第十三話 ワインの謎と醜い王子と聖女達の秘密
金で作られたであろうゴブレットがゴトン!!と大きな音を立てて落ち、その周りに飲み残しの僅かなワインが散る。絨毯に落ちた赤黒い液体の染みからは黒い煙のようなものが微かに上がったろうけれど、誰もそれには気づかない。それどころじゃないもの。
「あ、あ、あグゥゥゥ……?」
この場に居た人は皆、クライヴ王子を見つめていた。彼はその眼窩から飛び出てしまうのではないかと思われるほど目を剥き、言葉にならない呻きを上げて喉を抑えている。顔からは脂汗がしたたり落ち、その肌は紫色に染まっていた。
「クライヴ様? どうしたのっ!?」
王子のただならぬ様子にヒナが駆け寄る。だけど彼はヒナではなく私だけを見ていた。世にも恐ろしい形相で。
「オーカぁ……ぁ、さ、酒にィ、何、ナニヲ……」
「だから呑むなと言ったのに。昨日、何故かそのワイン瓶に瘴気が溜まっていたのよ。だから私は封をして、誰にも呑ませないようにしていたの」
「「瘴気!?」」
皆が慌てる。そうよね。ワイン瓶に瘴気が入っているなんて予想できたら凄いわよ。私だって昨夜、あれをイッキ飲みしようと口に含んだ時に物凄く驚いたもの。ワインと共に瘴気が流れ込んできて、私は危うく吹き出しそうになり、これは非常にマズイと思ったのだから。
あの時、私は暗い気持ちだった。だからチャッピーから吸い出した瘴気を上手く浄化しきれていなくて、溜め息と共にワインに吹き込んだのかもしれない。あるいは、【守りの聖女】であるマクミラン王妃が街全体に結界を張る直前に、ワイン瓶の中に突如小さな瘴気溜まりが生まれたのかもしれない。
「お、お、オマエ、お、オレっ、オレニ、ワナヲぉぉぉ」
「罠なワケないでしょう! 私が浄化しちゃった水晶玉の替わりに、今後【浄化の聖女】が現れた時の判断用に使えると思って取っといたのよ。問題があれば私が浄化すれば良いんだし!」
私がこの世界に来てからハッキリと能動的に嘘を吐いたのは数えるほどだ。今がその一つ。……と言っても嘘は「罠なワケない」の部分だけ。あの時の私は本当に瘴気の研究や新たな聖女の判定に使えるかもと思ってワインを取っておいた。キッチリと瓶に封印の細工までして(その細工は私が寝た時点で解けてしまったのだけれど)、誤って誰かが呑まないように念を入れていた。
けれどついさっき、怒りに燃えた私は咄嗟に仕返しを思いついたの。濃い瘴気を丸呑みすればクライヴ王子は瘴気に憑かれるだろうと見越し、ワザと「呑むな」と言った。結果は御覧の通り。
「ジョ、浄化シロ、オレヲ! ジョウ……ア、ジョ、ア、ヴアアアアアア!!」
「きゃああああああ!?」
「わあああああ!」
「王子!?」
クライヴ王子の肌の色が更に濃い紫色になったかと思うと一気に膨れ上がり、ぶちぶちと着ている物を内側から引き裂く。その異様さに誰もが後ずさり、王子の側から逃げ出した。
ただひとり、逃げ遅れたのは王子の横に寄り添っていたヒナ。彼女は咄嗟に危険だと判断したのだろう。その瞬間キン、と彼女の周りを球体の結界が覆った。それを見た私は逆に彼らに近づく。私はヒナほど上手くない。結界を張るには手の届くほどの範囲に近づく必要がある。
「皆どいて!」
人垣の最前線まで来ると手をかざし集中する。キィィン! という音と共に私の手から四角い結界が形成された。これで結界の中にいるのは瘴気に憑かれて魔物になったクライヴ王子とヒナのみ。しかしこの結界は大広間の三分の一ほどを占める大きさなので、強度に不安がある。私は結界に手を添えたまま更に集中し、防御力をパワーアップさせる。
よし、これで王子が暴れてもさほど被害は出ないはずだ。
「オーカ様!?」
「……お姉様?……あっ」
私が結界を張った事に皆驚いているが、次の瞬間彼らの視線は再び王子に注がれる。もはや襤褸切れとなった衣類をぶら下げた身体は醜くあちこちが膨れ上がっていて、特に手と腕を中心に上半身が大きくなり下半身とバランスが取れていなかった。紫色の皮膚からは時折微かな瘴気が漏れ出しているし、青い目は血の様な赤い色に変化。背は見上げるほど巨大化していて、頭のてっぺんに残る金の髪が元のサイズと色のままなのが滑稽だけれどクライヴ王子を示す僅かな手がかりでもある。
「ヴアアアア!」
その彼は既に王子としての意識は瘴気に吞まれているのだろう。太い腕を無茶苦茶に振り回して暴れ始めた。宴のテーブルが割れ、皿や花瓶が落ちてけたたましい音を立てながら割れていく。
「きゃあっ」
勿論、魔物となった彼の標的は目の前のヒナも含む。王子の拳がヒナに向かって振り下ろされ、丸い結界が僅かに歪んだ。
「ひいっ」
小さくキン、と音がする。ヒナを守る結界の内側にもう少し小さい結界が二重に張られた音だ。しかし王子は両腕を使ってヒナを結界ごと抱きこんだ。
それは勿論、昨夜感極まった王子がヒナにした愛の抱擁のように甘いものではなく、餌の入った箱を抱えてこじ開けようとしている姿でしかない。彼は結界を握りつぶそうと10本の爪先を喰いこませる。外側にはぴしぴしと亀裂が入った。
おっ、魔物になった王子は予想より強いしちゃんと知能もある。鋭い爪を使って多方面から攻めると結界を破りやすいと理解したみたいね。王子の性格の悪さや愚かさは瘴気と相性が良かったのかしら。もしも弱かったら王子の力をパワーアップさせるのもアリだったけど。
「ギィアアア!!」
彼は結界を抱え込んだまま、口をがばりと開け歯を立てた。パリンと外側の結界が割れたが、ヒナは更に内側に結界を張り直す。しかしこのままではどんどん結界の球体が小さくなるばかりでいずれヒナに危害が及ぶのは明白だ。彼女はとうとう私に助けを請うた。ただし、私に背を向けたまま。
「桜花さん! たすけて! クライヴ様を浄化して!!」
流石に身の危険じゃ語尾も伸ばせないのね。私はわざと意地悪を言う。
「なあに。聞こえないわ。ちゃんとこっちを向いて言って」
彼女がビクリと肩を揺らし、両手を顔に当てた。そしてそろそろとこちらを向く。
「あら、顔も見せない気? 目を隠していたら集中が切れて結界が弱まるかもよ」
その瞬間、またヒナの外側の結界にヒビが入った。ヒナは怯え、「ぎゃっ」と小さく声を上げて顔から手を離す。その瞬間周りがどよめいた。
「!!」
「あれは……瘴気か!?」
ヒナの頬には涙と黒いワサワサした毛の塊が付いている。その毛の塊がゲジゲジを連想させるほど醜いのと、この世界には無いものだったから私以外の全員が瘴気かなにかと勘違いして驚いたのね。
まあ正体はただのつけまつげなんだけど。瞼につけられるテープや糊なんて当然この世界には無いから、ヒナは今まで結界の力を使って瞼につけまつげをくっつけていたのだ。
「! 桜花さん、その結界は!?」
今まで自分の事しか見えていなかったヒナは、こちらを見て初めて私が張った結界に気が付いた。私は今、最高に意地の悪い微笑みを見せているだろうなと自分でも思う。
「私が作ったの。私はヒナみたいに多重結界は張れないから、こうやって皆を守るので精一杯よ」
「……なんで、今まで」
「隠してたかって? ひとの事言えないでしょう。あなたなんて四重結界が作れるくせに、最大でも二重までしか私達を守ってくれなかったじゃない」
「!!」
ヒナはギクリと身をこわばらせ、私の後ろにいる大臣やグリーンさん達からは信じられないといった声が一斉に上がった。
「四重結界!?」
クライヴ王子の魔物化した見た目は、身長2メートル以上のゴリラに似ています。





