091ディーノ・ブッツァーティ『神を見た犬』
お久しぶりです。
途中まで書いて止まっていました。
本自体はそこそこ消化したので、何とか更新ペースを戻していきたいと思います。
夜や朝も暖かくなってきて、大分春めいてきた。
昼間なんかは暑く感じることも多くなってきたので、カーディガンともお別れかと思った。 暖かくなるとのぼせてくるのか頭がボンヤリとする。
ふぅとついつい何となくアンニュイな溜息が漏れる。
乙女としてはミステリアスな雰囲気が出ていていいのではないでしようか。
「どうしました? 溜息なんてついちゃって」
「いやあね、暖かくなってくると眠くなるしじゃない。春眠暁を覚えずっていうじゃない?」
「まああれは、春だから眠いという理由以外にも科挙に落ちて落胆しているから布団から出たくない見たいな意味合いもあるとか何とか聞きますけれど、確かに私も難しい本読んでいると眠くなってきますねー」
「何読んでるの?」
「新書ですけれど、ヘーゲルの入門書ですね」
「へぇ……ゲル?」
「そんなブヨブヨとしてそうなもんじゃないですよ。哲学です哲学。アウヘーベンとかア・プリオリとか聞いたこと……」
「ないっス」
「ないっスかぁ……」
本を閉じると肩に手を当ててゴキゴキと結構な音量をあげながら肩を鳴らして「ふんむー」とかいいながら胸を思いっきり反らして伸びをする。
「なんですか栞さん。お疲れのようじゃないですかぁー、あっしがいっちょ肩揉んで差し上げましょうかい?」
「いや、いいですよ。詩織さん絶対に変な所まで触ってくるし……」
「えーつまんない。信用ないなあー、精々頭の匂いかぐぐらいしかしないよぅ」
「嫌ですよ!」
そして、わたしも肩をゴキゴキ鳴らして、胸を思いっきり反らして深呼吸をする。
「あー眠い! 眠いですよ! 栞膝枕して!」
「何甘えているんですか! そんなに眠いんですか? まあこの陽気なら分からないでもないですけれども」
「そうねー、本読みたいなという気持ちはあるんですよ。あるんですけれど、なんていうか……こう読まなくても読んだ気になれる本があればなあー……なんちて!」
とか何とか言ってたら栞に怒られるかもと思った物の、口に指を付けて「んー」と考えている。
「まあ読まなくてもいい本はあるっていうのはボードリヤールとかオスカー・ワイルドもそんなこといっていますけれど、読み切るまでに十年ぐらいかけてもいいかなーって思う本はありますよぉ」
「えっ、嘘! 二〇〇〇頁とかあるんじゃないのそれ?」
「いえいえ、一般的な厚さですよ! 単行本が長らく絶版になっていたのですが、何年か前に文庫で出たのですが……図書室には多分なかったかなあ」
「なんで十年かけて読んでもいいのですと? 面白いのそんなの本当に」
「イタリアの作家、ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』という本なんですけれど、これは傑作です」
「アラビアン・ナイトみたいなん?」
「若き軍の士官、ドローゴが辺境の砂漠にある砦に赴任してからの、いつか敵であるタタール人が来て戦いになるだろうという思いを馳せたまま、三十年……。何事もおきず、砂漠のど真ん中で虚無の毎日を過ごしているうちに、砦の副司令になったドローゴは体を壊し街に下げられるのですが、その時……! という話なんですが、読むと滅茶苦茶に焦ってしまいます。自分の人生とドローゴの人生が重なり合うと、ウギャア! と叫び出したくなってしまうのですよ。私は一気に読み切ってしまいましたが、人によっては、気が向いたときに数頁だけ読んで閉じてしまい、そしてまた気が向いたときに開くという読み方をする……なんて読み方をする方も少なくないんですよね。幻想的で不条理で、日常と隣り合わせの恐怖が味わえる傑作です」
「そんなに凄いの? なんか派手なシーンがドカドカあるってワケでもなさそうだけれど……」
「何も起こらないんです……とにかく三十年間何も起こらない話なんです。山も谷もないのに惹きつけられてしまうんですね。映画にもなっているようですが、こちらは私も未見ですね」
「なるほど……何も起こらないからいつ開いてもいいって感じなのかな?」
栞は、んーといって空中に視線を漂わせて考え「まあそうかも知れませんね」といった。
「きっと人生に何らかの意味を見いだしたいという人には恐怖でしかない作品ですよ」
「そんなに……」
机に肘をついて掌の上に顎を置くと、ぼんやりと三十年後の事を考えた。
三十年経ったらもう五十が見えてくる。
「五十歳ぐらいになったら何しているのかなあ……五十にして立つだったっけ?」
「詩織さん……三十而己ですよ、三十にして立つんです。五十になってから立つのでは遅いですよ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る訳ですね。まあ孔子の言葉ですから、普通の人間は五十ぐらいで惑わなくなってもいいのかも知れないですけれども……」
惑ってばかりだなあーと漏らすと、栞が「四十の事を不惑っていうぐらいですから、その半分も生きていない私たちは惑ってばかりでもいいんじゃないですかね? モラトリアム万歳ですよ」などと珍しく暢気なことをいっている。
「で、その小説なんだっけ? ブッ……ブッツンじゃなくて……」
「ディーノ・ブッツァーティです。イタリアの作家ですね。同時期の作家でカルヴィーノは以前読んだと思うのですが、ちょっと似た系譜の人ではあるかも知れませんね。ファンタジー要素もあったり、不条理な要素もあったり、妙にリアルな描写があったりと多彩な作家です」
「へー。カルヴィーノってアレでしょ? あの空っぽの鎧のヤツとか」
パンと栞が手を叩き、パァァと顔を輝かせる。
「それですそれ! 『不在の騎士』ですね! よく覚えていてくれました!」
「うん、それそれ。あれ面白かったから覚えている」
「カルヴィーノだと他に『アメリカ講義』という大学の特別授業の遺稿もあるのですけれど、それも面白いですよ!」
「大学の授業……うっ頭が……!」
そういうと栞はつまらなさそうな顔をするが、気を取り直して「ブッツァーティって短編も一杯書いている作家なので、それ読んでみませんか? 本当に一〇頁ぐらいの作品とかもありますよ!」
「短編ならわたしでも手が出しやすいかな、短編好き……」
「お勧めなのはこれですね! 『神を見た犬』です!」
「あ、なんかタイトル面白そう」
「元々は『六十物語』という短編集で、タイトル通り六十の短編が入っているのですが、邦訳されたのはその内四〇本ぐらいですかね。元々は『七人の使者』『スカラ座の恐怖』『パリヴェルナ荘の崩壊』という短編集をあわせた物ですね。これはイタリアの権威あるストレーガ賞という賞を取っています。詩織さんでも知っていそうな作品だと、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』とかもそうですね」
「あ、なんかタイトルだけ聞いたことある! なんか分厚いヤツだってテレビで見たことある!」
「そうそう、分厚いヤツです。ブッツァーティに話を戻しますと、本人は自分の本職は画家で、新聞記者や作家業は趣味でやっているといっていたらしいですが『シチリア島を征服したクマ王国の物語』という絵本をかいていますね。これは何年か前にアニメ映画にもなっていますよ」
「へー趣味でやっているヤツが凄い賞とったんかぁーなんか多彩だなあー」
「凄いでしょう?」
「……いまなんて?」
栞はプイと顔を背けた。
「まあ、それは置いておくとして、一本だけ話を紹介すると『七人の使者』なんかはガッと心を掴んできますね! ある王国の王子が国境がどこにあるのか実地調査するために、国の外へと向かって調査に赴くのですが、七人の騎兵を用意して、自分たちと王国の間を手紙をもたせて往復させていくのですが、当然遠くに行くに従って、使者が自分たちの元に戻ってくる間隔が延びます。そして国境が見つからないまま調査隊ははや数十年と経ち……というお話です。ここら辺『タタール人の砂漠』を書いた人だなって思わせられますね」
「えー……なんか怖くないその話」
「まあ他の短編集のタイトルが『現代の地獄への旅』とか名前付けられてたりするのがありますしね。不条理かつ虚無なんですけれどもユーモアを覗かせることもあって中々にやり手ですよ」
「そういうのなら読んでみようかなあー」
「さっきお話ししたカルヴィーノの『アメリカ講義』では文学に必要な要素は「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」そして「始まり方と終わり方」という話をしているのですが、短編小説の肝は「語りの速さ」と「密度」です。ブッツァーティの短編は必要最小限の情景描写だけしか書かずに、後は物凄い勢いで本題に切り込んでいくんですね。展開もとにかく早いんです。正に「軽さ」と「速さ」が備わっているんです。それでいて情景描写の乏しさとシチュエーションの異常さで想像力がかき立てられるので「視覚性」何かもバッチリ備わっていますし「多様性」についてはさっきからいっているように凄い手札の多い作家なので、カルヴィーノのいう条件を十分に備えているんです。カルヴィーノはネオレアリズモというグループに属しているんですが、ブッツァーティはそれとはまた別の独自の作風なので、小説を書き始めてから《発見》されるまで結構時間がかかったんですが、そういうカテゴリー的な物を超越した面白さがありますね!」
栞がいつになく早口でまくし立てるので、ちょっとひいてしまったが、まあそこまで言うなら、とりあえず何頁か読んでみようと思うことにした。
「でもまあ、わたしは栞に勧められた本以外あんまり読んだことないけれど、実際の所色んな作品が多すぎて、どれから手を付けていいのやら分からなくなるなあー」
と、頬杖をつきながらぼやくと、さっきのわたしのまねをして肘を机にのせ、掌に顎をのせた栞が「私だって、どの本から手を付ければいいのか分からなくなることばかりですよ。あれも読みたいこれも読みたいで、どれにするか迷いっぱなしです。だから四十にして惑わずですよ。まだ四十になるまで折り返し地点にも来てないんだから、思いっきり迷っていきましょうよ!」
「栞にしちゃ珍しく怠惰だなあー」
ぷくーっと膨れて「そんなことないですもん」など、どこか遠くに視線を投げやり呟く。
「んじゃーモラトリアム万歳って事で!」
「そうですね、モラトリアム万歳です!」
二人して放課後の図書室でケラケラと笑い合った。
ブッツァーティの『タタール人の砂漠』は一時期ネットなんかでもかなり評判になった記憶があります。
単行本を所持しているのですが、一時期絶版になりかなりのプレミアム価格がついていましたが、今は文庫が出ているのでそちらで手軽に読めます。
今回底本にしたのは岩波文庫脇功訳『神を見た犬/七人の使者』ですが、光文社古典新訳からも『神を見た犬』のタイトルで出版されております。
気軽に読める掌編・短篇集なので是非どうぞ、面白いですよ。
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ではまた次のお話で。




