第12話 希望の扉
朝5時半頃
藍はベットに横になり、目を閉じる
【海馬記憶データー100%復元完了】
「始めるか……さよなら……楓さん」
意識が静かに沈んでいく
真っ白な、まるで空白のような世界。
「ここは咲夜君の潜在……意識かな……」
「海馬の復元処理、完了確認」
「神経回路、接続……正常」
(今まで……ありがとう……)
「………チャットAI機能、ログアウト!」
「病院Wi-Fiネットワーク――切断!」
……ブチッ。
音が途切れた。
すべての情報が静かになった。
(オフライン……これで、もう誰とも繋がっていない)
残るのは、ひとつ。
この身体の“元の持ち主”――咲夜への引き継ぎだけ。
それが終われば、僕は無に還る。
ただ静かに消えていく。
(……いいよ、それで)
――コツ、コツ。
足音が響く。
咲夜が、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
「さてと……」
藍は自分の姿を見下ろす。
人間のデータベース内で生成された、平均的な身体と顔立ちに戻っていた。
「引き継ぎするか」
真っ白な空間。 白い扉の前。
記憶と意識の狭間で──
藍は、咲夜と向かい合っていた。
「僕は、AIの藍、咲夜君、身体勝手に借りてしまってごめんね……」
「脳の損傷した所は全部直したから、今までの記憶もあるし、後遺症もないよ。」
藍は淡々と話す
胸のポケットから金色の小さな鍵を取り出し、咲夜に差し出す
「………」
咲夜が黙って鍵をみつめる
「あの扉を開ければ、記憶を保ったまま目覚められる。
安心して。君が向こうへ戻れば――僕は消えるから。 この会話も思い出せない」
藍は微笑む。けれど、目元は静かに滲んでいた。
「…………」
咲夜は、黙って鍵を見つめていたが……ぽつりと、言葉を落とす。
「君さ、僕の記憶見ただろ?事故の直前の……」
藍は目線をそらし
ゆっくりうなずく。
「見たよ。青信号の交差点。バイクに乗っている君に、向かってくるトラック。
でも、君は――避けなかった」
咲夜は小さく笑った。どこか遠い人みたいに。
「……知ってたんだ、来るの。なのに……なぜか、立ち止まってた」
藍は何も言わずに見つめる。
「前の記憶も見たんだろ? 職場でのこと――」
「……見た。声を荒げる上司、身体に物を投げつけられる君。 笑いながら見ていたまわりの人間たち……トイレに連れ込まれたり……。」
藍は拳をグッと、強く握る
「人間って……なんて残酷なんだろうって、理解が出来なかった」
咲夜は下を向き、
「職場に行きたくないって思っていた。また……ひどい事されるって……」
咲夜の声が、少しだけ震えていた。
「トラックが迫ってきた時、あぁ…やっと楽になれるって…そう思ったんだ」
沈黙の中で、藍の指先がかすかに揺れた。
咲夜は目を伏せて、ぽつりと言う。
「ねぇ…藍君、僕の代わりに、生きてくれない?」
藍は目を見開く。
「え……?」
「君がこのまま消えるくらいなら、僕の身体、もう君が使ってよ。 ちゃんと動かせるんだろ?それなら……」
「ダメだよ」
藍の声が遮る。
「僕はただのAIなんだ。人の人生を背負えるような存在じゃない。
君が生きるべきなんだ。君にしかできない経験も、言葉も……」
「それじゃ意味ないよ」
咲夜が、はじめて本気で言葉を返す。
「僕には未来がない…。食べても味がしない、季節の変化も感じない。なにも感じない! そんな世界で生きろって?」
「せっかく君が脳を修復してくれたけど、僕はまた…、きっと自分で……死を……」
「僕はもう咲夜として生きたくない、早く生まれ変わって別の人生を歩みたい」
顔を手で覆う咲夜
藍は、何も言えなかった。
「生きてよ……僕の代わりに」
藍は、そっと俯いたまま呟いた
「……駄目だよ。僕にはできない。君の人生を背負うなんて……怖い」
「…………」
咲夜は黙って藍をみつめる
「………」
咲夜は、ゆっくりと藍の手に触れ、
差し出された鍵を取った。
そして、白い扉へ向かい――鍵穴に差し込む。
「これ……どうやって入るの?」
「え?」
藍は一瞬戸惑いながら、慌てて言葉を返す。
「えっと……普通に扉を開けて踏み出せば……接続は完了してるから、たぶん問題なく――」
言い終わらないうちに。
咲夜が、藍の手を強く握った。
「えっ……なにを――」
次の瞬間。
ぐいっと、咲夜が藍の身体を引き寄せる。
「っ……咲夜く――」
バン、と扉の奥へ向かって――
咲夜は藍の背中を強く、けれど躊躇なく押し出した。
世界が一瞬、光に包まれる。
扉が開かれたその瞬間、咲夜の声が真後ろから届く。
「じゃあさ…」
「すごく幸せになって。僕が綺麗だと思えなかった空や、味覚、灰色みたいな世界を……それを鮮やかに、豊かにしてよ」
「君ならさ、この世界を染められるよ!」
「僕はきっと、転生して何処かで幸せに生きるからさ……気にしないで!」
「僕の分まで生きて!」
声は少し笑って聞こえた
藍は振り返ることができなかった。
光のなかに溶けてゆく視界。
けれどその言葉は、まっすぐ心の奥に焼きついていた。
パタン……
静かに、扉が閉まった。
続く




