チャンスの女神-ガール・ミーツ・ボーイ-
第一印象は最悪だった。何と言ってもあいつの俺に対する第一声が
『廉兄ちゃん、あれ見て、すっごいぐちゃぐちゃ。気持ち悪い模様』
だったくらいにキョーレツな第一印象を抱かせる、俺の背中に刻まれたまま消えることのない火傷の痕。「嫌い」とはっきり言われたのも、この時が初めてだった。
まだお互いに七歳の時だったから、率直にそう言うのはしょうがない。今でこそそう思うけれど、当時の俺はショック過ぎて、不覚にもあいつに涙を見せてしまったんだ。心の中で「だからプールなんか行きたくないって言ったのに」って、泣きながら親父を責めていた。
だけど次の瞬間、俺は親父に感謝すらしていたかも知れない。俺を傷つけたと気づいたあいつの
『ごめんね。ごめんなさい。綾乃、模様入れてるだけかと思ったの』
と謝りながらぱたぱたと涙を零す顔と、そのあとであいつが見せた笑顔に出会わせてくれたとも言えるからだ。
『綾乃が悪いのに、許してくれてありがとう』
そう言ったあいつの顔は、向日葵がぱぁっと花開いたみたいに眩しい笑みをかたどった。
“宮下綾乃”
書道教室でその名を記している彼女の姿を見つけた瞬間、俺の心臓は八ビートを刻んで半分死に掛けた。先生に訊いたら、隣の学区の生徒だと教えてくれた。それが小学四年生の時。綾乃からはその時既に、あの向日葵のような笑みが消えていた。自分のことを「綾乃」と呼んでいた彼女はオレ女になっていた。おかっぱのセミロングだった髪もばっさりと短くしていて、どこか見覚えのある中性的な面差しに変わり果てていた。
同じ書道教室で、綾乃と同じ学校だという男子にあいつの身に起きたことを聞いた。
『ああ、宮下の兄ちゃんが四年前に事故で死んじゃって』
四年前、俺が綾乃と出会った年。その年の秋に、廉兄ちゃんが綾乃を庇って交通事故で死んでいたことに俺は相当なショックを受けた。でもそれ以上の衝撃を受けたのは、そのショックで綾乃の母さんが綾乃を忘れて彼女のことを「廉」と呼んでいたこと。
俺は、綾乃が廉兄ちゃんを演じているのだと四年も過ぎてから知ったグズだった。それがすごく、悔しかった。
あの時、既に俺は落ちてたのかな。とにかく、綾乃は俺にとって“特別な存在”になっていた。どうしようもない幼い頃の失敗を傷として抱えたままの脆さや、母親の為に自分を捨てる一途さが、ほかの女子よりも女の子らしく繊細に見えた。今では綾乃の母さんも普通に戻ったけれど、あの当時の俺は正直言って、綾乃の母さんを恨んでた。
俺達が住んでいるこの町は、人口三万人弱という小さな町で、町内に二校しかない小学校の卒業生が一校しかない中学に集結される仕組みになっている。
中学の三年間で綾乃と同じクラスになることはなかった。声を掛けることも出来なくて。塾でもそれはおんなじだった。なんて声を掛けていいのか解らなかったんだ。綾乃の奴は、こっちのことをまったく覚えていなかったから。どう話を切り出したらいいのか、俺のツルツルな脳みそではいいアイディアが浮かばなかった。
“プールでケロイドが気持ち悪いって言われた奴だよ、覚えてるか?”
って、それじゃ責めているようにしか聞こえない。それに、その言葉は必然的に、廉兄ちゃんを連想させる。あの時あいつは廉兄ちゃんを困らせたことについても、ショックを受けていたみたいだったから。
辛い思い出の象徴になるのは、俺としては戴けない。考えあぐねている間に、二年の月日が流れていた。
あの当時、気になることがもうひとつあった。
三年間腐れ縁だった、望月貴明といういけ好かない同級生。こいつが綾乃の幼馴染らしくて、いつも隣にくっついていやがった。そこそこイケてる奴で、女子の注目を俺と望月とで二分していたらしい。当時、女子達がなぜか俺と望月をワンセットで考えていて、あれこれ噂していたのが嫌でも耳に入って来るからであって、これは決して俺の自慢話じゃない。
『藤堂先輩は百合先輩とつき合っているという噂を聞いていたから、ずっと言わずにおこうと思っていたけれど、百合先輩は望月先輩の彼女だって噂を聞いて勇気を出すことに決めました』
そんな打算まみれの手紙がいつも下駄箱に入っている。俺はそれにうっとうしさを感じて、大概そいつから必要な情報だけ手に入れたらゴミ箱に捨てていた。女子の噂というのは、どうしてこう月単位で二転三転するんだろう?
『彼女いない歴十四年で悪いかっ! こん畜生――ッッッ!!』
当時はそうやってよく吠えていた。望月に負けるのが妙に悔しかった。ただでさえ成績が雲泥の差なのに、人格にまで遅れを取るのは成績以上に悔しいものがあったんだ。
廉兄ちゃんがキャプテンをしていた、という話を聞いてやり始めたバスケット。中学になった辺りからは、廉兄ちゃんを目指す理由から俺自身の目標に変わるほどコイツに嵌っている。
バスケだけは誰にも負けねえ。望月にだって、誰にだって、バスケだけは負けてなんかやらない。そんなことを考えては俄然やる気が湧いて、よく町内の体育館へ練習をしに行く中学時代だった。
二年の三学期末、あみだくじで貧乏くじを引いてしまい、整美部の副部長をやらされることになってしまった。バスケの練習時間が減るから断ろうとしたのだが。
(お。流石、優秀な応援団員)
役員名簿にあいつの名を見つけた途端、整美副部長の腕章を次期会長・望月から受け取っていた。
――フレ――、フレ――、とーうーどーうっ!
彼女の通った声を思い出す。俺と知らずにいるのだろうけど、あの声援のお陰で試合はいい線までいけた。一年の内からレギュラーだったのは俺だけだったが、三年の先輩達に文句を言わせないだけの貢献が出来たと今でも思ってる。ゴールを決めた瞬間の歓声の中、あいつの
『うっしゃ――っ! ナイッシュー、雅之っ!』
という甲高い声が、いつも俺を更に奮い立たせるミナモトになっていた。
ふと思いついて我に返った俺は、教室から出ようとしている望月を慌てて呼び止めた。
『もーちづきっ! ちょい待てっ!』
議事録を配りに行こうとしていたヤツは、柔和な態度を崩さずに、だけどあからさまに迷惑と言わんばかりの嫌味な微笑を浮かべてひと言ぴしゃりと条件を告げた。
『五秒だけならいいけど、何?』
ああ、やっぱいちいちむかつく。こいつのこのヨユーの笑みが堪らない。
『整美部の役員席、応援部の隣にしてくれよ。会長権限で出来るだろう?』
俺は、即席にしてはすばらしい質問を出来たと心の中でガッツポーズを決めていた。なんてったってこの質問は、たったひとつで三つのことが解る……かも知れない。
望月が綾乃をどう思ってるのか、そしてその逆の疑問、それから俺が綾乃にとってどういう立ち位置にいるのか。そして万が一望月の野郎が綾乃に何かしらよからぬ感情を戴いていたとすれば、こいつに牽制を掛けられるというオマケつきの質問だ。
しかし相手は俺の鬼門・文武両道の生徒会長だった。
『ふーん。藤堂って、そうなんだ』
挑発的な笑みが、同じタッパの癖にわざと顎を上げて見下ろす姿勢を取る。奴は
『貸しひとつね』
と挑発的なひと言を残し、悠然と教室を出て行った。あの瞬間、本気で望月を蹴り殺してやろうかと思ったのは、未だに内緒だ。
「お待たせ。友達にアイス食って帰ろうって誘われちって。遅くなって悪い」
綾乃の声で、俺は回顧から現実に戻って来た。
「お、おう。呆けてた。でーじょーぶ」
真夏の太陽をバックに燦々と俺に注いで来る笑みは、やっぱり向日葵みたいだと俺に思わせた。
望月の半年にわたる助力のお陰で、あの総会をきっかけにいろいろありつつ、三年の秋頃から綾乃とつき合い始めて現在に至る。あれからもう二年以上も経つんだな、と今の綾乃を見てると時間の流れをとても感じる。
相変わらずの「オレっ子」なんだが、いつの間にか仕草や服装が女らしくなって来た。進学した高校で女友達もたくさん出来て、話題についていく為に雑誌やお喋りなどで情報収集をしている内に、なんとなく身についていったらしい。同郷で同じ高校に行ってる女子に俺とつき合っているのがバレた時、すんごい説教されたとも話してくれた。
『あんた、そのままだとあっという間に藤堂君に浮気されるか捨てられるわよっ』
する訳ねーじゃん。その前に、まだ俺は綾乃の全部を手にしてない。まだ、綾乃にとって一番の男じゃない。――まだ、廉兄ちゃんを越えてない。
「おーい、どした? 行こうぜ。図書館」
「お? おお。悪ぃ、呆けてた」
いつの間にか、また自分の世界に入っていた。俺が慌ててそう返事をすると、綾乃は
「またかよ。頭使い過ぎて疲れてんじゃねーの?」
と向日葵の笑みを浮かべたまま、俺の腕にその細い腕を絡ませた。
「棚卸で臨時休業……」
ふたりして呆然と大型書店の前で立ち尽くす。
バスケの推薦入学で今の高校に通っている俺は、進学校に進んだ綾乃に勉強を教わるのが日課になっていた。綾乃は友達と過ごしながら俺のクラブが終わるのを待ち、駅前で待ち合わせてからブックカフェで一緒に勉強をする。俺の場合、バスケを理由に成績が落ちれば当然退部ということになる。つまり成績が落ちたら退学も同然。バスケ馬鹿の俺には厳しい状況だった。
「あ、今日はおふくろが遅番だって言ってた。喋り魔がいないし、家でやるか?」
無駄足を踏ませるのもなんだしと思い、俺は綾乃にそう提案した。俺も来週のテストまでにもう二単元は確実にしておきたい。それを綾乃も知っているので
「そうだな。んじゃ、戻るか」
と苦笑する。ツキンというかズキンというか。綾乃のそういう何気ない仕草や表情を見ると、最近特に余計にすげぇなんていうかこう……落ち着かない気分になる。
「お?」
不意をついて彼女の首ったまを掴み、そのままこちらへ引き寄せる。下ろした前髪の上から、彼女の額へ人目もはばからずに口づけた。
「ひっ、人前ですんなっ」
相変わらず頬が一気に真っ赤く染まるのを見るのが嬉しくて。わざとそんな意地悪をするのが、俺の密かな楽しみだった。はず、なんだけど。
(やばい……)
益々可愛くなる。余計に言い出せなくなる。
俺は綾乃に“伝えなくちゃいけないこと”があるのに、今日もそれを言えずにいた。
「――って解くと、数値がnの時のaとbの数値を、こういう数式で表すことが出来るだろ?」
「あ、なるほど」
「んじゃ、この問題集の四番をひと通りやってみな。これが解けたらマスター出来たと思っていいよ」
綾乃はそう言って自分の学校の応用問題集を貸してくれた。俺が問題を解いている間に、自分の宿題をやってしまおうという訳だ。
学校の先生よりも、綾乃の説明の方が俺には解りやすい。中学の頃は数学の成績なんかはどっこいどっこいで同じ数学塾に通っていたくらいなのに、いつの間にか綾乃に越されていた。そんな自分の不甲斐無さを情けなく思う。俺でいいんだろうか、と心配になってしまう。なんでかと言えば、つまり――あまりにも綾乃が基本、俺に対して淡白だから。
あ、いかん。勉強に集中出来てない。この問題のここから先が訳わかめ。綾乃に訊こうと顔を上げ、その横顔を見た瞬間、なぜか酷く胸が痛んだ。
長く伸びた髪が、綾乃の横顔の殆どを隠す。その隙間からわずかに覗く瞳がどこか寂しそうに見えた。
前に綾乃が言っていた。
『廉兄ちゃんは頭がよかったからね。勉強もバスケも学年トップに主将っていう立場だったし。それに近い自分でいることが、廉兄ちゃんやお母さんへの償いだと思ってる』
死んだ人に縛られて、周りで一緒に息をしている人に無関心過ぎる。そう思った俺は冷たいんだろうか。 まだどこかで廉兄ちゃんのレプリカであろうとする綾乃に、俺はしばしば憤る。「こっちを見ろよ」と叫びたくなる。
「雅之?」
不意に綾乃が顔を上げたのは、俺が彼女の頬に触れた所為。戸惑いから眉間に皺を寄せる綾乃を見て、どうしようもない感覚に囚われた。
「何? 終わったのかよ」
「お前さ、いつまで廉兄ちゃんのレプリカを続けるつもりだ?」
能天気な綾乃の顔が、無性に俺を苛立たせた。
「は?」
「……俺らみたいな年頃の男が普段何を考えてるか、なんて」
俺は綾乃の頬に触れた手を滑らせ、そのまま首根っこを掴んで半ば無理やり自分の方へ引き寄せた。
「なんちゃって野郎の綾乃にはわかんないだろう」
無防備な細い身体は、難なく俺の懐へ転がり込む。
「ちょっ、雅ゆ……んん?!」
お前の言い訳なんかもう聞き飽きた。「そんなことない」という否定も聞き飽きた。もう、あまり時間がないんだ。いい加減、おままごとみたいなつき合いごっこを、俺は卒業したいんだ。
「や、め……っ」
それまで綾乃を赤面させてたおままごとのキスなんかじゃない、噛みつくような形でそんな想いを綾乃に捻じ込む。捻じ込んで、かき混ぜて、それは綾乃の恐怖と混ざり合い、不協和音を奏でていた。
「おま……何考えてんだ馬鹿野郎っ、離せ!」
そう言って俺の唇から逃げてもがく綾乃が、距離を広げようと爪を立てる。その指先を彩る淡いピンクまでもが「このままでいたい」という綾乃の主張に見えて苛ついた。
「いい加減に気づけよ、綾乃」
鍛え上げて腕力が増した腕一本で、綾乃の両腕を拘束する。
「お前は廉兄ちゃんなんかじゃない」
「な、に言って」
「男でもない。お前なんか、俺が本気で押さえ込んだら、こんなに簡単にねじ伏せられる」
蹴りを入れるつもりだったんだろう、綾乃が仰向けに押し倒されたまま膝を曲げた瞬間、その間に割って入り、その脚さえも自分の脚で押さえ込んだ。
「イヤってくらい解らせてやる。お前は廉兄ちゃんなんかじゃないってこと」
「やだってば……お願い……」
決壊したダムみたいに涙が次々と溢れ出し、綾乃が小さく呟いた。同時に、俺の手が彼女のキャミソールの下に滑り込む。そしてなぜかもうひとつ同時に、俺の部屋の扉がなんの前触れもなく突然乱暴に開かれた。このみっつの事象が俺の狭い個室で同時発生したのだから堪らない。
「この馬鹿息子がっ!」
そこにはいるはずのないおふくろが、とんでも恐ろしい顔色で仁王立ちして俺を見下ろしていた。
「綾乃ちゃんの叫び声で慌てて部屋に来て見れば、お前一体何やってんだいっ!!」
マジか、あり得ない。仕事をサボるキャラじゃないはずだ。おふくろがなんでいるのか解らない。
「き、今日は遅番じゃなかったのかよっ」
「シフトが変わったんだよっ! ってまさかお前、誰もいないのをいいことに、親の信頼を裏切って綾乃ちゃんを騙して連れ込んだのかぃっ!」
「ち、ちが」
「いい加減どけっ! バカ之ッッッ!!」
「はがぅっ!」
俺はおふくろから振り下ろされた背中へのひと蹴りと、正面から綾乃の両頬への平手打ちの両方を同時に受けて、残りHPをゼロにされた。
おふくろがバカ親じゃなくてよかったと思う。俺をこてんぱんにどやしつけはしたが、綾乃に対しては決して「息子を誘惑した」みたいな誤解をしなかった。むしろ一時的に戦闘不能で自己崩壊した俺に代わり、何度も綾乃に謝ってくれた。
未遂に終わったことと、綾乃自身が俺を庇ってくれたお陰で、綾乃の母さんにまで話が及ぶことにならなくて済んだ。謝罪を兼ねて家まで送るというおふくろを思い留まらせた存在は。
「も、望月にっ! あ、あいつに来てもらって、そんで送ってもらうから! だからおばちゃん、あの、雅之だけが悪いんじゃなくて、オレも家に上がりこんでごめんなさい」
という綾乃の芳しくない機転で、望月にまた無様な出来事がバレてしまった訳で。
「貸し、ふたつ目ね。いつ返してもらおうかな」
久し振りに会ったライバルは、相変わらず小憎たらしい演出で家のおふくろを落ち着かせたあと、こっそりと俺にそう囁いた。
「い、いつでもっ。さっさと返してグジグジいつまでも言われるのから解放されてえ」
「そ。じゃ、楽しみにしててね」
望月はにやりと含みのある笑みを浮かべて俺の横を通り過ぎて行った。
「綾乃。帰るよ。おばさんには俺と一緒に夕飯を食べてから帰るって電話を入れてあるから」
「何?!」
それは綾乃と俺が同時に発した声だったけど。
「……いえ、なんでもありません」
キッ、とすんごい目で睨む綾乃に怯み、俺は二の句が告げなくなった。
もう、サイアク。俺、恰好悪い上に百パーセント、振られ確定。
軟禁された自室の窓から、並んで歩く望月と綾乃を恨めしげな目で睨んでいる自分がすっげぇ惨めだった。
罰として夕食抜きだと。ほかに何もする気にならず、ベッドにごろんと寝転んでいた。
「……やらかい、もんなんだな」
掌を天井に翳して、思い出す。勝手に心臓が八ビート。
「あと、意外と、あった」
ぐ、と広げた手を握る。一瞬触れたあの感触が、木っ端ミジンコになった。
「……虚しい……」
自分がすげえエロ親父に見えた。
どのくらい時間が経ったんだろう。不意に扉の向こうから、俺を呼ぶ親父の声がした。
「腹が減っただろう。母さんから職場に電話が来て聞いたよ。コンビニ弁当をこっそり買って来てやったから、部屋に入れてくれよ」
餌で釣って説教かよ。望月の何が気に入らないか、久しぶりに思い出した。親父と似てるんだよ、こういう策士っぽいところが。
「説教はもう充分だよ。親父もおふくろと同じことが言いたいんだろ」
「いや、むしろ逆なんだがな」
「は?」
俺は策に嵌ったんだろうか。逆ってなんだ? と気になって、結局親父を招き入れた。
「父親と話していると考えると素直に聞けるもんじゃあないだろうし」
俺はそう話す親父と視線を合わせないまま学習机に向かうことにした。
「僕もそういう話をしたい訳じゃない。男同士の話ということで、母さんには絶対内緒だぞ」
俺が受け取った弁当を黙々と食べている間、親父は俺のベッドに腰掛け、そんな出だしで“男同士の内緒話”とやらを俺の背中に向かっておっ始めた。
「ちょっと順序が逆だったよなあ。まだ、綾乃ちゃんには何も言っていないんだって?」
痛いところを突いて来やがる。茶で飯を流し込み、俺は無言で頷いた。
「女の子はデリケートで、特にお前達の年頃ならば余計に繊細なものなんだから。傷つけたくなくて言い出せないんじゃないのか? なのに、順序を間違えたばかりに結局綾乃ちゃんを傷つけて後悔している。今のお前の心境はそんなところじゃないのかい?」
それに答えず弁当の空き容器を袋に詰める俺に、親父は特に言及するでもなく。代わりにとんでもない提案を持ち掛けて来やがった。
「ま、焦る気持ちは解らないでもないよ。いっそ離れている間に、他の女と遊ぶのもひとつの手だぞ。いい経験になるのは間違いない」
「ぶふっ!」
思わず机に向かって茶ぁ噴いた。今、何つった、このクソ親父!
「このエロ中年、何考えてんだ」
信じらんねえ、我が親父ながら。都市銀行の支店長という肩書きが泣いてるぜ。
そんな俺の蔑みの視線を気にもせず、親父は自分の若かりし頃の武勇伝をおもむろに語り、苦笑しながら気色悪いことを言った。
「母さん譲りだな、お前のその一途さは。だから僕は、母さんが最後の女になるのになんの抵抗もほかの女への未練もなかったんだけどね。お前はまだ十七だろう。場数を踏むから、よさをそれ以前よりも理解出来る。そういう考え方もあるんだよ」
親父はそう言って、若かりし頃の恋話を幾つかを軽くなぞって俺に聞かせた。そして最後にこう言った。
「綾乃ちゃんにも言えることだ。まだ若い内から、お互いに縛られる必要はない」
僕はお前を一人前の男として認めているからお前の将来のことも許したんだ、と言われた瞬間、初めて親父の違いに気がついた。
自分のことを「父さん」ではなく「僕」と表現して話していた。いや、今夜に限ったことじゃない。俺の将来の夢について、泣いて反対したおふくろを一緒に説得してくれたのは、親父だ。あれが全部、親父なりの意思表示だったんだ、と今頃解った。
「……俺、親父みたいに器用じゃねえし」
大人の理屈を受け容れられるほどには、まだ大人になれない俺。理屈は解るつもりでいるのに、綾乃と別れるという選択肢は自分の中をどう探しても見つからない。
「まあ、当たって砕けてみるのもまたひとつの手だしね」
背後で小さな溜息と、ぎしりとベッドの軋む音がした。
「いずれにしても、お前自身が自分に自信を持つことだ。でないと、向こうへ行っても無意味だよ」
逃げないこと、と言いながら、親父は子供の頃によくしたように、俺の頭をくしゃくしゃと撫でてから出て行った。
翌日から、駅前にあるいつものベンチで俺を待つ綾乃の姿がなくなった。綾乃の為に練習をサボる気はなかった。俺からバスケを取ったらただのバカでしかないという自覚があるし、何よりきっと、綾乃がまた自分を責めると思ったから。
「やっと週末じゃん」
待ち遠しかった週末。朝練がない日の前夜。
俺はチャリをかっ飛ばして綾乃の家に直進した。今日こそちゃんと伝える為に。
「ごめん」という謝罪と、「やっぱり焦らなくてもいい」という前言撤回と、それから――。
綾乃の部屋の窓を見上げ、チャリにまたがったまま電話する。それで出なけりゃピンポンだ。綾乃の母さんを味方につけて、取り敢えずツラだけでも拝んでやる。――なんて覚悟で電話をしたんだが、意外とあっさり電話に出た。結構拍子抜けしないでもない。
『クソタヌキ、今更謝っても許さないからな』
内容は覚悟以上にダメージを食らうものだった。許さねえのかよ……。
「取り敢えずツラ貸せ。殴りたければ殴ればいい。とにかく、お前に言っておかなきゃいけないことがあるんだ」
返事を聞かずに電話を切る。それでそのままなら、今日のところは帰ることにする。
速攻で俺の携帯が綾乃に特定した着信音を周囲に響かせた。と同時に、窓を勢いよく開け放つガラガラ、という音。
「てめ、家まで来てるなら先に言えっ」
そう怒鳴る綾乃の顔は、涙と鼻水ですんげえぐしゃぐしゃだった。一気に緊張が解けた瞬間だった。よかった、綾乃に嫌われてはいなさそうだ。
門の前に現れた綾乃の、パーカーを羽織った下は思い切り部屋着のまんま。結構露出の激しい真夏の服装は、ちょっと今の俺には目の毒なので。
「そこの公園までちょいつき合えや。そのまんまだとまた襲うぞ」
そう言って思わず視線を逸らしてしまった。
「反省してねえじゃん」
という綾乃の声は柔らかで笑いも混じっていた。ほっとしたものの、彼女が着替えの為に部屋へ戻っている間に次の緊張が高まって来る。仲直りの直後にまた喧嘩、なんて事態になったら今度こそ本当に終わりかな、みたいな。だけど、伝えておかなくちゃ。もう決めたことなんだから、今更やっぱなし、という訳にはいかないのだし。
「お待たせ」
そう言って今度は目のやり場に苦心しないTシャツにジーンズというラフな恰好で現れた綾乃を後ろに乗せて、俺らは小さな近所の公園に向かった。
「この間はすまん。もうあんなことはしないって約束する。それから、やっぱ焦らなくていいから、綾乃が楽な自分でいてくれたらそれでいい」
ブランコを立ち漕ぎしている綾乃にあわせて、右へ左へと視線を揺らしながら、俺は取り敢えずそこまで一気に告げた。それから、一番報告しなくちゃいけないことをようやく舌に乗せることが出来た。
「このタイミングで言うのは言い訳みたいでどうかと思うけど……俺、東海大を受けることにしたんだ」
綾乃の視線が、真正面から俺の方に移ったのが俯いた視界の隅で感じ取れる。ブランコの動きが止まって、彼女がそれに座る気配を感じた。
「東海大って、二年連続で優勝したチームの大学、だよな」
「うん。家の監督が人を通じてあそこの監督を去年の試合に招待してたらしいんだ。それで俺に気づいてくれて、家のチームに来ないか、って誘ってくれて」
一年近くも黙っていて、なんだそりゃ、って怒鳴られる覚悟で話したんだけど。
「東海大って、確か北から南までキャンパスがあるよな。お前が行くのはどこなんだよ」
消え入るような声で、綾乃が静かにそう尋ねて来た。
「神奈川県」
「神奈川……今のオレには、遠いなあ……」
続いた彼女の溜息に、怯えとも罪の意識とも思える痛みが、俺に本音を吐き出させた。
「ずっと黙っててすまん。離れるって聞いたらお前に絶縁されると思って、なかなか言い出せなかった」
「なんで?」
そう言って寂しげな笑みを浮かべるのは、きっとまた自分を責めているからだ。
「離れてる内に、その……廉兄ちゃんに負けるかも、っていうか、また忘れられちまうっつーか、その」
駄目だ、そこから先が巧く言えん。こいつの視界から外れず自己主張していないと、廉兄ちゃんに綾乃の気持ちを全部占められてしまうと思ったんだ。客観的に聞いて、これは怪しい。死人に嫉妬する俺という構図は変だ。しかも相手は兄貴だし。
ブランコに大股開きで腰掛けたその態度は偉そうなのに、俺は肘を自分の膝についてうな垂れていた。それ以上、巧く言えない。自分に対する歯痒さが、俺のまつ毛を軽く濡らした。不意に綾乃の履いていたサンダルが視界に映る。細い指先が俺の両の頬に触れ、そっとその輪郭をなぞったかと思うと、そのまま挟んで俺の視線を綾乃の方に向けさせた。困った、それでいて面映いという苦笑を浮かべた綾乃が、黙ってただ俺の目の前に佇む。彼女がほんの少し俺の方に姿勢を傾けると、その長い髪が前に垂れ下がった。月明かりが逆光となって、彼女の表情を見ることが出来なかった。
「――ッ!」
それは、いつものままごとのようなのでもなく、この間の噛みつくようなものでもない。流し込まれて来るのは、綾乃のストレートな気持ち。
「雅之、信じろ。オレはずっとお前の応援団だ。お前がその道を決めたのなら、オレはいつでもお前のところへ応援に駆けつけるから。それは廉兄ちゃんの真似じゃなくて、お前自身が目指している夢なんだろ?」
耳許に甘く囁くその声は、「オレ」という自称名詞が全然似合わない“女”の声。身を屈めた綾乃の懐に納められた俺の頭を抱え、髪を弄ぶその指は、とても愛しげに扱う仕草で。
「バカだな、雅之。廉兄ちゃんがいるのはオレの中じゃなくて、お前の中じゃん」
「!」
言われて初めて思い至る。廉兄ちゃんの話題を振るのは、いつも綾乃じゃなくて俺からだった。
「嫌われたかと思ってた。別れたいって言われるのが怖くって、駅で待てなかったんだ。あんなことで繋ぎ止めようなんて焦らなくても、オレはもう絶対お前のことを忘れないよ」
――お前のことが好きだから。ずっとお前の隣で応援してる。オレの中にいっつもお前が居座ってるから、寂しくない。
「だから、オレの顔色なんか気にしないで、行けよ。昔から思ってたんだ。お前はこんな田舎で燻ってるタマじゃねえ、って」
初めて、綾乃が自分の気持ちを口にした。初めて自分から俺にキスをした。俺は、初めて綾乃に本当の気持ちを口に出来ていた。
「……廉兄ちゃん以下じゃなかったんだ、俺……よかった……っ」
「って、なんで泣くんだよ。まるでオレが泣かしたみたいじゃん」
綾乃はそう言って屈めた身を起こし、俺の目と頬を乱暴にTシャツの裾でごしごしと拭き取った。それからもう一度、ちょっとだけ大人のキスをしてくれた。
「女にこんなことさせてんじゃねーよ」
と、その直後にこめかみゴリゴリの刑もお見舞いされた。
俺らは相変わらず、喧嘩しては仲直りする毎日を送る。少しだけ変わったのは、綾乃が「オレ」から「アタシ」に呼称が変わったことだ。
「あ、そうだ。オ、アタシさ」
「無理しなくていいんじゃね?」
「無理じゃないっ。あとあといつまでもオレじゃ困るって自分で思っただけだオレはっ」
「へーへー、オレね」
「……あ、アタシ」
「くそむかつく」
「なんで」
「……可愛過ぎるから」
「だから人前ですんなーッッッ!」
俺はやっぱり、綾乃以上の女はいないと思う。自信を持ってそう思えることで、親父のことも越えられた気になってる傲慢な俺がいたりする。
焦らなくていい。それは、綾乃だけじゃなく俺に言えることなんだと思う。お互いのこれからのことも、バスケのプロ選手になるという夢の実現も。今この瞬間を大事に重ねていくことで、勝手にいい結果がついてくる、って思えるようになっている。
東海大には、自分で自信を持って堂々と在籍出来るよう、推薦の形ではなく受験することにした。綾乃が協力してくれるし、結構イケる自信もある。日本中の優秀な選手が集まるのだろうから、夢が実現出来る保証はない。そこでもし夢が潰えたとしてもほかの道へ軌道修正が利くよう、勉強も一応頑張っておきたいと言ったら綾乃に「このへたれが」と笑われた。
「夢が叶わない訳ねえだろ。このオ、じゃない、アタシが応援してるんだぜ?」
そうだな、と俺も綾乃に釣られて笑ってそう答えた。
どう転んでも俺の前には常にチャンスが転がっている。傍らで、ずっと女神が応援しているんだから。




