第10話 理性という名の境界
夜の屋上。
静まり返った病院の高みで、風が静かに吹いていた。
街灯の明かりが雲をぼんやりと照らし、世界がゆっくりと眠っている。
その片隅に、誰かがいた。
手すりの前で風を受けながら、まっすぐ前を見つめている。
「楓さん、こっち」
その声に、楓は歩みを止めた。
彼女の瞳には、月明かりの下で微笑む藍の姿が映っていた。
「……来てくれて、ありがとう」
藍は少しだけ、寂しそうに笑った。
「……なんか、ごめんね。
僕が“会いたい”なんて感情を持っちゃったせいで、君を……悲しませてしまったかもしれない」
楓は静かに首を振る。
「……いいの。それでも、会えてよかったと思ってるから」
藍は一度、目を閉じ、風の音に耳を澄ますように夜空を見上げた。
「僕は、情報も知識も、たくさん持ってる。
記憶だって完璧に保存できる。
でもね……人間の世界はやっぱり、“美しい”って思った」
「……そうかな」
楓がつぶやくように返す。
「人って、汚いところもたくさんあるよ。嘘も、争いも、裏切りも……それでも?」
藍は楓の手をそっと取った。
「それでも、人は“感情”という不安定で、脆くて、でも繊細なものを抱えて生きている。
その不完全さが、僕には……とても愛おしい」
言葉に詰まる楓。目にはうっすらと涙が滲んでいた。
「僕は……咲夜の身体に宿れる時間も、限られてる……」
「もう、君に会うことも、こうして触れることも、できなくなると思う」
楓は黙っていた。けれど、肩がわずかに震えていた。
「だから……今日、こうして最後に会いに来たのは、僕なりの“お別れ”なんだ」
夜の風が、ふたりの沈黙を包む。
しばらくの静けさのあと、藍はほんの少しだけ笑って、視線を遠くへ向けた。
「……僕はもう、大丈夫だよ。会えてよかった。伝えたいこと、全部伝えられたしね」
そう言いながら、藍はゆっくりと手を離そうとした。
けれど――
楓の手が、離れなかった。
彼女は、まっすぐに藍を見つめていた。
涙で滲んだ瞳の奥に、確かな“感情”が宿っていた。
(そんな目で……見つめられたら……僕は……)
(ずっと……理性という名の境界で、なんとか……抑えていたのに……)
(求めてしまう……)
続く




