6話
無理に運動をするのはよくない。それを学んだ朝練だった。
治癒魔法を使ってようやく痙攣の治まった腹に手を上げながら帰路に着くと、なにやら家が賑やかだった。
「ただいまー」
玄関先で靴を脱ぎながらそう言うと、母さんが廊下の奥から飛び出てきた。
「ナオト!あなたどこいってたの!」
「いや、公園までちょっとジョギングに……」
携帯片手になにやら怒った様子の母さんに驚きながらも答えた。
母さんは、その言葉にほっとしたように険しい表情が緩んだが、すぐにまた眦が吊り上がった。
「家を出るなら一声かけなさい! 心配するじゃない」
そう言って、母さんはオレを抱きしめて、「よかった……」と言葉をこぼした。
「運動は結構だが、家をでるときは一言告げていけ。母さんをあまり心配させるな」
父さんも廊下に出てきて、ほっとした様子でオレの頭をくしゃくしゃと無造作に撫でて、家を出ていった。
「まったく、人騒がせなんだから」
2階に続く階段から顔だけを出した陽菜は、それだけ言って引っ込んでしまった。
オレは、オレを抱きしめたままぐすぐすと泣く母さんをあやしながら、どうしてこうなったと自問した。
オレは知らなかったが、自我喪失をした最初の頃、症状が薬で落ち着いていた頃に一度、自宅に帰省したことがあったそうだ。
その時にオレは深夜に無断で家を出て、行方不明になって車にひき逃げされて病院に担ぎこまれたそうだ。翌朝にオレがいないと大騒ぎになって、警察にも電話して捜索していたら、車に轢かれて病院に運びこまれていたことが発覚したそうだ。
幸い、オレは頭を数針縫ったのと体に多少の打撲と擦過傷で済んだらしいが、正気を失っている息子が行方不明になった挙句、車と事故って死にかけたとなれば、母さんにとっては、トラウマだろう。
それこそ、母さんにとってオレが正気を失ったきっかけである自転車の事故も重なって、オレが一人で外出することに大きな不安を感じるようになっているみたいだ。
ひとしきり泣いた母さんからその話を聞いたオレは、家を出る時は、必ず誰かに伝える。外出時は可能な限り、誰かと一緒に行く。携帯電話を必ず携帯する。所持品にはすべて身元がわかるようメモを記すという約束をさせられた。
「そう言えば、前の携帯は壊れたままだったわね。今日中に新しい携帯を買いに行きましょうか。ついでに服も買いに行きましょ。前の服はどれも入らないでしょうし」
気が付いたら、今日の予定が決まっていた。
自分の携帯を見かけなかったが、壊れていたのか。用水路に落ちた時にでも水没したのだろう。
服は確かに、体型が変わりすぎてどれも着れなかった。かろうじて今着ているジャージ服以外は全滅だった。
「ありがとう母さん」
「いいのよ。あ、携帯にはGPS追跡アプリを必ず入れるからね。いいわね」
「よくわからないけど、それでいいよ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
シャワーを浴びて新しいTシャツに着直してリビングに戻った。服のサイズがMからXLサイズに変わっているのに未だに違和感がある。これが筋肉の発達なら誇らしいが、脂肪の蓄えなので嬉しくない。
しかし、腹をもみこむ感触は今まで経験のない柔らか触感で嫌いかと言えばそうでもない。
こう……揉みこんでいると気が紛れる。
胸も今なら挟めば谷間を作れそうだ。
「お兄ちゃん……自分の胸を揉んでなにしてるの……? 」
「あっ、いや」
「……きもっ」
心にグサッときた。
オレは、自分を慰めるために腹を揉んだ。
駄肉には、リラックス効果があるかもしれない。
「ご飯できたわよー。あら、ヒナも降りてきたのね。サラダ、冷蔵庫に入ってるわよ」
「ありがとうお母さん」
「はい。ナオトもサラダ。お腹なんていくら揉んでも脂肪は落ちないわよ」
「……わかってるよ。いただきます」
ただ自分の体を揉んでいるだけで、何やら誤解が増えている気がする。
母さんにまで揶揄われて、オレは腑に落ちない気持ちで席についた。
母さんが用意したサラダは、千切ったレタスにサイコロ状に刻んだトマトとキュウリ、それとチーズをシーザーサラダドレッシングで和えたのを盛っていた。
生野菜おいしい。全然苦くない。
色味や形も悪くないし、改めてこの世界の食生活は恵まれているなと思う。
続けて、出されたマーガリンを落としたカリカリのトーストを齧る。
サクッと音を立て、口の中で広がるマーガリンの甘みとトーストの香ばしさで多幸感が溢れる。
マーガリン以外何もつけなくても完成されたおいしさだ。
雑味のないパンの甘みがこんなにおいしいとは異世界に行くまで気づかなかった自分は、なんて乏しい感性をしていたのだろうとさえ思う。
はじめから持っているものは、失ってからその価値に気づく。なんて教訓が異世界の宗教の説話の中にもあったなぁ。あの説話に出てきた都落ちした貴族が、昔の友人に招待された夜会で口にしたワインに涙する気持ちが今ならわかる気がする。
まぁ、戦場で救世主扱いのオレや王子のセドリックでさえ餌みたいな食事を食ってたのに、都で贅沢三昧をしていた貴族たちには殺意を覚えたが。
食材や料理が富の象徴になっているのを理解はできても、生活の質を落としたくないがために補給物資にすら手を出していた奴らのことは未だに許せる気がしない。食べ物の恨みは恐ろしいのだ。
「……そんな顔で見ても、わたしのはあげないからね」
「いや、そんなつもりはないから」
昔を思い返していたら、対面で食べていた陽菜が何故か、目玉焼きベーコンをかばうように隠した。
いや、妹の分を狙うほど食い意地は張ってない。
自分の分もあるし……と視線を落としたが、手元の皿の中はいつの間にか空っぽになっていた。
なぜだ。
「本当においしそうに食べてくれて、お母さん嬉しいわぁ。おかわりはいる? 」
「いる! マーガリンたっぷりのトーストも! 」
「お兄ちゃん、痩せる気あるの? 」
もちろんあるとも!
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『――和成も残すところ――となりました』
陽菜は、ご飯が終わったら、学校に登校していった。
オレはといえば、幸せの満腹感に浸りながら、母さんの代わりに食器を洗っていた。
母さんは、洗濯の終わった洗濯物を干しにいっている。
『次の元号は――閣議で――』
そう言えば、オレは今、学生ではないらしい。
事故当初は、休学という形をとっていたが、回復の見込みが薄く、社会復帰も困難という状況が2年以上も続いて、休学を続けれなくなって高校は退学となっているそうだ。
つまりは、中卒無職というわけである。
しかも、重度の精神疾患をつい最近まで患っていたともなると、割と人生詰んでいるのではないだろうか。
『――陽庁の――茂大臣は、近年頻発するような災いや厄を遠ざけ、福を呼ぶような元号にしたいと――』
オレ、女神に恨まれるようなことをしただろうか?
女神の頼みに応えて、約束を果たしたのに、福どころか特大の厄を抱えさせられていたなんて、つくづく神様って勝手だと思う。
『――事件は、怨恨によるものと判明し、犯人は被害者の髪の毛を使い――』
救世主やってたオレが神様を呪うなんてことをする気は起きないが、ちょっとタンスの角に小指をぶつけろくらいの邪念を送るくらいは許してもらえる気がする。
『――このような事件が昨今は増加傾向にあり、ネットの普及に伴い、いわゆる――サイトと言われるサイトで情報が拡散しているのが――という調べが――』
女神との交信なんて、異世界で救世主やってた時も女神からの一方的でできなかったが、文句くらいは伝えれる手段がないか、探してみるのはありかもしれない。ネットを調べれば、もしかしたら神様との交信手段の1つや2つくらい見つかるかもしれない。
しかし、パソコンは持っていないから、ネットで調べるとなると噂のネットカフェとかにいかないと調べられないな。しかし、母さんの様子からしばらくは自由行動はできないだろうし、先の話になりそうだ。それに、これからどうするかは、一度親と相談する方が先な気もする。
『最近は、携帯で簡単に調べれるようになりましたから――若者が――』
リビングにつけっぱなしのテレビから垂れ流される音声は、何やら手のひらサイズのテレビを触っている映像を背景に……ってもしかして、あれ携帯電話か?
何気なく視線を向けたテレビの画面にオレは釘付けになる。
えっ、ボタンもないのに画面に触れたら、反応するのか! すごいな!
あの携帯、折り畳み式携帯の次世代機なのかな。
あーそう言えば、薄っすらとした高校生活の記憶の中で、同級生の何人かがそういう折り畳み式ではない携帯電話を持っていた気がする。
テレビの映像が嘘ではないなら、パソコンみたいに簡単にネットで調べものができそうだ。
よし、決めた。
今日はあの携帯を買ってもらおう。安ければ!




