前編
リゼットが机に向かって取引先への手紙を書いていると、廊下からゆっくりと足音が近付いて来るのに気が付いた。静かで規則正しいその足音の主は、リゼットには顔を見なくてもすぐにわかる。彼女は軽く溜息を吐くと、浮かない気分を紛らわせるように、足元に寝そべっていた愛犬のスタンの柔らかな毛並みをそっと撫でた。
ノックに続いて部屋に入って来たのは、リゼットの予想通り、いかめしい顔をした父だった。けれど、父の後に続いて部屋に入って来た人物がいたことに、リゼットは驚いて目を瞬かせた。
「お前に、紹介したい方がいる。ここにいらっしゃる、ナサニエル様だ」
リゼットは、ナサニエルと呼ばれた青年を見て、はっと目を見開いた。しばらく硬直していた彼女だったけれど、自分が客人を前に椅子に座ったままでいたことに気が付いて、慌てて椅子から立ち上がると、ナサニエルに向かって頭を下げた。
艶のある栗色の髪に明るい茶色の瞳をした彼は、リゼットに優しく微笑みかけると、リゼットの右手を恭しく取って、その甲に軽く挨拶のキスを落とした。
「こんにちは、リゼット様。……噂に聞く通り、とてもお美しい方ですね。お会いしたいと思っていました」
リゼットは、頬に血が上るのを感じながら、内心の動揺を隠して、ナサニエルに何とか笑顔を作った。
「ありがとうございます、ナサニエル様。……けれど、私には、歯の浮くようなお世辞は結構ですわ。私も、もう行き遅れといっていい年です。その辺りの美しい適齢期のご令嬢たちとは、訳が違いますもの。
貴方様は、私よりも随分とお若いようにお見受けします。今日は、貴重なお時間を私などにいただいてしまって、すみません」
ナサニエルは、気後れしたように目を伏せたリゼットの手を握ったまま、リゼットの菫色に輝く瞳を覗き込むようにして、楽しそうにくすくすと笑った。
「いえ、そんなことは。貴女様にお会いしたかったのは、私の本心ですから」
リゼットの父親は、2人の様子を見つめると、こほんと一つ咳払いをした。
「ナサニエル様。……娘は頑固なところもありますが、一途で優しい、自慢の娘です。私は彼女を手塩に掛けて、今まで大切に育てて来ました。
恐らく、娘のことは色々とお聞き及びかとは思いますが……よかったら、今日はせっかくお時間をいただいてここまでお越しくださったのですから、娘とゆっくり話していってください」
普段は、リゼットの顔を見る度に結婚を促してくる、何かと口煩い父だったけれど、リゼットへの愛情を感じる父の言葉に、彼女の胸は申し訳なさにつきりと痛んだ。ナサニエルはふわりと微笑んで、リゼットの父親の言葉に頷いた。
「ええ、喜んで」
ナサニエルは、リゼットをじっと見つめた。
「お仕事中にお邪魔してしまったようで、私の方こそ申し訳ありませんが。
もしお時間が許すなら、こちらの庭園を案内していただけませんか? 私は、花が好きで。先程、ここに来るまでに横目でちらりと見掛けただけですが、花壇には美しい花々が咲き乱れていましたね」
ナサニエルの言葉を聞いて、リゼットはさらに動揺を隠せなくなった。
「……わかりました」
微かに震える声で、リゼットがナサニエルに答えると、リゼットの父はほっと安堵の表情を浮かべて、満足そうに頷いた。
***
リゼットは、ナサニエルと庭園に降りると、咲いている花のうち、珍しい花の名前をナサニエルに教えながら庭園内をゆっくりと歩いた。何食わぬ顔をして、2人の足元について来たスタンの頭も、ナサニエルは優しく撫でてくれている。花の名前を口に出す度に、楽しそうに目を輝かせるナサニエルの姿を見る度に、リゼットの胸はきゅっと痛んだ。
庭園内を一周して、リゼットとナサニエルは陽当たりのよいベンチに腰掛けた。涼しい風が2人の頬を撫でて行き、ナサニエルは心地良さそうに目を細めている。リゼットは、そんな彼の様子を見つめて、少し思案げに目を伏せてから、思い切って口を開いた。
「ナサニエル様。きっと、私の噂はお耳に入っているでしょう? ……戦に向かったきり、帰らないままの婚約者を、もう7年も待っているのだと」
リゼットが、当時敵対関係にあった隣国との戦の最中、姿を消してしまった婚約者を忘れられずに、その後の縁談をことごとく断り続けていることは、この国の社交界では知らぬ者はいなかった。
リゼットが18歳の時、彼女のことを心から愛してくれていた、長年の恋人だったスタンリーに結婚を申し込まれた。彼女が彼からの求婚を快諾した直後に、彼は戦地へと赴くことになった。
心配で胸が潰れそうだったリゼットに対して、必ず君の元に帰るからと、そう笑顔で約束したスタンリーだったけれど、結局、今日のこの日まで、彼はリゼットの元には帰って来ていない。彼が消息を絶ってからも、リゼットはその現実を受け入れることができずにいた。つい先日、両国間には和平が結ばれ、ちらほらとこの国に戻る兵士も現れていたけれど、その中にスタンリーの姿はなかった。
スタンリーが消息を絶ってから程なくして、リゼットは、栗色のぼろぼろの毛並みをした子犬が、擦り寄るように近付いて来たところを、拾い上げて連れ帰った。回復して艶やかになった栗色の毛と、茶色の瞳まで恋人にそっくりだったその子犬に、つい恋人の愛称だったスタンと名付けてしまったリゼットは、辛い時はいつでも、彼女に寄り添ってくれるスタンの温かさに救われてきた。
伯爵家の長女という立場に生まれた以上、嫌でもリゼットの動向は貴族の口に上る。生まれ持った地位に加えて、人目を惹く美貌を誇っていた彼女が、本来ならば貴族家の令嬢としてとうに結婚しているはずの歳を過ぎ、25歳になっても独り身であることを、やっかみ混じりに嘲笑する貴族も少なくはなかった。それでも、弟が先に結婚して家督を継ぐことが決まり、さらにリゼットが家業にも頭角を現してからは、外野からの野次も次第に減ってきていた。父から勧められる縁談の数も減って来ていることに、リゼットが胸を撫で下ろしていた時に紹介されたのが、彼、ナサニエルだったのだ。
それまで、リゼットに紹介された相手には、スタンリーよりも良い家柄の青年も、麗しい見目で評判の青年もいたものの、リゼットの心はまったく動かなかった。
けれど、リゼットがナサニエルを一目見た時、彼の艶やかな栗色の髪も、茶色で輝きの強い瞳も、そして整った顔立ちだけでなく、優しげな表情までもが、驚くほどにスタンリーによく似ていることに、リゼットは息が止まりそうになった。恐らく20歳そこそこであろうナサニエルが、失った当時のスタンリーの年齢に近かったことも、あの時から時間が止まっていたスタンリーが、まるでどこかから姿を現したように、リゼットには感じられたのだった。
俯いたリゼットを労るように、ナサニエルは穏やかな口調で答えた。
「ええ、それは、耳にしてはいますが。……リゼット様は、今でも彼を想っていらっしゃるのですか?」
「はい」
即答したリゼットの瞳を、ナサニエルは真っ直ぐに見つめた。
「それは、私にはまったくチャンスがないということでしょうか?」
「……」
ナサニエルの真剣な表情に、リゼットは思わず声を詰まらせてから、小さく息を吐いた。
「……貴方様と2人でいるというのに、昔の恋人の話を持ち出すべきではないとはわかっているのですが、どうか私の失礼をお許しください。
貴方様は、驚くほどに、私が失った婚約者に似ているのです。彼も花が好きで、春が巡ってくる度に、この場所を幾度も彼と歩いたものです。動物に優しいところも、彼と同じですし。
私は、彼のことが今でも本当に好きで……忘れられなくて。貴方様を見ると、彼を思い出してしまうのですが、やはり彼以外は考えられないのです」
「……私と過ごしたこの時間は、つまらなかったですか?」
ナサニエルが少し切なそうに瞳を細めたのを見て、リゼットは慌てて首を横に振った。
「いえ! それは、……楽しかったです。ナサニエル様は、どうしてか、とてもお話ししやすくて。久し振りに、男性とお話ししても自然に笑うことができました」
「では、しばらく私に時間をもらえませんか? そうですね……ニ月後の降誕祭の時まで、リゼット様の時間をいただけないでしょうか。それまでに、私は、貴女に振り向いていただけるように、できる限りの努力をします。それで貴女の気持ちが動かなかったなら、すっぱりと貴女のことは諦めますから」
「降誕祭……」
少し翳らせた表情でそう呟いたリゼットに、ナサニエルは頷いた。
「今年は7年振りの大祭です。この国を創った精霊たちが、人々の願いを叶えに地上に降りて来ると言われるその日を、できれば貴女と一緒に過ごしたいのです」
(……スタンリー様を失ったあの日から、もうすぐ7年になるのね)
スタンリーからの連絡が途絶えたのが、ちょうど7年前の降誕祭の日だった。しばらく口を噤んでいたリゼットだったけれど、彼の言葉にようやくこくりと頷いた。
「ナサニエル様のお時間をいただいてしまって、申し訳ないような気もしますが。もし貴方様がそれでも構わないのでしたら、承知いたしました」
「ありがとうございます。今の私には、貴女のその言葉で十分です」
ナサニエルはリゼットの手を取ると、大きな両掌で包み込んで、顔いっぱいの笑みを浮かべた。顔を赤らめたリゼットのことを、2人の足元に座っていたスタンは、大きな瞳でじっと見つめていた。




