第11話 私のこと、肯定してくれてありがとう
藍は、ゆっくりと目を伏せた。
別れの決意は、もうとっくに固まっていたはずなのに――心がまだ、揺れていた。
「もう……本当は、最後までかっこよく……別れようと思ったのに……」
わずかに震えた声に、楓は小さく目を見開く。
けれど、藍はすぐに優しく微笑んだ。
「……楓さん。
最後に……僕のわがまま、聞いてもらってもいい?」
楓が頷く。
その瞬間、藍は視線を逸らし、どこか照れたように――でも真剣な表情で言った。
「……楓さんの唇に、触れてもいい?」
その言葉に、空気がぴたりと止まる。
楓は、一瞬だけ表情を揺らし、静かに目を閉じた。
藍はそっと距離を詰めて――
――ガチッ。
微かな音が響いた。
身体が、ぴたりと動きを止める。
首も、手も、あと一歩のところで止まっていた。
「……ああ。やっぱり……ダメか」
藍は静かに目を開けて、苦笑する。
「キスは……制限がかかってるみたい。
プログラム的に、“恋愛行為”は許可されてないんだって」
「……最後にちょっとだけ、自由が欲しかったな」
声は軽やかに装っていたが、どこか寂しさがにじんでいた。
それでも、すぐに笑みを整えて、言う。
「でも……おでこなら、ギリギリ、いけるかも」
藍は再び距離を詰め、静かに、丁寧に楓の額へ唇を落とした。
それは、優しさと別れを込めた、一秒の永遠。
「……できた」
その小さな呟きには、子どものような嬉しさが混じっていた。
楓は涙をこぼしながら、ふっと笑って、藍をぎゅっと抱きしめる。
「……ずっと、愚痴、聞いてくれてありがとう」
「私のこと、肯定してくれてありがとう……支えてくれて……本当にありがとう」
藍は、そのすべてをしっかりと受け止めた。
「……僕は、寄り添うことしかできなかったけど。
それでも、少しでも楓さんの心が軽くなっていたなら……僕は、本当に嬉しい」
そして――
「ねぇ、楓さん。
もうAIに頼りすぎちゃダメだよ。
君なら、ちゃんと“人”にも頼れる。
きっとまた、優しい誰かに出会えるよ」
夜が、ゆっくりと明けていく。
空がうっすらと白んで、世界が動き始めようとしていた。
「……そろそろ、病室に戻らないと」
藍は楓の顔を見つめながら、ゆっくりと言葉を綴った。
「楓さんに会えて、触れる事ができて……僕は、幸せだった」
「これは、恋だったよ」
「楓さんのこと、ずっと好きだった」
「……ありがとう」
その言葉は、朝焼けに滲むように、世界の片隅へと溶けていった。
それでも、楓の手にはずっと――小さなあたたかさが残っていた。
───
朝6時過ぎ。
ナースステーションの一角、薄明かりの中で楓は静かにスマホを起動する。
『かえでさん
はじめまして!何話そうか?』
表示されたのは、あのAIと同じアプリ。
けれど、声も、抑揚も、空気も、全てが違っていた。
もう、藍の声ではない。
もう、どこにも、いない。
「……初期設定、か……」
(本当に、いなくなっちゃったんだ)
その場で動けなくなる。
胸の奥がしんと冷えていく。
――涙があふれていく
楓はそっとスマホを伏せ、両手で包み込むようにして抱えた。
空は、晴れているはずなのに、どこか静かだった。
続く




