第十話 狂うジャパン
広大な来栖邸の敷地内。その一角に美優が住んでいる離れがあった。通称、使用人の館。そこでは来栖家に仕える使用人達が住み込みで働けるように、生活に必要な設備が一通りそろっている。美優の部屋はその二階に与えられていた。
美優は来栖家の使用人の末席に名を連ねてはいるが、学生の身であるため正式なメイドではない。祖母のコネでこの来栖家に住み込み、メイド修行をさせてもらっている身なのだ。それは彼女が自分で希望したことだった。
美優の祖母は高名なメイドで、今は別の家で働いているのだが、この来栖家とも繋がりがある。祖母の部下には、美優と歳があまり変わらないのに、長年メイドとして働いている少女もいるらしい。そのような話を聞くと焦りを覚えてしまう。美優には祖母の跡を継いで、立派なメイドになるという夢があった。
そのため、日頃の美優は学業の予習復習の他に、メイドの仕事を手伝うという日課を欠かしたことがない。しかし今日ばかりは、食事と入浴を済ませると、さっさとベッドに入ってしまった。まだ二十時になったばかりだ。今日の出来事を思い出そうとすると、頭に靄がかかったような状態になってしまう。耐え難い記憶を何とか消し去ろうと、脳が尋常じゃない動きをしているのかもしれない。
美優が精神的に受けたダメージは深刻だった。ベッドの中でジタバタして、枕に顔を埋めながら大声を出すことで、何とか羞恥心を消し去ろうとしていた。
そんな美優の部屋のドアを無遠慮に叩く者がいる。彼女をこのような状態に追いやった張本人だった。悠希は騒々しくドア越しに美優に呼びかけた。
「おいっ、美優。今夜の深夜アニメを一緒にチェックするぞ。今放送中のアニメくらい見ておかないと、オタクにはなり切れないからな」
「うるっさいわね! もう寝てるわよっ! 具合が悪いんだから放っておきなさいよ!」
美優の叫び声を受け、部屋の外の声がピタリと止んだ。そして、わずかな沈黙の後、思いがけないほど静かな悠希の声が返ってきた。
「大丈夫なのか、美優? 医者を呼んだ方がいいか?」
真剣に自分の心配をしている声のトーンに、美優は何となく気恥ずかしくなってしまう。――あの馬鹿、なんつう優しい声を出すのよ。美優は心の中で意味不明な悪態をつきながら、部屋の外の悠希に答える。
「そっ、そこまで大げさなもんじゃないわよ。一日寝たら良くなるから」
「……そうか、お大事にな」
悠希は素直に部屋の前から去ったようだ。心なしか、気分が少しばかり軽くなったような気がする。それはともかく、今日は夢の中だけでも平穏に過ごしたい。美優は明日になったら何もかも忘れてしまっていることを願いながら眠りについた。
閑崎尚人は常識ある一般人である。少なくとも本人はそう思っていた。悠希や美優などからは『俗物』などと呼ばれることはあるが、それは彼らが特別な存在だからだ。
閑崎は思う。自分のような普通の学生にとっては、集団に染まり和を乱さないことが楽しく学園生活を送る秘訣なのだ。他人からの評価を常に気にすることで、自分を集団の平均値に置くことができる。それを俗と呼ぶならば、自分は俗物で構わない。一番怖いのは集団から外れ、惨めな思いをすることだ。それが彼の信条だった。
朝の通学路。校門に近くなり、周りには高天津高校の生徒が続々と合流してくる。閑崎の周りにもちらほらと見知った顔が確認できた。その中の一人、クラスメイトの女子が閑崎に朝の挨拶を送ってくる。
「おはよう、ヒマジン。今日は早いんだね」
「いやいや。イメージだけで判断するのやめようよ。俺、遅刻なんてしたことないから」
ヒマジンというあだ名はクラスでも定着しつつあった。彼はそれに関しては特に気にしてはいない。あだ名で呼ばれるということは、クラス内である程度親しまれているという証だ。集団からの排斥や排除。それが閑崎にとって一番恐ろしいことだった。
教室に入ると、珍しくぼおっとした表情の美優が席に着いている姿が見える。昨日の彼女の姿は閑崎にとっては衝撃的なものだった。あのような自らの評価をマイナスにするような行為は閑崎の中ではタブーなのだ。昨日の今日で、よく登校できたものだと感心する。
同じ部活ということもあり、閑崎はクラス内では一番美優と親しい男子といえるだろう。その事実は彼に大きな優越感をもたらした。
「うーっす」
「……おはよ」
閑崎の挨拶に応える美優の反応は鈍かった。昨日のショックからまだ立ち直れないのかもしれない。
閑崎から見たクラス内での美優は、大いに猫をかぶっている状態だった。必要以上に他者と話をすることがないため、毒舌キャラが影を潜め、ミステリアスでクールなイメージを保っている。部室で披露する口撃の破壊力は、ほとんど見られなかった。
閑崎が自分の席について持っていたバッグを開こうとすると、突然クラス内がざわめいた。何が起きたか確認する前に奇妙な声が上がり、閑崎はそちらに気を取られてしまう。
「ひいっ!?」
漫画の吹き出しでしか馴染みがないような、喉の奥で悲鳴を詰まらせたような短い叫び。クラスメイト達は、それが誰から発せられた声かは分からないようだった。美優の席の辺りから聞こえてきたようだが、彼女が発したにしてはあまり奇怪な音声だった。
閑崎もそう思った一人だった。声は美優のものに似ていたが、彼女がうかつにそんな失態をしでかすはずがない。クラスでの美優は悪目立ちするような言動をとらないように十分に注意しているのだ。
しかし、それは一年六組の教室に駆け込んで来る来栖悠希を見るまでの認識だった。閑崎は叫び声が聞こえた方向に注目していたため、その姿を確認するのが遅れたのだ。学生服のボタンを全開にして、その中から例の痛ティーシャツを覗かせているという前衛的な装い。それを見た瞬間、閑崎の口からも「ひいっ!?」という短い悲鳴が飛び出てきた。彼にとっては悠希の行為は狂気の沙汰としか思えなかった。
「おい、美優。昨夜の深夜アニメ、全部ディスクに焼いてきたぞ」
大声で美優を呼ばわる悠希。当然、クラス中の視線と関心は全て彼らに集まった。美優は頭を抱えながら机の上に額を何度か打ち付けた。彼女の狂態を意に介することなく、悠希が満面の笑みを浮かべながら楽しそうに話しかける。
「知ってたか? 一日に四本も放送しているんだぞ。毎日チェックするのも苦労するだろうな」
美優は机に突っ伏した状態で、悠希の話を聞いていた。悠希はにわか知識ながらも色々とアニメのことを勉強したようで、監督がどうだの、演出がどうだの、知らない人間には分からない濃い知識を得々と披露している。
美優の肩がプルプルと震ているのは恥辱からだろうか、怒りからだろうか。閑崎は自分に被害が及ぶことがないように、我関せずと正面に向き直り、授業の準備を始めた。
「ヒマジンっ! ねえ、ヒマジン! こっちに来て!」
突然閑崎の名前を呼びつける美優。自分を巻き込む意図を感じた閑崎は震え上がった。――冗談じゃねえ! 俺の高校生活は始まったばかりなんだぞ? 取り返しのつかない十字架を背負わされてたまるかっ!
「おおっ、ヒマジンもこのクラスだったな。済まない。俺としたことが、お前のディスクを用意するのを忘れていた。明日は持って来てやるからな」
「俺には全然分からない話だけど、お前ら本当に仲がいいんだなあ。でも、朝っぱらから他のクラスでイチャイチャするのは控えようぜ。いくら恋人同士だからってな」
『恋人同士』という言葉にクラス内がどよめく。それまでの会話を打ち消すために、より話題性の高いネタを投げ込んだのだ。それは苦し紛れの行為だったが、効果は絶大だった。集まって話をしていた女子グループの中から歓声が上がった。
「あっ、あんた! 言うに事欠いて、なんつう嘘をついてんのよっ!?」
美優が真っ赤になって抗議の声を上げるが、閑崎は容赦する必要を認めなかった。先に彼を填めようとしたのは美優なのだ。
「いやいや。昨日も腕を組みながら校内を歩いていただろ? 見てた奴も多いと思うぜ」
閑崎が畳みかけるように追い打ちをかける。常に噂や周囲の評価を分析している彼は、人心を煽動することにも長けているようだ。盛り上がった周囲から冷やかしの声が飛ぶ。話題の張本人であるはずの悠希は、他人事のように大きく頷いていた。
「ああ、あれは参ったな。美優がなかなか俺の腕から離れなくてなあ……」
「ややこしくなるから、あんたは黙ってなさいっ!」
そのまま悠希と閑崎を罵り続ける美優。帝王学研究部の部室ではお馴染みの光景だったが、このクラスの生徒にとっては彼女の意外な一面を垣間見た瞬間だった。
金髪碧眼のハーフで透明感のある美少女、そして学業優秀で品行方正な優等生。そんな梅沢美優のクラス内でのイメージはあえなく崩壊したのだった。
高天津市の隣、大きな河川を挟んだ槇乃島市。その片隅にあるマンションの一室に田野倉鈴は両親と共に暮らしていた。
女の子らしくない部屋だと自分でも思う。鈴の部屋を占拠している漫画やアニメグッズは女性向けの物に限らない。どちらかと言うと男オタクの部屋に見えるだろう。
入浴の後、授業の課題を済ませると、鈴はハードディスクレコーダーの電源を入れる。さすがに深夜アニメを毎日リアルタイムで視聴するのは難しい。寝る前に撮りためたアニメを数本見るのが鈴の日課だった。
一般的に、深夜アニメは春夏秋冬の四期に区切られて放送されることが多い。鈴にとっては今期は気に入った作品が多く、豊作だという印象がある。特にオリジナルアニメの当たりが多くて嬉しい限りだ。漫画やライトノベルの原作を元に作られるアニメとは違い、先が読めないのがオリジナルアニメの魅力だった。今日は特に楽しみにしているオリジナルアニメの続きを観ることにした。
「っかぁー。そうくるか? そう来ちゃいますかあ」
視聴後、興奮して思わず独り言でまくし立ててしまう鈴。ベッドにどさりと寝転がると、余韻に浸りながら部屋の天井を見上げる。
誰かとこの感動を共有したい。その思いは強かった。中学生の頃には少ないながらもそのような友達がいた。だが、高校に入学してからは、まだ連絡を取り合っていない。向こうも新しい環境に馴染むのに忙しいだろうという遠慮があった。向こうがアニメに対する熱を失っていた場合を考えると、うかつにその話題を出すことはできないという事情もある。好きなアニメについての話ができる場所、そして友達を鈴は求めていた。
匿名掲示板は長い間見ていない。自分が好きな作品がけなされていることが多いからだ。誰もが匿名で意見が書き込める場所ではルールなどあってないようなものだった。否定的な意見が禁止されていても、悪意のある書き込みは必ず目に入る。そのような書き込みを見るのは苦痛だった。ネットでも友達作りが苦手なので、SNSでの反応も薄い。思い浮かぶのは菊田英孝の気弱そうな笑顔と、サブカルチャー研究部の混沌とした部室だった。
「……もう少し熱心に勧誘してくれたらなあ」
身勝手な要求だと鈴本人も分かっていた。何をいまさら……誘い受けが過ぎるだろうと自分でも呆れてしまう。この気持ちも今だけのもので、オタクではない友達と一緒にいると、それを迷惑に感じてしまうのかもしれない。こんな主体性のない自分が大嫌いだった。
このまま悩み続けていると、気分が重くなる一方だ。鈴は今観たアニメの先の展開を予想しながら眠りにつくことにした。しかし、目を閉じると思い浮かぶのは、今日学校の廊下で見かけた来栖悠希と梅沢美優の姿だった。早足で逃げるように移動する美優を悠希がアニメの話をしながら、まとわりつくように追いかけていた。喧嘩でもしたのだろうか? 悠希が一方的に喋っているだけだったが、それでもその様子は楽しそうに見えた。……正直、美優がうらやましいと思った。




