036高行健『母』
京阪ラジオ様のFM802「802Palette小説家になろうNovel on radio」
というコーナーでなんで自分が選ばれたのかさっぱり分からないのですが
当方の書いた文章朗読するよというお申出をいただき
9月の毎週土曜26時半頃から10分程度4回に分けて放送されるようです
日付変わって24時間移譲先ですが本日の26時半ですね(日曜2時半)
過去ログはDJの豊田様、the peggiesというバンドのギター・ボーカルの
北澤ゆうほ様のお二人で朗読されます、ご興味有りましたら過去ログはこちらから
https://www.youtube.com/playlist?list=PLlPbV0GD2CxuivfO-JrSXAHBvvAIVuEt4
日中の温度が三十度前後になった時点で涼しいと感じるのは、大分体が馴れているのか参っているのか悩むところではあるけれど、このままあと半月もすれば残暑も終わるのではないかなと思った。
まあいつもの喫茶店で涼みながら栞と二人だけで馬鹿話をしているだけなのですが。
いや、馬鹿な話はわたしだけが振っていて、栞はニコニコとしてさっきから聞いているだけである。
「と、いうわけで読書の秋、読書週間もそろそろ近づいてきましたね」
「何が"と"いうわけなんですか栞お姉様」
お姉様といったのが気に入らなかったらしく、ぷくーっと顔を膨らませている。
かわいいので指で突っつこうとしたら、ソーシャルディスタンス!
と一言言って後ずさり、更に拗ねてしまった。
やっぱりかわいい。わたしの語彙が足りていないのでかわいいしかいえないのだがお饅頭みたいでかわいいと思う。
いったら恐らく、結構本気で怒られそうなので黙っておく。
「もー本当に……まあいいです、今回は前回より薄い本を用意しました。重い本を読んだら軽めの本を読んで体力を回復させるのです」
栞が何言っているのかちょっと分かりかねるが、黙って聞いていた。
「こちらの本ですね」
と、取り出したのは黄色というか少し緑がかった色に水墨画が描かれた本であった。
「この本実は長いこと絶版になっているので、お勧めするかどうか悩んだのですが、古書店でも比較的安く手に入るので今回ご紹介しようと思いました」
「えーとこのこうこうけん? って人はあれでしょ、アマゾンの奥で魚釣りしたりグルメな作品書いてたりの……」
ちょっとは知っているんだぜといった感じで口を開くと、和やかな笑顔のまま「違います」と、否定され、僅かばかりの羞恥心を得る。
「その人は開高健ですね。まあ確かに高行健に漢字は似てますねー」
「その人はえーと、日本人なの?」
「フランス人です」
「おフランス!」
「まあフランス人といっても正確には華人、つまり中国人だったのがフランスに亡命してあちらの国籍を取ったというわけですね。日本では"こうこうけん"とか呼ばれたりもしますが中国語の"ガオ・シェンヂェン"の方が伝わりやすいかなーといったところですか」
「何でその人は亡命したの?」
「簡単に言うと作品が中国共産党の意にそぐわなかったからですね。呼んでみて頂くと分かりますが、文化大革命や、国の政策により離ればなれになった人の話なんかが多いです」
「また重い奴っぽいー」
栞はそんなことないですといいながらペラペラとページをめくっていく。
「短編集ですし、気軽に読めるいい話ありますよ、例えばお勧めは「おじいさんに買った釣り竿」ですかね」
「お爺さん孝行する話?」
本を受け取ると、帯が眼に入る。
「あ、この人ノーベル文学賞の人なんだ! じゃあ読んで置いてサラッと自慢しよう」
「中国人では初めてノーベル文学賞を取った方ですね、その当時はすでにフランス国籍だったのですが、これが面白くない中国政府が猛抗議したそうで……政府に従順なノーベル文学賞を取った漠言以外の、有力候補と見なされている閻連科や余華なんかは政府から睨まれてますからね、どうなるかは分かりません」
「読もうと決心した瞬間に、なんだかドロドロの話聞かせないでよぉ……」
「ああ、すいませんすいません! 一応ここのところのトレンドの話という事で……」
とりあえず気を取り直す。
「で、お勧めの話はどんなお話なの?」
「はい、とりあえず芸風の違いを味わうために、頭から読んでいくのが良いと思いますが、とりあえず『おじいさんに買った釣り竿』ですね、この話は抜きん出ているように思われるので、楽しみにしていてください。ナラトロジー、つまり物語論の教科書にも良く取り上げられているのですが、時間が行ったり来たりと時制の把握が難しかったりシームレスに時間と場所が一気に変わってしまう所があり、注意して読まないと迷子になります。幼いぼくがおじいさんとの思い出を語っていたかと思うと、突然大人のぼくがタクラマカン砂漠の上を飛ぶ飛行機の中でサッカーのラジオ中継を聞いていたり、一本の話ですというには複雑ですね。筒井康隆『邪眼鳥』にそっくりです。あちらはコンデンス・ノベルの要素もあるようですが、視点の急激な移動がポイントですね」
聞いてて頭がこんがらがってきたが、何かいうよりも読んだ方が早そうだなと思ったので黙っていた。
「よし、読んでみる」
栞の顔が夾竹桃の花のようにパァァァと綻ぶ。
文句を言わず読みますと宣言したのが嬉しかったようだ。
でも、わたしは珍しく知っている。
夾竹桃は猛毒なのだ、栞お嬢様は時々めっちゃ怖くなるのでその例えは口に出さないでおこうと思った。
「中国の田舎の小旅行の話とか、時を超えた恋愛……というには枯れてしまったような話ですとか、なんとなく日本人にも通じるような、侘しさや切なさが滲み出ています。文革の時の中国のドタバタ具合も込み入っていて、複雑に感じるかも知れませんが、基本的にはすっきりとした短編集なので、入るならこの本ですね。他に現行流通している本といえば『霊山』がありますがこちらはそこそこお厚いので、入るならやっぱり書かれた時系列通りに載っている短編からかなーと私は思います」
「じゃあこの人の本読み終われば大体ノーベル文学賞は理解したと言っていいことになるでしょう」
「詩織さん、そういう所ですよ」
眼鏡の奥から時折見せるいつもの鋭い視線がわたしの瞳の真ん中を貫く、なんだかゾクゾク来てしまう。
そのとき雷が近くに落ちたようで、バカンと結構派手な音がしガラスがビリビリ震え店内は暗くなり、それとともにドザァと酷い雨が降ってくる。
「うわーびっくりしたぁ! めっちゃ近くに落ちたんじゃない? あれ、栞?」
栞は目を白黒させてビリビリーっと感電したかのように頭をふわーっとしたままの表情でくるくると回していた。
「ちょっと、大丈夫?」
ようやく気がついたようで「はい、大丈夫です。ただ耳がキーンとして今はまだ声が良く聞き取れてません」
喫茶店の店員さんが「お怪我ありませんかー」などといって回っているけれど、目の前のお嬢様はお怪我ではないものの、なんかヤバそうである。
「あっ、あっあー、あー……」
などと呻いて耳をパカパカしている。
「大丈夫です。少し聞こえるようになってきました……」
「あーよかった、でもこの雨が降り終わらないと、もう外出られないね」
外では道路が真っ白になるほどの豪雨である。
時期柄雹に変わってしまってもおかしくないし、風はどんどん強まり喫茶店の窓をガタガタ揺らしている。
「もう少しすれば父に迎えに来て貰うことも出来ると思うんですが、ちょっとどうなるかはなかなか分かりませんね……」
相手の顔がよく見えない。
よく見えないので本当にそこに居るのか確かめたくなって、栞の顔に手を伸ばすと、やや冷えた肌の感触と、なんだかとても繊細で柔らかい頬らしき場所に手が当たる。
エアコンが途切れて、まだ十分もたっていないのにほんのりと汗で濡れている。
「ひゃいっ!」
と、栞が素っ頓狂な声を上げる。
「あ、ごめんごめん。大丈夫かなーと思って、あはは。ソーシャルディスタンスだよねー」
といいつつ栞の驚き声を聞いたらなんだか急に恥ずかしくなってしまった。
「えい!」
といって今度は栞がわたしの頬を掴みムニムニとする。
「体温高いんですね、ほんのり熱い……」
わたしも負けじと栞の頬をむにゅむにゅとし続ける。
そういえば昔、栞にこんな感じで顔をいきなり触られたような気がする……。
わたしたちはお互い止め時を失ってむにむにしていた。
停電が直った時のお互いの気まずさといったらなかった事を付け加えておく。
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
高行健『母』は絶版ですが比較的安価に手に入りやすく、初期から亡命時の主要な作品が含まれています。
短編集で入門にも丁度良いので是非お手にとって下さい。
絶版本を出すことには些かためらいは有りましたが、たまには良いかなと思いお出ししました。
同じ理由で、先頃亡くなったノーベル賞作家のトニ・モリスン『ビラヴド』もお蔵入りにしていましたが
もし亡くなったことで増刷されているようなら出してみようかなと。




