11 気高き魂・芳野小春
猟舞に教えられた安濃の住処は、松乃河原学園から歩いて十分程の所にある住宅街の一角の、古ぼけたアパートだった。長年風雨に晒されて壁は赤茶けてしまい、塗装が剥げて錆が剥き出しの階段は、軽く蹴飛ばすとギシギシと音を立てて軋みながら錆び粉を蒔き散らした。そのアパートは『いかるが荘』と言い、安濃はそこの一階の最奥の角部屋に住んでいた。俺が尋ねていくと、安濃は面倒臭そうに顔をしかめたが、躊躇い無く部屋に上げた。
「来る事は分かっていた」
制服を着たままの安濃が開けた窓枠に腰掛け、タバコを吸いながら愚痴を零すようにそう言った。部屋の中は意外にも整然としていた。畳敷きの五畳ちょっとの部屋に万年床らしい布団と卓袱台がおかれている。壁側にはハードカバーや小説、学術書や漫画などが無節操にずらりと立ち並んでいる。この男が本を読む姿は想像出来ない。俺が本棚を眺めていると安濃は「猟舞に押し付けられた」と零した。案の定。
「猟舞に頼まれたか?」
不意に安濃がそう尋ねた。お見通しのようだった。
「あの女は、可愛い。とても綺麗で、とてもエロい」
突然なんだ。惚気でも始めたのか。その割に安濃の表情は暗い。眉間の皺が深くなったように思える。
「猟舞と仲良くなるのは構わない。だが、心を許してはならない」
「……どうしてなのか、聞いてもいいか?」
「あの女の目的はオレとは違う。奴の望むものは『無名の支配者』の滅亡ではない」
安濃は断言した。一体、どうしてそんな事を言い切れるのだろう。……そもそも、それが心を許してはいけない大きな理由になるのだろうか。少なくとも、安濃の事をかなり気にかけていたようには思えるし、協力者なら悪い相手じゃないんじゃ……。
「あの巨大な実験施設は、全てオレの持つ力を解析するために存在している。怪人の能力の解析や『無名の支配者』に関する調査は、全て部下に押し付けている。……思うに、猟舞の最大の興味は『無名の支配者』にはない」
「安濃の力を知る事にある……のか?」
「それも違うように思える。……良く、分からない。ただ、奴の異様さだけは分かる」
「……どうして?」
「オレには魂を取り込む他にも、魂の『色』を見る力がある」
「そんなに汚れて見えたのか、猟舞の魂は」
安濃は少し言い淀んだ。どう言っていいのか分からない、と言った風に見える。目の見えない人に色を教え込むのに四苦八苦するのと同じように。
「猟舞の魂には色がない。黒でも白でもない、無色で輝いていた」
「……澄んだ心って事? とてもそんな風には思えないけど」
「いや、とんでもなく純粋な心をもっている。人間の価値観、倫理、道徳を全て投げうって、それでようやく手に入る程の。目的の為には何も厭わない。何がどうなろうとどうでもいい。自分の命も必要無い。……そんな悲願を抱えた、危険な輝きを放っている」
「言われても、イマイチピンと来ないけれど……」
あの女が何を考えているのかは、俺にも勿論分からない。しかし安濃の心境を憂いているあの表情が嘘とは思えなかった。良い奴とは思えなかったけれど、極悪人とも思えない。
「その者の魂が『悪意』を『悪意』と捉えなければ、オレにも感知する事は出来ない」
「……どう言う意味だ?」
「人間には善悪を判断する能力がある。生まれ備わったものに加えて、社会的に生きていく上で、必ず養われる力。判断の基準に差異はあれど、それは『常識』のレベル内における誤差程度に過ぎない。……例えば『人を殺す事は悪い事だ』と言うのは、例えどれ程極悪な殺人鬼であっても必ず心の片隅では認識している倫理的な『常識』だ。その『常識』に反してしまった罪の意識は、必ず残る。故に殺人鬼の魂は闇に染まる。オレには黒く見える」
安濃はタバコを一息吸って、次の言葉を考えているように思えた。
「だがあの女は、判断を下す為の『常識』が欠如しているように思える。故に『悪意』と言う感情を抱けない。恐らくは『悪意』と言う感情自体が概念として存在していない」
いずれにしろチンプンカンプンだ。俺が首を捻っているのを見て、安濃が顔をしかめた。コイツは阿呆の癖に時折頭が良いような事を言い出す。単に言い方が婉曲なだけだ。分かるように話せなければ、それは阿呆のする事なのだ。
「……例え話は苦手。ただ、一つだけ、覚えておいて欲しい。猟舞が芳野小春に目をかけていたのは知っているか?」
「知ってる、けど……」
何故今その話が出て来るのだろうか。安濃はタバコの火を灰皿で揉み消すと、即座に二本目を取り出した。
「……俺が芳野小春の魂を取り込んだのは、偶然なのか?」
「え……?」
偶然じゃないって事か?
いや、それはおかしいだろう。小春はたまたま女子トイレに行って、たまたまそこで巻き込まれただけだ。それにその理屈だと、猟舞が無名の支配者に関与している事になる。それと敵対している安濃に協力する意味がない。
「……お前は、どう思うんだ」
「猟舞と事を構えるには、俺はあの女に依存する部分が増え過ぎた。だから、これ以上は考えたくない」
「俺に押し付けるって事かよ」
「そうだ」
少しは言い淀むとか迷うとかしても良いと思うのだが、安濃はきっぱりと言い切った。本当に、迷いのない男だ。この男が人並み以上に悩んでいると猟舞は言っていたが、俺にはそうは思えなかった。
「……小春の魂がお前に取り込まれたのは、猟舞にとって都合が良いのか?」
「猟舞にとってはこれ以上ない程の観察サンプルだ。彼女の魂はとても強い」
安濃は胸の辺りを優しく撫でながら、相変わらず朴訥と言葉を続けた。
「俺に取り込まれた魂は、基本的には俺の魂と同化する。しかし彼女の魂は未だに形を残している」
「……そうなのか?」
「俺の中に、『俺』と『私』が混在している。『私』は『俺』の意志に強く介入し、お前に何かと世話を焼こうとする。面倒な事に。今日だって、連れて行くつもりはなかった。猟舞にとっては興味深いイレギュラーなのだろう」
そう言う安濃の苦笑には……年も性別も全然違うのに、どことなく小春の面影があるように見えた。小春は、生きている。文字通り、安濃の中で。
「……ごめんなさい」
何か考えるまえに、言葉が口をついて出てきた。助けられなくてごめん。連れ出してごめん。女子トイレに向かわせてごめん。お絵描きに付き合ってやらなくてごめん。鬼ごっこで追いかけ回してごめん。「女と遊びたくない」なんていってごめん。自分の気持ちに素直になれなくて、嫌な態度ばっかりで、ごめん。
「謝られても困る」
頭を掻く安濃が、俺の頬に手を伸ばす。そこを伝う熱い涙を、無表情のまますくい取る。しかし、そんな安濃の目から、同じように涙が零れ落ちていた。
「『私』は芳野小春ではない。芳野小春の魂を取り込んだ安濃英斗でしかない。彼女の意識、思考、知識は、私の中には存在しない。彼女の『感情』と『意志』が存在するだけだ」
「また……意味のわかんねぇ事を……!」
「意識は肉体に宿る。彼女の意識はどこにも存在しない。芳野小春は死んだ」
掴み掛かろうとする俺の様子を悟ったのか、安濃の伸ばした右腕が俺の頭を押さえつけた。左手で自分の目の涙を拭いて、安濃は溜め息を零した。
「彼女の魂の『意志』と『感情』が、取り込んだ俺をも塗り潰そうとしている。尊敬に値する。皮肉ではなく、本当にそう思う。一時的に芳野小春の魂が俺の『意志』と『感情』を乗っ取った時に『私』が出てくる」
「……さっき絆創膏を渡したのは」
「芳野小春の『意志』に乗っ取られた俺だ。お前に世話を焼く……言うなれば、義務感を覚えた。芳野小春はそれ程までにお前の事を想っている。その想いが魂を強くした。ヘルフレイムを殺し、お前を救う力となった」
だから、と安濃は続けた。
「俺に謝罪を告げても意味は無い。お前の言葉に『私』は泣いている。悲しみで泣いている。故に、もしもお前が芳野小春に言うべき言葉があるとしたら、それは『ごめんなさい』ではない」
まさか、こんな奴に説教をされるとは思っても見なかった。でも、コイツの言葉は沁みる。真っ直ぐに目を見て、ゆっくりと考えた言葉を、はっきりと告げる。喋り方はぶっきらぼうと言うか、なんだかマヌケだけれど。言いたい事は、とても良く伝わってくる。
「……ありがとう」
小春は俺のようなガキがかける迷惑にいつだって付き合ってくれた。隣で可愛らしく笑ってくれていた。そして今だって、彼女の意識無き意志が俺を気にかけてくれている。感謝しかない。ありがとうしか言えない。他に表し方を知らないから。しかし安濃はまた俺の頭を二三ポンポンと叩くと、窓の外を向いてタバコを吸い始めた。
「それで良い、ノエル。『私』も満足した」
「……そうかよ」
「謝罪とは、罪を謝ると書く。許しを乞う悪人の特権だ。お前にも芳野小春にも、その資格はない。軽々しく口にするな」
小難しい言葉で偉そうに説教を足れる安濃の横顔は、どことなくまたボーッとしているように見える。怪人と対峙した時の豹変振りと言い、たこ焼きの店員に盛大にキョドってみた時と言い、コイツの表情は本当に目まぐるしい。
一体どれが本当の『安濃英斗』なのだろう。それはもしかしたらコイツにも分からないのかもしれない。でも一つだけ分かっている事がある。
コイツは、小春と……それに、俺を救ってくれた。だから……そう。
「ありがとう」
言った俺に、安濃は振り返りもしなかった。空に帯を伸ばす細い紫煙を、安濃の深い息が掻き消していった。




