レモンひとつの未来航路
しゅううう――。
圧力調整室に満ちる空気が、ヘルメット越しに鈍く響き、宇宙服の外側からゆっくりと体を押してくる。
緑のランプが点灯した瞬間、ロック機構が短く音を立てて解除された。
気密扉が横にスライドし、白い光が差し込む。
私は軽く壁を蹴り、ふわりと船内に戻った。
「おかえり、エミリー」
半身をパネルの中に突っ込んだダグラスが振り向いた。肩をかすめるケーブル束、片手のレンチ、もう片手の作業灯――いつもの修理屋スタイルだ。
「宇宙遊泳はどうだった?」
彼は、そばを漂っていた交換用の基盤をつかみながら気楽な声で聞いてくる。私はヘルメットを外しながら答える。
「まずまずね。デブリがひとつ、挨拶していったわ」
レンチをひねる手が、ぴたりと止まった。
「おいおい、大丈夫かよ」
「掠っただけよ――で、右舷3番排熱フィンだけど、やっぱり微妙に歪んでた。スパナで矯正しておいたから、冷却効率は規定値に戻るはずよ」
「……それ、交換すべきじゃないのか?」
「そう思うなら、自分でやりなさいな」
ダグラスは眉を顰めたまま、はあ、と息を吐く。
「これだからコロニー生まれは」
「へぇ、あなたが地球生まれなんて初耳ね。若作りが上手いじゃない」
彼は軽く苦笑して肩をすくめ、返事の代わりに手元のナットをひとつ締め込んだ。金属がかすかに軋む音が、彼の沈黙を代弁する。
その間に私は、硬い宇宙服の留め具を外して脱ぎ、重みの抜けた殻を収納棚へ押し込んで固定した。
棚の扉を閉めた勢いで、身体がゆるく回転する。
慣性を足先で壁に触れて止めながら、ふと振り返る。
気密扉の丸い窓。
その向こうに広がるのは――漆黒の海だった。
さっきまで私が漂っていた場所が、何事もなかったかのように静まり返っている。
数十光年先の恒星の光だけが、ちらちらと瞬いていた。
「――ほらよ」
不意に横から声が飛んだ。
振り向くと、銀色の飲み物パックが、ゆっくりと自転しながらこちらへ流れてくる。
作業の終わったダグラスが、保管庫から取り出して指で弾いたようだ。
「ちゃんと水分補給しておけ」
私は片手を伸ばし、パックをそっとつかんだ。
無重力に泳ぐそれは、重さの概念が曖昧だ。それでも握り込むと、体温よりわずかに冷たくて、なぜか安心する。
「気が利くじゃない。珍しいわね――あっ、またレモン味」
「俺、それ苦手なんだよ」
彼は笑いながら、船内の床――という概念はほぼないのだが――の固定具に足を引っ掛けながら、手にした飲料パックの封を開けた。
あの黄緑色のラインは、おそらく、マスカット味。
私は「ふーん、美味しいのに」と受け流しながら、渡されたレモンウォーターを開けて飲んだ。爽やかな酸味と人工甘味料の甘さが、船外活動で疲れた体に染み渡る。
「……いつまで続くんだろうな、これ」
不意にダグラスがつぶやいた。
彼は手元の飲料パックを軽く揺らし、浮いた滴が光を反射して揺れる。
「惑星T8843Fまでは三ヶ月だって言ってるじゃないの。そこから半年調査して――」
「ああ、そういう意味じゃなくて」
彼はゆっくり視線をそらし、観測窓の方へ目を向けた。
深宇宙の光が、瞳の奥に淡く反射している。
「こうして、俺たちが“どこかへ向かい続ける”って状態がさ……いつまで続くんだろうって」
私は返す言葉を探しながら、パックを指で押して出てきた液体を吸い込んだ。
「終わりなんて、誰にもわからないわよ。任務表に載っていないことまで気にしても仕方ないわ」
「……まあ、そうなんだけどさ」
言い淀んだ彼の声が、なにか別のことを抱えているのがわかる。
惑星T8843Fまでの距離の話じゃない。
任務期間でも、航路でもない。
もっと漠然としていて、もっと根源的で。
そして、彼自身が言葉にするのをためらっている種類の不安。
こういうときのダグラスは、いつも深いところまで沈んでしまう。
だから私は、気づくと決まって――少し軽い話を投げる癖がある。
今回も、その癖が勝手に口を開かせた。
「ねぇダグ、こんなミーム知ってる?」
「ん?」と顔を向けたダグラスに向けて、飲料パックのレモンのイラストを見せながら、得意げに告げた。
「『レモン一個に含まれるビタミンCは、レモン一個分だぜ!』――ってやつ」
彼は一瞬、ぽかんと口を開ける。
「……なんだそれ。当たり前じゃないか」
「そう、当たり前のことを当たり前に言うミームよ。昔、“インターネット”で流行ったらしいわ」
「くっだらね。限られた通信で、そんなもの調べるなよ」
ダグラスは小さく笑ったが、すぐに視線を落とした。
「ああでも、俺たちはもう……その“当たり前”すら、確かめられないんだよな」
――まったく、もう。
せっかく軽い話題を振ったのに、また暗い方向に持っていくんだから。
でも、責める気にはなれなかった。
そう。
地球を置いてきた私たちには、あの惑星の“当たり前”なんて、ひとつも残されていない。
どんな風景が広がっていたのか。
海の色、風の匂い、森のざわめき――。
映像で知っているつもりでも、本物はもう誰も知らない。
数百年前の核戦争で、地球は物語の中の場所になった。
レモン一個にビタミンCがどれだけ入っていたのか。それすら、私たちはもう測れない。
母艦で大事に育てられている動植物も、管理された環境の中で暮らす私たちも、“母なる地球と同じ”とは限らない。
確かめる方法なんて――どこにもないのだ。
私はレモンウォーターパックを握りしめ、ふっと息を吐いた。
「……それでも!」
わざと声を上げた。
急に明るくしたのは、落ちていきそうな空気を押し返すため。
「私は“エミリー”、あなたは“ダグラス”……当たり前がなくたって、私たちが生きてることは本物よ。
ほら、これだって、レモン味はちゃんとレモン味だし!」
「だから、その味が証明できないって言ってるだろ。お前だって本物のレモン食ったこと――」
「黙らっしゃい!」
思わずぎゅっとパックを握ると、中の液体がぷしゅっと漏れ、透明な珠になってゆるりと漂い出した。
照明と計器の光を吸い込みながら、無重力の空間で静かに脈動している。
ひとつの小さな水球に、船内の壁、乱雑に束ねられたケーブル、その向こうに広がる漆黒の宇宙までもが歪んで映り込む。
星のようにゆっくり回転するたび、形を変え、私たちの顔が一瞬だけ球面に浮かんでは消えた。
私も、ダグラスも、浮かぶ水球も、しばし同じ静寂の中にいた。
呼吸の音すら吸い込まれ、ただ透明な世界がそこで揺れていた。
「……きれいだな」
ぽつりと、ダグラスが言った。
彼は足の固定具を外し、わずかに体を浮かせて身を乗り出す。
ゆっくり、ためらうように、水球へ手を伸ばし――けれど触れる直前でやめて、代わりに口を近づけた。
ぱくり。
水球ごと、光も、映り込んだ宇宙も、すべてを飲み込むみたいに。
ごくん、と喉が動く。
ダグラスは一瞬目を閉じ、それからゆっくりと息をついた。
「……やっぱ俺、レモン味苦手だわ」
そう言った彼がふと顔を上げる。
その瞬間、私とダグラスの視線がばちりとぶつかり――そして、どちらともなく笑った。
そうだ。私たちは進まなくちゃいけない。
人が、レモンひとつが、生きられる場所を探して。
「……さて」
ダグラスが壁に手をつき、体をそっと後ろへ流す。
私もそれに続いて身を翻した。
私たちの動きに合わせて、船内の薄灯りが柔らかく影を落とす。
「定期報告の時間だな」
「ええ。サボったら管制に怒られるしね」
ふたりで通路を滑るように進み、ブリッジ手前のハッチを開けた。
ダグラスがコンソールの前に滑り込み、軽く息を整える。
「こちら探査船シグナルセブン。母艦アルカディア、応答願います」
ややあって、声が返ってきた。
『こちらアルカディア。おはよう、シグナルセブン。状況を』
「航路異常なし。乗組員二名……問題なし」
私たちは、わずかに目線を送り合う。
『了解。本日も、人類の新たなる一歩のために』
ちなみに――。
飲料に記される「レモン〇個分のビタミンC」という表記は、どの時代でも「レモン一個=20mg」を基準にして算出されていた。
しかし実際のレモン一個に含まれるビタミンC量は、およそ「80〜120mg」とされている。
つまり、厳密にいえば【レモン一個には、レモン五個分のビタミンCが含まれている】ということになる。
この奇妙な“事実”を、エミリーとダグラスが知るのは――もう少し先の、また別のお話。




