
「……なんでもないわ。ただ、感心していただけよ」
平日の午後はクリスフィアにとって勉強の時間らしい。休憩を挟みながら、ギルとともに夕食の時間までマナーや座学に励むようだ。
その時間に、シャルリアから刺繍やら詩やらの貴族らしいことを教えられないか、と女中頭のカロエッタを通じてクリスフィア付きのメイド・ロザルデから打診があったのは、つい先日のことだった。
クリスフィアは人見知りが激しい。それは初対面の時にシャルリアも思い知った。養父の三番目の妻という肩書があってこその対応かと思ったが、そういうわけでもなかったようだ。家庭教師のルネーヒェンという女性にはよく懐いているが、彼女は平民で貴族社会については教えられないという。
その家庭教師に慣れるのにも一年以上要したというから、外部から新たに人を招くわけにもいかないらしい。そこで適任だったのが、これからずっと養母として接していく予定のシャルリアだ。本物の貴族の娘がお手本になってくれれば、クリスフィアにもよりいっそう教養が身につくだろうというわけだ。
貴族令嬢としての教養などろくに知らないと、言いだすわけにもいかない。レオンヴァルトや近侍のユライはその辺りの事情を理解しているはずだが、シャルリアの出自は他の使用人達に周知されていないのだろうか。修道院で学んだ作法や、腰掛け修道女達の見様見真似でなんとかできる程度のことであればいいのだが。
どの程度であればクリスフィアや家庭教師を納得させられるのかと思って日頃のレッスンを見学に来てみれば、ルネーヒェンの教えが何一つ理解できない。今日は言語学と地理の時間だった。これは本当に七歳程度の女の子のための講義なのだろうか。クリスフィアが特別出来がいいだけなのだと信じたい。
何食わぬ顔をしながらも頭上に疑問符を浮かべるシャルリアの横で、クリスフィアはすらすらと板書を進め、与えられた課題をこなす。ルネーヒェンに質問を重ねる姿は、レオンヴァルトを彷彿とさせた。
「これぐらいできて当然です。だって、お父様の娘ですもの」
クリスフィアはつんと澄まして答えた。将来的にランサス家のすべてを継ぐことになるであろう少女の価値は、シャルリアのそれより重要視されている。だからこそ、その研鑽を人は怠らなかったのだろう。そして少女自身も、それに応えようとしているのだ。
「そう。さすがね。……貴方は当然のことだと思っているみたいだけど、十分素晴らしいことだわ」
学べる環境と、学ぶ意志があるというのは。
負けていられないな、と思う。……これからもクリスフィアの講義に混ざれないだろうか。とりあえず、クリスフィアにものを教えるには今のままでは厳しそうだ。
修道院育ちのシャルリアは、仕草こそ洗練されているものの華やかさがなかった。どのみちレオンヴァルトによって社交界には連れ出されるのだから、今のうちにこっそり貴族らしい振る舞いや教養を身につけておいたほうがよさそうだ。
「そうなんですよ。お嬢様はすごいんです」
「ええ。お嬢様ほど真面目で優秀な方を、わたくしは知りません」
「……」
ギルとルネーヒェンも次々にクリスフィアをほめそやす。さすがに照れくさいのか、クリスフィアは赤い顔をして俯いた。
「さて、そろそろ休憩にいたしましょう。続きはまたのちほど」
ルネーヒェンは一礼して勉強部屋を出ていった。三十代程度の地味な女性だが、所作が美しいため野暮ったくは見えない。平民の生まれだというが、家庭教師を務められるのだからそれなりの家柄なのだろう。
「お嬢様、おやつの時間ですよ。今日のおやつは何でしょうね。奥様もいらっしゃいますか?」
「あら、わたくしは、」
「奥様さえよければ、ぜひご一緒に。カーメンさんのおかしはおいしいですからね」
カーメンというのは確か、料理長の名前だったはずだ。いかつく気難しそうな男で、厨房でデザートを作っているのが彼だというのはにわかに信じがたい。
ギルの誘いを受け、シャルリアはちらりとクリスフィアに視線を移す。クリスフィアは不満そうにこちらを見ていたが、ギルの背に隠れているだけで特に拒絶の言葉などは言ってこなかった。
「じゃあ、お呼ばれされようかしら。お招きいただき、ありがとうございます」
微笑みながら、ドレスの裾をつまんで軽くお辞儀をする。ギルもしたり顔で「こちらへどうぞ」とドアを開けた。
「ギルは、あげないんだから」
「まあ。……ふふっ」
ギルの仕着せの裾をぎゅっと掴んだクリスフィアは、彼の背に隠れたまま頬を膨らませて小さな声でそう宣言する。自分以外の女、それも父親を―形式的には―奪った女が、お気に入りの使用人にエスコートされるのがよほど気に食わないのだろう。こんなに小さくてもそんな思いを抱くとは。そんなにむくれなくても、シャルリアにはギルをクリスフィアから取り上げる気などないのに。
可愛らしい嫉妬の視線を浴びながらシャルリアは食堂に向かう。後ろを振り返れば、微苦笑を浮かべる少年が小さな女主人に半歩と離れず付き従っている。クリスフィアの機嫌は、すぐに直ったようだった。




