けもの娘は待ちつづく
一番おぼろげにしか覚えていないのが、神様みたいに透き通った、少女の声。
「あなたは、前世において多くの人々に正しき心を教え、そして愛され続けました。小さな体でありながら実現した、その高徳を称えて。私、輪廻の神からは魔法世界における第二の人生を――――」
次に覚えているのが、ダンディーなオスの声と、鈴を鳴らすようなメスの声。
「おい、生まれたぞ! ――――女だ! 女の子だぞ!」
「ふぅー……ふふふ、それはまた、賑やかになりそうね」
その記憶には、映像もあった。
顔だ。
自分を見つめる、人間のオスとメス。
片方は、ぼさっとした黒髪と黒髭を持つ、大顔のオスだった。一目見るだけで、熱気が伝わってきそうな暑苦しい顔をしているけれど、その大きな赤い眼からは、慈しむような暖かみが確かに感じられた。その顔に似合わないくしゃっとした喜びを、満開に浮かべていたのをよく覚えている。
もう片方は、きれいなさらさらとした、だけどもなぜかひどく乱れた銀髪を持つ、とても儚げなメスだった。赤みがかった顔からは、すぐにでも死んでしまいそうな危うい感じを覚えるけれど、その細くも開かれた茶色の眼からは、何かを守ろうとする、確かな意思というものが感じられた。
二人とも、その独特な頭のてっぺんに、よく見覚えのある、獣の耳が付いていた。自分と同じ、犬の耳。そこだけは、以前の自分とよく似ていた。
そして、彼らは子供――――私とよく遊んでくれた、小さな人間のことだ――――によく向けられていた、慈しむような瞳。それを今、私に向けていた。
∪・ω・∪ ∪・ω・∪
「ほら、お前たち、ご飯だぞ」
「コケーッコッコ! コケ―!」
「わわっ、寄るな寄るな」
村娘の朝は早い。
おんぼろな我が家の裏手にある、蜘蛛の巣いっぱいの養鶏小屋。朝五時に起きて速足で向かい、三匹しかいない鶏たちに、トウモロコシと野菜クズを混ぜた餌を与える。
私がまだ慣れ切っていない人間の手を使い、餌の器を持つと、鶏たちは悪鬼羅刹の勢いでこちらへと向かってくる。当然、体力のない私は鶏たちに押されてしまうので、餌をやるのにも一苦労だ。鶏三匹さえ威嚇できないこの体に、少し嫌気を覚えてしまう。
身体に嫌気がさしたついでに考える。そういえば、犬から獣人の娘になって、もう七年になるのか、と。
最初の頃は、変化を受け入れるのにも、そして変化を使いこなすのにも、相当な年月を要したものである。人間の女の体は、どうしてこうも虚弱なのかと、オスだったころの自分を何度懐かしんだかわからない。
けれど今、私はそれらを受け入れて、仕事という人間独自の責務を日々果たしながら、なんとかこの『転生』という変化について行こうとしている。往来を通る、疲れた人間特有の埃臭さというものが無い生活というのにも、もう慣れて久しい。
「も、もうないですからー! 出してくださいー!」
結局、餌をぶち撒ける形で与え終わると、尻尾を鶏たちに引っ張られながら、私は小柄な手足を全力で駆使して、何とか柵の外へと脱出する。そして鶏たちが餌をついばんでいる間に、私は木製の柵に寄りかかって、失った体力を休める。
これが終わったら、朝食の後に『風魔法』を使って、干しものの番をするという中々に体力を使う仕事をしないといけないのだ。だからこそここで、のんびりと鶏たちを見ながら体を休めるわけだが、これが存外長くなってしまうのだ。
だから、養鶏小屋を出るのはいつも九時すぎになる。
「……時間、かかり過ぎじゃない?」
小屋の外から、様子を見に来たらしいライカお姉ちゃんの声がかかる。その声に驚いたのか、すっかり餌を食べ終わってはや三時間になる鶏たちが、首を伸ばして彼女の方を見た。だけれど声の主がライカお姉ちゃんだと解かるや否や、彼らは安心して、また自由に鶏舎内をてくてく闊歩し始めた。
ライカお姉ちゃんは私の三個上だ。お父さんの黒毛を遺伝した私とは違って、お姉ちゃんはお母さんのさらさらとした銀毛を遺伝していて、とっても美しい。それでいて背が高くスラッとしていて、顔も可愛いのだから、私の、いや、村のみんなの憧れの存在でもあった。
「仕方がないじゃないですか。だってこの子たち、可愛すぎるんですもん」
「本音は」
「可愛すぎて今すぐにでも食べちゃいたいです」
お姉ちゃんの問いに、舌を出しながら答える。
身体がオスから女の子になったせいなのだろうか、『好み』というものは、前世と比べると中々に変わっていた。散歩でも遠出はしたくなくなったし、骨を齧るのには楽しさすら感じなくなってしまった。だけど食の好みだけは変わっていないらしく、焼き鳥だけは、今も昔も変わらず大好物なのだ。
そんな会話を交わしていると、鶏たちが私たちの方を見て、毛を逆立てているのに気づく。
「ほら、お姉ちゃんが近づくから、巻き毛を怖がって、鶏たちが怯えちゃったじゃないですか」
「多分、あんたの邪気におびえているんだと思うんだけれど……あと、巻き毛を話に搦めるのを止めなさい。意外とコンプレックスなのよ、これ」
そう、美しいお姉ちゃんだけど、その頭と背中には、とってもへんてこな、くるくるとした巻き毛と巻き尻尾を持っているのだ。どうやら生来の癖っ毛であるらしく、同年代の男の子たちからは「巻き毛ちゃん」とか「爆破魔法の跡地」だとか、言いたい放題言われている。
だけどそれは、お姉ちゃんをあざ笑うためなんかじゃないって事を、私はよく知っている。だって、お姉ちゃんは巻き毛も含めて、全世界の、特に子供達を夢中にさせるような、かわいくて写真うつりのいい女の子だからだ。男の子たちもきっと、お姉ちゃんの気を引きたくて、いじわるをしたくなっちゃったんだろう。私はよく知っている。残念ながらお姉ちゃんは彼らに興味がないみたいだけど。
「じゃあ、お姉ちゃんも来たことだし、そろそろ戻ろっと」
「そうしなさい。お母様が刺繍の手伝いが欲しいって言ってたわよ」
お姉ちゃんの言葉に従って、私は体を持ち上げる。すっかり体の疲れは取れているし、ずる休みもこれまでだろう。急いで次の仕事に行かないと、天の女神さまに叱られてしまうかもしれない。
そうして養鶏小屋から一歩を踏み出した時、背中からお姉ちゃんの声がかかった。
「ねえ、あんたさ」
それは今までのお姉ちゃんの声とは違った、低く冷たい、まるで何かを咎めるかのような声で。
私は思わず、後ろを振り返った。
「……なに?」
「村を出ないって、本当?」
お姉ちゃんが出した話題は、私の将来に関する事だ。
七歳という時期になると、身体もできてくるものだから、農家の娘なんてのは、身の振り方を考えないといけなくなってくる。街へ行って農業以外の仕事をやって、いくらかのお金を稼いでくるか。それとも更に農業を手伝うか。だいたいはその二つだ。
ちょっと前、両親にそんな事を聞かれて、私は農業を手伝うって答えた。人づてに聞いたことだけでも、街なんてものには怖い印象しかなかったし、それ以前にこの村から離れるなんてことは、今まで考えたことも無かったからだ。
だけどお姉ちゃんは、私に街へ出てほしいみたいだった。それがなぜなのかは知らないけど、今までもお姉ちゃんはたびたび、そういう素振りを見せていた。
……ここまで直接的に聞いてくるのは初めてだったけど。
「……うん。だって、私がいなくなったら、みんなの仕事が増えちゃうじゃないですか。今でさえ手一杯な様子なんですから、これ以上になったら、みんな死んじゃいますよ」
「……大丈夫よ。あんたがいなくても、何とか私たちはやっていけるわ。だから、私達の事を考えないで、自分の意思で決定してほしいの」
お姉ちゃんはそう言って、黙ってしまう。
九時にもなってすっかり朝日となった太陽は、丁度お姉ちゃんの真後ろにあった。自慢の大人めいた長い銀髪が、立ち上る陽光を照り返して、お姉ちゃんの周りを真白く包み込んでいるようだった。だけどお姉ちゃんの顔は暗くて、とっても真面目そうな顔で。そのコントラストがなんだか、私の心をひどく緊張させた。
やがて沈黙に耐えかねたのか、お姉ちゃんが口を開く。
「私は街へ行ってほしい。だから、」
そこで今日初めて、お姉ちゃんは私の名前を口にした。
その年、村で生まれた子どもの数が、私でその数字になったから。
そして、永遠の意味を持つ∞と似ている、縁起がいい数字だから。
偶然、前世と全く同じになったその名前を。
「ハチ。もう一度聞くわね。街へ出るのか、出ないのかを」
私は一度小さく、コクリと頷いて、答える。
「――――私は、ここに残ります」
なんだか、その言葉を言い終わるまでが、とっても長かった。
意図してはいなかったけれど、私の帰巣本能――――あの人を待ち続けると言うこと――――の全てが、その中に含まれているような気がして。唇が鉛のように、一瞬にして冷たくなったのだ。
それに、
その言葉を口にしてしまうと、人生において重要な何かが、取り返しのつかないことになる気もしたから。
「そっか」
でも実際、それは真実で。だから次の瞬間、お姉ちゃんから発せられた言葉は、とっても冷たいものだったんだ。
「じゃあ、死ね。裏切り者」





