両者の合意により結ばれるものとする。 1
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「奥様、お待たせいたしました」
「……ええ、わかったわ。こちらこそ、急かしてしまってごめんなさいね」
奥様という、慣れないその響きがこそばゆい。メイドのメルツィスカの顔も見られず、シャルリアは読んでいた本を閉じて立ち上がる。時計はちょうど午前九時を示していた。
客室の外に出る。階下から小さな女の子のはしゃいだ声がした。シャルリアの“娘”になる少女のものだ。朝食を終えた彼女は、これから庭かどこかで遊ぶのだろう。
メルツィスカに案内されるままに三階へと向かう。通された書斎には、温かい微笑を浮かべた一人の青年がいた。シャルリアの夫となる裕福な資産家、レオンヴァルト・ランサスだ。
「おはよう、シャルリア。ずいぶんと早起きだったらしいね。もう少しゆっくり寝ていてもいいんだけど」
「習慣ですので。どうにも身体が勝手に目覚めてしまうのです」
レオンヴァルトの視線がドアに向かう。メルツィスカが下がったのだ。それを確認して、レオンヴァルトはもう一度シャルリアを見た。
「それでは改めて、私達の結婚の話……これからの生活についての話でもしようか」
「……はい、お願いいたします」
「私は、人形と結婚した。私の好きなように着飾らせて、私の好きなように連れ回せる、美しい人形とね」
笑顔の仮面を被った青年は、無表情で佇む娘を前にぬけぬけと言い放った。
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聖シュテアーネ修道院の朝は早い。
朝日の昇り切らない四時から蝋燭の火がともされ、当番の修道女達が朝食の支度をし、礼拝の準備をする。五時には院内の修道女のほとんどが目覚める。
併設された孤児院でも、年長の真面目な子供達は起床して朝の挨拶をしに来る。彼らはそのまま修道女達の手伝いをして時間を潰す。そして七時の礼拝に間に合うよう小さな子供達を起こし、その支度を手伝う。礼拝中にこくりこくりと舟をこぐ者がいるのはご愛敬だ。
この一連の流れこそ、聖シュテアーネ修道院で毎日見られるべき光景だった。
修道女シャルリア・レティラは、修道院の規律に反したことがない。
炊事か礼拝の当番が回ってくれば早朝だろうと構わず起きるし、てきぱきと仕事をこなす。騒がしい子供達の面倒だって見る。礼拝ではうたたねをしないよう極力気をつけているし、礼拝後に始まる手仕事で手を抜いたこともない。仕事の合間であれば、孤児にせがまれたら一緒に遊ぶし勉強も教える。
二十二時には消灯して寝台に入り、無駄な夜更かしも夜歩きもしない。その生活ぶりは、非常に模範的な修道女そのものだ。この生活に不満がないわけではなかったが、シャルリアは甘んじて受け入れていた。たとえ陰で他の修道女達にどう言われていようとも、だ。
もともと聖シュテアーネ修道院は、上流階級の子女が奉仕するための修道院の一つとして設立された。王都から遠く離れた閑静な領地の片隅にある、こぢんまりとした修道院だ。だが、だからこそ厳しい教育と環境を―あるいはそれに伴う名前の価値を―求める親によって預けられる腰掛け修道女が後を絶たなかった。
もちろんすべての修道女が貴族の出身であるわけではない。けれど多くの若い修道女がそうであるように、シャルリアもまた伯爵家の出だ。しかし彼女は、他の若い修道女とは少し事情が違っている。シャルリアは、修道院での生活を“腰掛け”にする気がないのだ。
良家出身の若い修道女達は、結婚適齢期に達するか、あるいは親が縁談をまとめてくればその時点で修道院を去る。けれどすでに十九歳のシャルリアは適齢期などとうに過ぎているし、シャルリアを男手一つで育ててくれた父親も娘の結婚を諦めていた。
もとよりその覚悟で聖シュテアーネ修道院に入ったのだ。たとえ年下の腰掛け修道女から「ああはなりたくない最悪の未来」「反面としての最高の模範」と囁かれていたとしても、痛くもかゆくもない。いや、そう振る舞うのに慣れたと言ったほうが正しいか。本当のことを言われているため反論などはしないが、それでもそうやって陰口を叩かれるのを気にしていないわけではなかった。
腰掛けではない修道女としては最も若いシャルリアだが、聖シュテアーネ修道院に来てからもう七年になる。年季だけは入っていた。
信仰心があるとは決して言えないが、凛とした振る舞いと厳粛さではここに長年勤める古参の修道女にも負けていない。だからこそ疎まれる。「貧乏貴族の嫁き遅れのくせに偉そうに」、と。
「ねえ、シスター・シャルリア。赤と青、どちらがいいと思う?」
「いやですね、シスター・エマリー。この方にわかるわけがないでしょう」
「そうですわ。……あら、お気を悪くしないでくださいましね? シスター・シャルリアは、わたくし達よりもずいぶん年上ですもの。わたくし達のような小娘が好むものなんて、ご存知ないと思ったまでですわ」
ドレスを合わせながら姿見の前でにんまりと笑うのは、一年ほど前に修道院に来た若い娘だ。
名をエマリー。家名のほうは興味がないので失念してしまったが、王都でも名高いさる名家の三女らしい。自分でさんざん吹聴しているので、それぐらいはシャルリアも知っていた。
シャルリアと同じ部屋をあてがわれているが、シャルリアとは真逆の性質だ。エマリーは地方貴族の腰掛け修道女達によく囲まれている。家柄もよく見目麗しい彼女と親しくしておけば、家も自分もなんらかのおこぼれにありつける……そう思わせるだけの雰囲気がエマリーにはあった。
もし相応の処世術に身を任せる気があれば、シャルリアだっておべっかを使ってでもエマリーの取り巻きになっていたかもしれない。五つも年下の、希望と未来とそれから野心に満ちた少女とお友達になることなど、シャルリアにはできないが。
だからシャルリアは静かに笑む。挑発的な眼差しのエマリーと、嘲笑を浮かべる取り巻きの少女達。いつもの風景だ、いちいち角を立ててはきりがない。
「貴方ならどちらも似合うわよ、シスター・エマリー。けれど、そのように華美なものは神の御前にふさわしくないのではなくて?」
なにが神だ。信じてもいないものの名を盾に、淡々と諫める。
清貧が美徳だなんて建前に決まっている。シャルリアだって綺麗なものは好きだし、金さえあれば贅沢だってしたい。うら若い少女達ならばなおさらそうだろう。だが、規則は規則だ。修道院で暮らす以上、修道院のルールに従わなければ。
「つまらないことをおっしゃらないで。神も、少しは場が華やいでいたほうがお喜びになるはずだわ。それに、ここにあるものはすべてお母様がくださったのよ。親からの贈り物を粗末にしてもいいだなんて、神の教えにはないでしょう?」
エマリーが得意気な笑みで指差したのは、二人部屋を埋め尽くす色とりどりの服飾品と空箱の山だ。おまけにエマリーの取り巻きが三人いるため、決して広いとは言えない部屋は息苦しささえ感じられる空間になってしまっていた。シャルリアが聖典の写本を終えて部屋に戻ってきた時にはすでにこのありさまで、自分のベッドに辿り着くのにも難儀してしまった。
聖シュテアーネ修道院に入るためには、それなりの額の寄付金を必要とする。院長の縁故を辿ったシャルリアはわずかな額で修道女となったために最初は肩身が狭かったが、そのぶん仕事に打ち込んだ。そのおかげか、古株の修道女からは可愛がられている。貴族の婦人や令嬢からはいまだに白い目で見られているが。
一方でエマリーは莫大な寄付金とともに修道院にやってきた。おまけに、彼女の実家は毎月のように寄付しているという。そのため、エマリーが多少自由に振る舞っていても咎められる者はいない。シャルリアによって正しく導かれるように、との院長の采配による部屋割りだが、ようはすべてをシャルリアに押しつけた形だ。
エマリーの家がそんな風だから、こうやって清貧からかけ離れた品々が届けられても誰も取り上げることができない。だから部屋はエマリーの私物で埋め尽くされる。これで口まで回るようになったらお手上げだ。あとは何を言っても嫌味にしか取られないか、欲しがっているように思われるかのどちらかだろう。
「確かにそうね。……だけど、消灯までに片付けだけはきちんとしておいてちょうだい。いくらなんでも見苦しいわ。粗末にしないというのなら、床に置くのはやめなさい」
「しょうがないでしょう、ここでは衣装台も少ないんだから。みんなに選んでもらったら片付けるわよ」
エマリーは唇を尖らせる。その瞬間、取り巻きの少女達の目が期待にきらりと輝いた。
「さあ、好きなものを選んでちょうだい。恵みを得れば、人に分け与えるのが当然ですもの。シスター・シャルリアもいかが?」
「お気遣い感謝するわ。だけどごめんなさい、わたくしには過ぎたものみたい」
そっけないシャルリアとは対照的に、少女達は口々に礼を言って膝をついていっそうはしゃいだ様子で物色をはじめる。
ここにいるのは地方の小さな貴族の娘か、貴族階級ではないものの裕福な家の娘だ。王都で華々しく暮らす中央貴族が持つ品は、彼女達にとっても手に入りづらい。
(わたくしから言えば、嫌味と取って噛みついてくるくせに)
シャルリアは小さくため息をつく。取り巻き達の集中砲火だなんてとっくに経験済みだ。彼女達からすると、上位存在のエマリーが自主的に物を与えてくれるのは構わないが、見下しているシャルリアに促されて物を与えられるのは屈辱に他ならないらしい。
物欲しげな目で見ていると思われては困る。すっと視線を外して読みかけの本を手に取った。羨ましくないわけではないが、それはあくまで上質な品々に対してのことだ。高慢なシャルリアは、同じく高慢なエマリーの施しなど受けない。
シャルリアの家は貧しい。エマリーが気に入ったらしい赤と青の二着のドレス、それに用いられた生地はシャルリアでは到底手の届かないものだろう。シャルリアの家から何か仕送りが来たことは一度もなく、むしろシャルリアが俸禄の一部を実家に仕送りしている。それでもシャルリアは、自分でも呆れるくらいに気位が高くてまっすぐだった。
それはきっと、名ばかりとはいえ伯爵家に生まれた者としての矜持であり、生まれもっての美貌のせいだろう。
申し訳なくて持参金の用意なんてさせられないほど貧しい家と、嫁ぐには不自由すぎるこの身体。この二つの枷さえなければ、どんな男のもとにも嫁げたかもしれない。静かではあるが、後ろ指を指され哀れみの目で見られる修道院に居続ける必要もない。けれど今となっては無理なこととわかっているから、結婚願望などは捨てていた。ただ、貧しさを理由にして己を見下す者に媚を売ることができないだけだ。
あと一年、遅くとも二年ほど我慢すればエマリーは修道院を去る。それまでの辛抱だ。そうすれば、つかの間の平穏が戻って――――新たなエマリーが来る。
そのころシャルリアは二十を過ぎているだろう。けれど三十になっても、四十になっても終わらない。娘は少女期をきちんとした場所で過ごしていた、という箔を求める有力者がいる限り、若い娘の嗤い声はついてまわる。自分で選んだ道なれど、やはりこたえるものがあった。
「シスター・シャルリア。いらっしゃいますか?」
響くノックと柔らかな声に、室内が一瞬にして静まった。少女達はぴたりと動きを止める。本から顔を上げたシャルリアが口を開く前にエマリーが扉を開ける。修道院の院長、ヒルデメーラがそこにいた。
「どうかなさいましたか、マザー・ヒルデメーラ」
「遅くにごめんなさいね。貴方にお話があるの。少し時間をいただけるかしら?」
ヒルデメーラは室内の散らかり具合に少し驚いたようだが、注意もせずにシャルリアに向き直る。よく言えば優しく、悪く言えばことなかれ主義の院長がエマリーに目こぼしするのは今に始まったことではない。了承の言葉とともにシャルリアはベッドを降り、床の上の品々を踏まないように部屋を出た。
消灯が近いということもあってか、廊下は静まり返っている。シャルリア達の部屋に集まっていたのは、すぐ近くの部屋の修道女達だ。あの騒がしさならきっと廊下に響いていただろうが、苦情を言うべき部屋の主達がいない。いたところで無視されるだけだ。徐々に騒がしくなる、聞き覚えのある声を背中で受け流し、ヒルデメーラとともに院長室に向かった。
「それで、お話というのは?」
「実はね、つい先ほどレティラ伯爵からお電話があったのよ。貴方にとっても悪いことではない報せだったわ。貴方はまだ若いもの、この修道院を預かる身で言うことではないけれど……一生を神に捧げると決めるのは早すぎるもの」
「それは……」
言い淀むシャルリアの顔色に気づいているのかいないのか、ヒルデメーラはまるで我がことのように嬉しそうに言葉を続けた。
「喜んでちょうだい、シャルリア。貴方の結婚が決まったのよ!」




