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彼女は僕を殺してくれない

樹海は広いようでいて、意外と見つかりやすい場所だ。


だからここで死ぬ人は、夜の闇に紛れて侵入する。

首吊り、薬物、いずれの方法にしても、半日発見されなければ確実にあの世へ逝ける。

後は野晒しの死体を野生動物が食い散らかし、バクテリアが土に還せばおしまい。

自分もそうやってこの世からおさらばするのだと、信じていた。



視界が目まぐるしく変わる。

落下したことに気付いたのは、湿った土の匂いに顔を(うず)めた後だった。

──木に吊るした(ひも)の結びが甘かったか。

解けたそれを睨み付ける。

色々な人間に見放されてきたが、まさか首吊りにまで嫌われるとは思わなかった。

不器用な奴だと嘲笑うかのように木々が揺れている。


しかし相当強く打ち付けたはずなのに、不思議と身体の痛みを感じない。

それだけ気分がハイになっていた。

普段の僕ならこの失敗に何処までも落ち込み、嫌悪し、自殺を取りやめただろう。だが生憎、今日の僕は気分爽快で自信に満ちている。

いわゆる(そう)状態というやつだ。

次こそは成功できる、だからもう一度挑戦しなくては。


意気揚々と立ち上がろうとして──ただの一歩も動けなくなった。


「え?」


実は足が折れていたのでは、とまず疑った。

立てなければ餓死になる、それは嫌だ。僕は長く苦しんで死にたい訳じゃない。

辛うじて目線を足に向けてみる。幸いにも、変な方向に曲がったりはしておらず、至って正常だ。

だというのに、いくら膝に力を込めて立ち上がろうとしても、ぴくりとも動けない。まるで重力が何倍にも膨れ上がったかのようだ。


「ふふふっ、指一本で押さえられただけで動けないなんて、可愛い……」


血の気が引いた。


人がいないはずの樹海で、女の声を聞くとは思わなかったからだ。

それも耳の奥まで蕩けてしまいそうなほど、甘露な響きだ。

僕はようやく、肩甲骨の間に一本だけ指が添えられていると気づいた。

それだけで、僕は地面に屈服させられている。

どう考えても人間の、ましてや女の力では決してあり得ない。


ふと、道端の蟻んこ一匹を捕まえた時のことを思い出した。

必死にもがくそいつを人差し指一本で押さえつけて、じたばた抵抗する様子を観察した無垢な幼少期を。

その蟻んこと、今の僕は同じ状況じゃないか。

後ろにいる得体のしれない化け物は、僕がどうあがくのかを見て、きっと面白がっているに違いない。


全身の力を抜いて無抵抗になった。

それと同時に、あれほど昂っていた自殺への意気込みまで萎んでいく。

躁から(うつ)へ、泥沼の気分に戻っていった。


「あらあら、お利口さんだこと」


背筋に悪寒が走った。化け物の指が、優しく僕の背をなぞっていく。

ぞっとする痺れを残して、指が離れていった。

僕に逃げる意思がないのを見透かして、押さえておく必要さえ感じなくなったのか。


「……僕を、殺すつもりなのか」


震える声で化け物に尋ねる。

未知の存在に対する怯えが半分で、もう半分には期待も込めていた。

完全にスイッチが切れてしまった今の僕では、もう自殺へと踏み切れない。

衝動に突き動かされている時は、頭で深く考えずに済むから良い。

しかし、少しでも理性が戻れば、果てしない自己嫌悪と悲哀感で息をするのも苦しくなる。

死に向かう意欲さえ無くしてしまうほどだ。


だからこの化け物に責任を取って欲しいと思った。

もし殺してくれなければ、僕は完全に死に時を失う。

夜明けまで延々とこの森の中を彷徨い、そのうち修練者の一人にでも見つかって、煮え切らないまま社会に引き戻される──生き地獄への逆戻りだ。


「もう、せっかちな人ね」


肩を掴まれた。僕の意図が通じたのだろうか。

ここまで来て、殺し方を指定しなかったことを後悔した。が、もう間に合わない。

どうせなら一瞬で楽にしてもらえた方がいいに決まっているのに。


化け物はここからどうするつもりなのか。

切り裂かれるか、潰されるか。喉を貫かれるなんてのもあり得るかもしれない。

何せ、指一本であれほどの怪力なのだ。人間の身体とて、薄紙一枚と大差ないだろう。

来世に行くまで何が待ち受けているのかな、と早くも死んだ後の心配まで始めていた僕の期待は、あっさりと裏切られた。

化け物はひょいと僕の身体をひっくり返して、うつ伏せから仰向けに体勢を変えさせ、それ以上は何もしてこなかった。


まず見えたのが月だった。

一片も欠けることなく、煌々と光を放つ満月が僕を見下ろしている。

偶然にも木々の開けた場所だったらしい。

そして月の光が届くからこそ、暗闇の中でも化け物の姿がはっきりと目に映った。




およそ想像していた醜悪な姿とは、似ても似つかぬ楚々とした美女。

僕を物色していた化け物は、一見して人間と見紛うほど洗練された容姿で、微かな笑みを浮かべていた。




麗しい銀髪は腰の辺りまで伸びており、一本一本が宝石のように煌めいている。

紅色の虹彩を持つ両目からは、熱の籠もった情熱的な視線を感じた。

染み一つない肌は雪原を思わせるほど真っ白であり、月光の下だと一層美しさが映える。

浅葱色(あさぎいろ)の着物にはスリットが入っていて、そこから艶めかしい生足が露になっていた。

そして服越しでもはっきりと大きさが分かるほどに豊満な乳房が、僕の目を惹く。

恐らく、僕の両手で下から支えたとしても、抱えきれないほどはあるだろう。




そんな美しい女であるというのに、僕の畏怖の念はますます深くなるばかりだった。

身体的特徴がそれだけなら、情欲の一つでも抱いたかもしれない。


──角だ。


人間にはありえない部位。

鮮やかな朱色に彩られた二本の角が、額から突き出ていた。


──赤い手だ。


細くしなやかな指先まで、真っ赤な血で染まっている。

紅白のコントラストは幻想的ですらあった。


「山にいるのが、猿や熊だけだと思っていた?」


そう言って血濡れの()()は、口元から八重歯をちらつかせた。


「……まだ幽霊の方が現実味あるかもしれない」

「まぁ、面白い人。ここが自殺の名所であることを踏まえた発言かしら。新しい反応ね」


思わず出て来た言葉を真面目に返され、それ以上の会話は続かなかった。

この鬼の考えていることが、まるで読めない。

実在していたことはさておき、この山を根城にしている理由は何となく見当が付く。勝手に餌である人間、それも死にたがりが入ってくるからだろう。

だがそういう目的ならさっさと僕のことも殺してくれていいはずだ。何故に無駄な会話を試みようとしてくるのか。

僕の疑問を悟ったのか、鬼女は口元を袖で隠し、くすくすと笑いながら言った。


「本当にせっかちさんね……まずは黙って、私の話をお聞きなさいな」


腐植土を踏みしめる音が近づいてくる。

目に刺さる月明かりが弱くなり、より暗闇が深くなった気がした。

しゅるしゅると着物が擦れて、僕の身体を撫で上げていく。

どういうつもりか、鬼女は僕の上へと覆い被さって来ていた。


「意外に思うでしょうけど、生きている人間を見るのは久しぶりよ。ここに来るのは死に急ぎばかり、私が見つけるのも待たずに逝ってしまう。死肉に困らないとはいえ、何て味気の無い……口惜しく思ってましたわ」


甘い声が目と鼻の先まで迫る。

鬼女は身体をぴったり密着させて、じっくりとこちらを観察している。

僕の胸板の上に乳肉が押し付けられ、楕円状に潰れていった。

その柔らかさを堪能する余裕もない。

僕の哀れな心臓は、恐ろしさで脈打つ速度が上がるばかりだ。


「中には喉元の筋肉が見えるほど、掻き毟った死体もありまして。そういうのを目の当たりにするたび、惜しくて惜しくて……あぁ許せない。肉の裂ける音、断末魔の叫び……さぞいい音色だったでしょうに」


冷たい手が僕の頬に添えられると、腐った鉄の臭いが嗅覚を刺激した。


「この手に付いた血、敢えて見ないふりをしていたのでしょう?少し前に見つけた()()()()をつい壊してしまって……でも満たされたのは血潮が弾ける一瞬だけ」

「もう黙れよッ‼ 」


僕は絶叫していた。


「お前の猟奇趣味なんて僕はこれっぽっちも興味がない‼ そんな話を聞かせるために、僕の自殺を邪魔したのか。ふざけるな責任取れよこのク──」


久しぶりに声を張り上げたというのに、最後まで言い切ることは許されなかった。



瑞々しく、肉厚で、弾力のある触れ合い。

強引な口吸いを受けていると自覚するまで、数秒の間が必要だった。



口内に麻酔の感覚が広がり、呂律が回らなくなっている。

毒を仕込まれたのか、それとも何らかの術の類か。

いずれにしても、一切の反論を封じられたのは確かだ。

改めて彼女の顔を見る。

鬼女は、恍惚と悦楽で酷く歪んだ顔のまま、こちらを覗き込んでいた。


「素敵な反応……そういう感情を剥き出しにした顔が見たかったの。気に入ったわ」


次に続く言葉を、僕は聞きたくなかった。


「自殺の責任、だったかしら。それを取れというのは、つまり生殺与奪の権利を私に委ねるということ。殺すも自由なら、飼うのも自由……そうよね?」


違う、そうじゃない。ただ楽に殺して欲しかっただけなのに。

必死に首を横に振る僕を見て、彼女は悦に入った顔を隠そうともしない。



「安心しなさい、貴方の望む最期はいずれ与えるから。それまでゆっくり、ゆっくり……時間をかけて愛して(壊して)あげる。ふふふっ……いろんな声を聞かせて頂戴」



あぁ、どうして楽には死ねないのだろう。

僕の新しい生き地獄が始まった。

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