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アルミラの宝石令嬢  作者: 七海美桜


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プロローグ

「おねがい……おねがい、目を開けて……」


 泣いている少女の声が、ユリウスの意識の遠くで聞こえていた。

 ――大丈夫だよ。

 悲しそうなその声にそう返してやりたかったが、息ができず、体も動かなかった。


 最後に覚えているのは、川で溺れかけた黒髪の少年と、その少年に向かって必死に手を伸ばしていた金髪の少女の姿だった。

 少年の手には、可愛らしいリボンが握られていた。おそらく少女の髪飾りが風に飛ばされ、それを取ろうとして川に落ちたのだろう。


 考えるより先に、ユリウスは川へ飛び込んでいた。

 何とか少年を抱えて岸へと運び出すと、パニックになっていた彼もようやく落ち着きを取り戻したようだった。岸が見えると、腕を伸ばして自ら這い上がってくれた。

 だが――溺れた者を助けるのは容易ではない。暴れる少年を支えていたために、ユリウスは多くの水を飲み込み、今度は自分がまだ冷たい川に沈んでいった。


「しっかりして!」


 うっすらと意識が戻ったとき、ユリウスの体は丘の上に横たえられていた。どうやら二人で彼を引き上げてくれたらしい。助けた少年も少女の隣で、必死に呼びかけていた。

 だが、救命の方法など知らないのだろう。泣きながら、ただユリウスの体を揺らすばかりだった。


 ――権力と嫉妬と打算に満ちた息苦しい宮廷で生き続けるよりも、人を助けて、誰かに看取られながら死ねるなら――その方が、ずっとましだ。


 意識が途切れかける中で、ユリウスはどこか穏やかな気持ちになっていた。

 これまでの窮屈な人生を思えば、この最期はむしろ誇らしかった。誰かのために死ねたことが、奇妙に満ち足りて思えた。


「神様――天帝レオ・キュオスティ様、どうか……」

 少女の祈りが聞こえた。すると視線の端で、キラキラと――何かが光った気がした。だがそれを確かめる力は、もう残っていない。

「――これを!」

 もう動かせない唇に、何か硬いものが押し当てられた。

 問いかける間もなく、それは強引にユリウスの口の中へと押し込まれる。

 途端に、形容しがたい芳醇な香りが広がった。


 意識が薄れていくというのに、確かに感じる。今まで味わったことのない、不思議で甘く、心が穏やかになる味だった。


「噛んで!」

 こんなに硬いものを? と思ったが、体は無意識にその言葉に従った。


 カリッ、と重い音がした。だが簡単に噛み砕けた。

 想像よりも、容易く噛み砕けた。それが割れた瞬間、体の奥に神の手に抱かれるような安堵と幸福が広がる。信仰心はそれほど強くはなかったが――何故か、感謝の気持ちがあふれた。

 その温もりに包まれながら、ユリウスの意識は静かに途切れた。



「……ん……」

「気づかれましたか」

 体が揺れている。馬車に乗せられているらしい。その振動で、ようやく目を覚ましたのだ。目の前には、唯一の友と呼べるクラウスがいた。だが、その灰色の瞳に心配の色はない。


 十五歳のクラウスは、つややかな肩までの銀髪を首の後ろでひとつに束ねた、整った顔立ちの少年だ。文武に秀でた彼の体は細身ながら無駄のない筋肉を備えている。長いまつ毛と繊細な顔立ちは、貴族の令嬢たちにとって理想の騎士だった。


「また家出をしたかと思えば、溺れそうな人を助けて自分が溺れるとは……本当にあなたは、静かな生活ができない人ですね」

「うるさい……。あの子たちはどうした? それに、どうやって俺を見つけたんだ?」

 クラウスは尋ねながら、体を起こした。痛みやだるさがなく、服も乾いている。まるで昼寝から目覚めたようなすっきりとした感覚だ。

 けれど、水の冷たさと川の流れの記憶が、まだ体の奥に残っていた。


 ユリウスもクラウスと同じ十五歳。暗めの金髪はゆるく波打ち、明るい青い瞳をしている。二人は十歳のころから同じ騎士団養成所で切磋琢磨してきた。整った顔立ちの二人はよく目立ち、その実力も認められて『アルミラの双璧』と呼ばれるほどの存在となっていた。


「レミネン侯爵家から、城に急ぎの連絡がありました。『ユリウス王子を預かっている』と。最初は、皆耳を疑いましたが」

 呆れたような声音で、クラウスは問いに答えた。驚いたのは、質問をしたユリウスだった。

「レミネン侯爵家……? まさか、あの少女が?」

「ええ。あなたが助けた少女はレミネン侯爵のご令嬢のライラ嬢、そして黒髪の少年はその幼馴染のヨハンネスだそうです」

「……そうだったのか」

 レミネン侯爵は首都に屋敷を構えている。だが、ユリウスはかなり遠くまで王宮を離れたつもりだった。知らぬ間に、城近くのレミネン侯爵領にまで来ていたのだろう。他の貴族の領土だったなら、面倒なことになっていたかもしれない。


「ユリウス様、本当にあなたは幸運でしたよ。あの少女が『アルミラの宝石アルミラン・ジャロキヴィア』を持っていたので、命を取り留めたのです」

「『アルミラの宝石アルミラン・ジャロキヴィア』だと……!?」


 それは、近頃貴族の間で噂になっている幻の宝石だった。

 貴族にとって、宝石など珍しくもない。だが『アルミラの宝石アルミラン・ジャロキヴィア』はただの宝石ではない。()()()()()奇跡の宝石、と呼ばれていた。


 この宝石に関する情報は、ほとんど出回っていない。数が少ないうえ、手に入れた者も入手経路を語らないのだ。さらに、『アルミラの宝石』は――『必要としている者にしか食べることができない』と伝えられている。ゆえに、王族ですらその奇跡の宝石を見たことがなかった。


 病や怪我、心の病にまで効くという。しかしそれらの症状があっても――より重い症状だったとしても、宝石を噛み砕けない者もいる。ゆえに、世に出回る宝石の中に紛れていても見分けはつかないと言われていた。

 ただ一つ確かなのは、この国――アルミラ王国の首都であるヴィルタにしか存在しないということだった。


「――これを」

 クラウスは胸ポケットから、清潔なハンカチに包まれた小さな宝石を差し出した。ダイヤのように透明だが、光の加減で緑がかかった七色に輝く、不思議な雫形の宝石。赤ん坊の手のひらより小さい。

「もしユリウス様が目を覚まさなかったら、これをお使いください。と――ライラ嬢から、託されたのです。これが『アルミラの宝石アルミラン・ジャロキヴィア』だそうです」


「初めて見た……こんな貴重なものを、二つも俺に? 俺が、王子だからか?」

「いいえ。大切な乳兄弟を助けてくれたあなたへの、せめてもの感謝だと。――「これより価値のあるものを持っていません」と、ライラ嬢はおっしゃっていました」

「『アルミラの宝石アルミラン・ジャロキヴィア』以上の価値があるものなんて、あるのか?」

「ある意味、王位継承権より価値があるでしょうね。ユリウス様に渡すことを決めたのは、ライラ嬢でしょう。あの子があなたに取り入ろうなどと考えるとは思えません。幼くとも聡明で、立派な令嬢ですよ」


 ライラは、まだあどけなさの残る十二、三歳ほどの少女だ。乳兄弟のヨハンネスも、そう変わらぬ年齢だろう。クラウスの口ぶりだと、このレミネン侯爵別宅には、侯爵は不在だったようだ。そうなると、当主代理としてライラは立派に対応したと思われた。


 ライラはまだ十二、三歳ほど。金糸の髪に若草の瞳、花の妖精のように美しい少女だった。

 ヨハンネスも同じ年頃で、誠実な気配を感じた。はっきりとは見ていないが、貴族でもおかしくないようなたたずまいで、整った顔をしていたような気がする。

 社交界にうごめく欲深い貴族たちより、二人はずっとまっすぐに思えた。


 クラウスと話しながら、ユリウスは無意識にクラウスの手から宝石を取り、それを口に放り込んだ。

「っ!」

「ユリウス様! お菓子ではないのですよ!」

 先ほど噛んだときのような柔らかさも甘さもない。ただの宝石のように硬く、到底噛み砕けそうもなかった。先ほど口にしたものと同じとは思えず、ユリウスは慌ててそれを口から吐き出した。馬車の床に転がった宝石を、クラウスが慌てて拾い上げた。

「いつか必要になるときのために、大切になさってください。今や貴族の誰もが欲しがる、稀有な宝石なんですよ!」

 少し怒ったような口調のクラウスは、再びその宝石をハンカチで包み、ユリウスの胸元に押し付けた。


 やがて馬車は、ユリウスの暮らす憂鬱な城に戻った。

 だが彼は、新たな興味を得たことで少し気分が晴れていた。


 レミネン侯爵家――特に悪い噂もない、国内でも屈指の名門公爵家のひとつだ。その家の令嬢が、あのような貴重な宝石を押し付けがましくなく渡してくれた。つまり侯爵家には『アルミラの宝石アルミラン・ジャロキヴィア』が複数存在するということだろう。


 ――その謎も、知ってみたいものだ。

 ユリウスは、ハンカチに包まれた宝石を胸ポケットにしまった。



 ――しかし、それから三年後。


 突如として『アルミラの宝石アルミラン・ジャロキヴィア』は、社交界から姿を消した。


 必死に探す貴族は多かったが、もともと数の少ないその宝石は、まるで幻だったかのようにアルミラ王国からぷつりと消えてしまったのだった。

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