一方そのころ帝国では4
「じゃ、ばいばい」
嬉しそうに、彼女は手を振った。これから、楽しいことがあるのだと言いたげなその表情のままに、崖の下へ飛ぶ。
「待てっ!」
誰も止め損ねたのは、それを本気で実行するなど思わなかったからだ。
女である彼女にそんな覚悟はできず諦めてこちらに来ると。あるいは、男の命乞いをするもの思っていた。
ただの一度も、助けてくれとさえ言わずに拒絶した。
互いを失うくらいならばと死を容易く選んだ。
ディートリヒにはそう見えた。
ナキという男は最初から気に入らなかった。冒険者とは到底思えないが、擬態しているようでも演技でもなく、素のままに見えた。
例えば、言葉は訛りもない正統派の発音をしていた。契約書に書かれた文字も癖がなく教本に書かれているようなもの。そのうえ、知識や洞察力は一介の冒険者には不似合いだった。
どこかの貴族が道楽で冒険者のまねごとをしている、とでも言ったほうがしっくりくる。
しかし、他国の貴族が入ってきたという情報は入っていなかった。明らかに上流の流れを汲むようなものであるにもかかわらず、情報から得られたのはただの冒険者であるということだけだった。
冒険者ギルドもこの男に関しては話したがらなかった。役に立つから面識があったほうがいいと押しつけがましく言うばかり。よほどのことがなければ、折れるお人よしだと。
確かに、味方なら役に立っただろう。排除することがとても難しいということで理解する羽目になるとは思わなかった。ギルドのほうもこんなことになるとは想像していなかったに違いない。
ナキは自分のことでは曲げても自分の恋人に関してはひとつも譲らなかった。
その結果がこれだ。
「なぜ」
その声にディートリヒははっとした。この場にいるのは自分一人のはずだ。近くには部下もいたはずだが、手出しは控えさせた。
視線を向けて驚く。
「殿下」
皇子の意識はしばらく戻らないと医師は言っていたはずだった。その間に彼女を連れて、すべてなかったようにするつもりだった。
もし、先ほどのことをすべて見ていたというのならば。
ミリアルドによく似た赤毛の娘は死を選んだ。その前の彼女と同じように。彼の前で。
「……迎えに行かねばならないな。全く手間をかけさせる。きっと寂しくて泣いているであろう」
皇子のいつもよりも柔らかな声に嫌な予感がした。ためらいもなく崖に向かう主をディートリヒは止めた。
「なにをする」
「殿下、ミリアルド様は既におりません」
「おかしなことを。今、向こう側に降りたではないか。少しばかり、心配させたかったのだろう。構わないからと可愛らしい嫉妬ではないか」
「なりません」
不思議そうにディートリヒに視線を向け、すぐに顔をしかめた。
「おまえも彼女を好ましく思うのか」
「違います」
「よく似た娘を追ったではないか」
ディートリヒは言葉を失った。似ていることに気がついていないと思っていた。髪色が違うので印象は違ったが、顔立ちがよく似ていた。ただし、その表情は全く違う。
どこか寂し気に見えたミリアルドではなく、表情豊かで快活なミリーのほうが好ましい。
「別の方です。それに」
髪の色が違う、そう言えなかった。彼女も赤毛だった。だからこそ、ディートリヒは入れ替えてしまえばよいと捕まえようとした。
そして、いなくなった。
「邪魔をするな」
「ほんと、想定以上に弱い。なんだ、これ。俺の娘たちはこんなのに傷つけられたんだ?」
呆れたような男の声は突然だった。
視線を向ければ赤い鳥が人へと転じた。それは面倒そうに長い髪を払い、ディートリヒたちに向き直った。
「燈明殿?」
ディートリヒはその男に見覚えがあった。ミリーの兄と名乗る商人は帝都へと向かったと報告を受けた。
こんな場所に忽然と現れるわけもない。それも鳥から変化するなど通常ではありえなかった。
「覚えてなくてもよかったぞ」
妙に上機嫌に見えた燈明はぱちんと手を打ち鳴らす。
「一人や二人は仕方ない。遠く血を繋いでいるだけの娘なのだからそこまで気にかければ過干渉だ。俺もそういうこともあるだろうと流せる程度の情しかもちあわせてない。
ただ、そいつはやりすぎた。さすがに報復が必要だと俺ですら思う」
「なんの話だ」
「覚えてもいないってのが腹が立つ。
それは、思い出させて、理解させるのが先決だろうな」
燈明の声が途中から柔らかに変わる。その姿も明らかに男性と思えた輪郭が小さく丸みを帯びた形に変わっていく。
「ミリア」
嬉し気な声にぞくりとした。
皇子は一度として、愛称で呼ぶことはなかった。冷静にただミリアルド嬢とその気持ちを隠して呼ぶだけで。恋情のかけらも見せたことはないだろう。
彼女なら、利害関係のほうが近くに寄せてくれると知っていたから。
「ねぇ、貴方のこと、好きだったと思う?」
「嫌われる理由がない」
「自信家ね。顔も体も、それから地位も申し分ないものね。それを望む女を蔑むくせに、それしかないの」
「なにを」
「ミリアルドはそんなもの興味なかったわ。だって、必要ないのですもの。
彼女は王の代わりに国を治めるはずだった。だからね、国を出るわけにも婚約を破棄させるわけにもいかなかった。こんなだまし討ちみたいに外に出されて、もう、死ぬしかなかった」
甘く笑う燈明は、ミリアルドに似て、違っていた。毒のようなものを含みながらも耳にどうしても入ってくる。
「だって、そうじゃない。国家機密を持っている娘が皇帝の妃になるなんて、無理よ。どうしても暗殺するしかないじゃない。あるいは、国を亡ぼすか。
それくらいなら、汚される前にと思うくらいには、思い切りが良かったのよね。死んでも触るなという気持ちは伝わったと思いたかったけど、無理だったみたい」
楽し気な声とは別に小さな音が聞こえた。耳障りな音は耳を覆っても聞こえてくる。
遠く悲鳴が聞こえたような気がした。きしむような音は内側から聞こえてくるのだと気がついて激痛を理解した。
「壊れたものを外に野放しにした人たちも同罪よ。私にとってはね。
だから、貴方たちがバカにした、下に見たものになりなさいな。そして、悪夢の中で反省してそれからが本番」
骨が、肉が、内臓がぐるぐるとかきまぜされているような苦痛にディートリヒは声も上げられない。耳鳴りのように体がきしむ音が聞こえた。
「ねぇ、女になったのはどんな気分?」
記憶の最後にあるのは、嘲笑の声。
もうちょい続きます




