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029丸谷才一『樹影譚』

お久しぶりです。

丸谷才一『樹影譚』から「鈍感な青年」を取り上げました。

未完成の状態でのアップロードでしたが正式に完成版としてアップし直しましたのでよしなに。

「あっおー」


 等と適当な挨拶をしながら手を振って近づいていくと、栞は「あ、お疲れ様です」と、きっちりとした挨拶をしながらこちらを振り向く。


「挨拶ぐらいはちゃんとしないとですよ!」


 と、子供を叱る母親のように、マスク越しだがはっきりと伝わる声でとがめられる。


「親しき仲にも礼はありですからね」


「分かった分かりましたってば、ごめんごめん」


 後ろ頭に手をやり大分伸びて来た髪の毛を掻き上げる。

 髪を染めに行こうかとも、散髪に行きたいとも思っていたのだけれど、このご時世なので母から「止めておきなさい」と言われていたので、染めた部分がどんどん下っていきプリン頭だったのがチョコバナナアイスみたいになってきて、これまた非常にみっともない。


 わたしだってそういうの気にするんだからと言ったところで、学校の閉鎖が解かれて授業が歯抜けながらも再開し、流石にこの風体はみっともないと、掌くるくる返されて、帰りに美容院に行って来なさいと、小遣いを渡されていたわけである。


「髪伸びましたね」


 栞が珍しいなあと言った目つきで上から下まで目を見やる。

 まあ、気づいたら腰まで伸びてきたので、梅雨も夏場も耐えきるためにもうバッサリといってしまおうという魂胆である。


 唐突に栞に見せてやって驚かせてみようという訳だ。


 どんな反応するのかちょっとワクワクもするし、ここまで伸びた髪は、医療用の鬘として寄付できるらしく、親戚のヒッピーみたいなおじさん……といってもヒッピーなど見たことないので、検索して出てきた写真だけ見て、あーとかうーんとかいいながら、勝手に納得していたのだけれど、まあ似ているなと思ったところで、以前おじさんが急に坊主頭にして髪の毛寄付したら感謝状が貰えたという話を聞いて。


 たまには人の役にでも立ってみるかと思った次第であるわけです。

 衛生面とかでこのご時世、万が一のことがあって拒否されるかもしれないけれど、まあ致し方のないことだろう。


「私みたいに三つ編みにしてみます? 私編みますよ、それにお揃いですよ!」


「いやいや、わたしには似合わないって!」


「そうですか? 折角伸びてきたんですし、ポニーテールとかツインテールとかも可愛いかなって思うんですが……」 


 なんかチョイスが今ひとつ芋っぽいなと思いつつ、ふりふりのリボン付けてサイドテールとかにしてみたら、きっと愉快な見た目になりすぎて、両親が腹を抱えて大笑いしながらバシャバシャと写真撮られていくであろう事は、火を見るより明らかなので、想像したら背筋に寒い物が走ると同時に、不意に笑いが突沸する。


「ぷっははは」


と笑うと栞は不思議そうに。


「フリフリのピンクのリボンとか付けてみると、もっと女の子っぽくなっていいんじゃないかなって思うんですけれど、そんなにおかしいですか?」


 いやいや、おかしいですよ栞さんと言いかけて、飲み込んだ。


「やっぱり想像したけれど似合わないよ、わたしがピンクのリボンって!」


「まあ私が髪編み上げるとかするとなると濃厚接触って奴になっちゃいますものね……」


 至極残念そうにシュンとしてしまった。


「それよりあの挨拶やってみようよ!」


「あの挨拶?」


 わたしが脚を上げると栞も納得したようで、わたしの足先を遠慮がちにコツンと叩き合わせる。普段余り見えない黒いストッキングに仄かなフェチズムを感じた。


「詩織さんは、こう脚を上げるとスカート短すぎません? 高速だと膝下まで……」


「いやだって暑いしさ、栞みたいな、なんて言うか黒髪の乙女が脚を隠すのはお嬢さまっぽくていいけれど、わたしがそんな事したら男子に笑われるって!」


「イヤラシい目で見てくる男の方も居るんじゃ……」


「平気平気、気にしすぎだって。私が男なら栞のほう襲っちゃうもんね! ぐわーって!」


 栞はマスクから噴き上がる蒸気で一瞬にして眼鏡が曇る。


「あ、いやいや冗談だって……」


「冗談で済みませんよ、もう! 私みたいな華のない地味な娘に需要なんて無いですよ……」


 まあそのあたりが需要あるんだろうけれどなあと思ったけれど黙っておく。


「そういえば図書室はしばらくの間使用禁止、で、放課後はさっさと帰れってなったわけだけど、なんか久々に図書室で駄弁るつもりだったのになんか気が抜けちゃったねー」


「もう! 図書室は雑談するところじゃないとあれほど……」


「ああ、ごめんごめんって。あ、そうそう図書室で思い出したけれど前に貸してくれたあのなんか古い感じの言葉遣いで書かれている本読み終わったよ!」


 その言葉に信じられないという反応が目に現れる。

 マスク越しでも意外といった感じだ。


「あの、古文みたいと言っていた詩織さんが! 丸谷才一を!」


「なんか私のこと見くびりすぎじゃないですか……」


「あっごめんなさい、えーと歴史的仮名遣いの本というと丸谷才一『樹影譚』だけでしたよねお貸ししたのは……」


「そうそう、それそれ。慣れるまでに結構時間掛かったけれど意外と薄いし短かったからさくさくっと読めたよ。アレでしょこれで純文学乙女名乗れるでしょ?」


「まあ名乗れるかどうかは分かりませんが、お貸しした本の中では割と渋い所から攻略したなってちょっと驚いています」


「あー、まあ薄さで選んでいたからねー。あとほら、三本セットの短編で一番目の話が図書室の話だったからさ……」


「あー『鈍感な青年』ですね!」


「そうそう、毎日必ず大学の図書室で会う美人の学生と、勉強熱心な学生が二人でお祭り行ったりして最後にエッチするっていう……」


「ちょっと外でそんな大きな声でエッチとかいったら恥ずかしいですよ!」


 栞が辺りを伺いながら声を潜める。


「まあでもさ、ほら皆から処女と童貞に違いないって思われてて、実際にその通りで、初めてエッチしたら上手くいかなくて、童貞君の彼が、暴発して美人の彼女の顔に発射しちゃうってなんか凄いエロスだよねって思ったし、あーなんかあるあるっぽいなって感じた」


 栞はギョッとした目を向けて、ワタワタしながら肩をつかんでゆさゆさと揺すってきた。

 濃厚接触だか濃密接触である。


「文学の中での性行為はすべて何らかの意味があるシンボルだったりメタファーだから読んでいる内はいいんです! でも、どっどう……と、しょ……未通女の人がその、えーとエッチなことをして、その、えーと顔にっていうのが、あるあるだなんて詩織さんまさかあなた、高校生なのにそんな関係をもった人がいるんで、ゲホゲホ!」


「お、落ち着いて落ち着いて! そりゃまあ高校生にもなれば男の一人や二人と付き合ったりするし、まあそういう場面も軽々するよねっていう……栞も彼氏作ったらいいのに」


「ひゃっひゃっひゃっー! 破廉恥な! そんな尻軽だとは思いませんでした! はっはっ恥ずかしい! そういうのは結婚するまで……」


 といって、その場から全力で逃げ出しそうな雰囲気になったので慌てて肩をつかんで引き留めた。


「ごめんごめん、言い過ぎましたよ、嘘嘘、全部嘘。こんなギャルっぽい見た目してるのに上級生も下級生も他の高校どころかクラスの男子からもそんな色恋沙汰の話されたことないって! 強がりですよ、なんかちょっと驚かせようと思ってイキってみましたけれど、正真正銘の処女です。っていうかわたし処女とか告白しててそっちの方が恥ずかしいわい!」


 栞はその場で膝を抱え込むと。

 ぼそっと聞き取れるか聞き取れないかぐらいの声で。


「……本当ですか?」


「は……はい本当です……」


 こちらも尻窄みになってしまった。

 こんな恥ずかしいことになるならからかうんじゃなかった……。

 心はすでに傷物にされてしまった……ような……気が……。


 涙ぐんだ目で、うううと唸りながら。


「自分をね、自分を大切にしてください」


「はい……わたしは二度とこのような嘘をついてからかったりしません……マジでごめん……」


 二人してなんか妙にドキドキしながら公園まで歩いてくると、ようやく二人とも落ち着きを取り戻してきたので、とっておきのものを栞に見せることにした。


「わたしもね、栞がいつも書け書けと仰るのでですね、書きましたよ小説!」


「……今度は本当なんでしょうね?」


「あっはい……先ほどのことは反省しています……」


「よし!」


 二人してブランコに座りながらボンヤリとしつつ、印刷してきた短編を渡す。


「わたしの作家デビューの大いなる一歩ですよこれは!」


「拝読いたします……」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 困ってしまった。


 何が困ったかというと、どう表現していいのか分からないが、直裁に修飾を抜きにいえば腕が一本増えた。


 何を言っているのか良く分からないと思われるだろうが、実際朝起きて額から立派な腕が、親指の位置からして右手が生えてきたら、驚く前にまず困惑するのだという知見を得た。


 朝起きて、ウンゲーツィーファーになっていたグレゴール・ザムザ氏もとりあえず困っている。うん、困った。


 そもそも腕というヤツは普通は二本なので、社会もそういう風に造られていて左利きの人間が困るよりは困ったことになるであろう。


 猫の手も借りたいとはいっても、あれは例えばの話であって、実際に腕がもう二本あれば仕事が一気に進むんだがと、大変な修羅場にあったことは実際にある。


 でも欲しいのは肩の辺りから二本プラスするだけのことであって、額からやけに立派な腕が提灯鮟鱇のようにぶらりと垂れ下がっているのは、まあ格好がつかない。


 阿修羅像だって八面六臂であって、偶数だから割り切れるのであって、一面三臂だと割り切れないのでこれは大変気持ち悪い。


 そういや『封神演義』に背中からニョキニョキとクレーンのように腕を生やして敵の心臓を美味しくいただくという化け物仙人が居たような気がするが、背中から自分の意思で生やせるから役に立つのであって、額から右腕がにょきりと生えていては頭がふらつき大変バランスをとるのが難しいので、これは困る。


 困る、困ると困って居てばかりだと思われるかもしれないが、実際なってみないと分からない。困った……。


 その腕の出現した原因を探ろうとして、寝ている間に何らかの闇の組織の手術を受けたか、未知のウイルスに感染したか、それとも何か知らずの内に禁忌を犯して呪われたか……。


 消去法で一番妥当そうなのが呪いシステム説になるあたりで私の考えもお察しである。

 気がついたら出社しなければならない時間だったが、テレワークでもいいし、そもそもが休日である。


 グレゴール・ザムザ氏に比べたらまだいくらか恵まれている。

 気がつけば額から生えた腕がグーパーグーパーと手持ち無沙汰そうにしている。


 思わず俯いて考え込む。俯いたのは単に額から生えている腕の重さのせいでもある。で、結局また最初の困った困ったの状態に戻る。


 切断手術を受けるかあと考え、整形外科なのだろうか、とりあえず仕事用のデスクトップを立ち上げ、近場で評判のいい所はないかと検索する。


 閉じていたブラウザのタブを開いて、検索するつもりがいつものルーチンでSNSのお絵かきアカウントをボンヤリ開いてしまい、こんな時までネット依存かと一人苦笑いする。そして額の腕は液晶モニタの上にだらんと乗っけておく。


 お絵かきアカウントを見ると、額から片腕をぶら下げている頭のおかしい絵がずらりと並んでいる。

 なんだこりゃとトレンドを見ると「額に腕」というやっぱりこちらも頭のおかしい単語が並んでいる。


 テレビを付けると自粛が解けた新橋の駅前に休日出勤しているサラリーマン達が一様に異様に盛り上がった頭巾をかぶっている。マスクもしているので銀行には入れない、コンビニエンスストアにも入れない。


 だって怒られる。


 そのインパクトはとりあえず自分の頭の腕がどうでも良くなるほどに凄いモザモザのモザイク姿である。


 「額片腕写生チャレンジ」なるハッシュタグが流れてきて、写真で額の腕と握手している写真や、片腕のの写実的なデッサンを上げている人が大勢居る。


 日本だけではなく海外まで広がっているようで、トレンドに「川端康成」という単語が出ていたがこちらについては良くは分からなかった。


 これは地獄かと聞かれると、私には地獄に思えた。


 その日は、脚などもっと邪魔なものでは無くて腕が生えていたことが宝くじに当たった様な安堵感を覚えもう一度寝入った。


 世界は、人類の形態は今日も発展している。


 さて、なんでそんな事が起こったのか分からないので、とりあえず考えてみたが、どうにもこうにも考えが巡り至らないので、この辺で擱筆する。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「どう? 変じゃなかった?」


 どう考えても我ながら変な話である。

 変な話というよりけったいな話と言った方が空気が近い気がする。

 けったいなんて言葉使ったことないけれど。


「変か変じゃなければ変な話ですよね」


 栞がプスプス笑いながらこちらを見やる。

 どうにか機嫌は直ったらしい。


「詩織さんは川端康成の『片腕』っていう短編読んだことあるんですか?」


「トンネルを抜けたら雪国だったって所だけ読んだことあります」


「それは読んだ内には入りませんし、相当端折ってますね」


「すいません……ノーベル賞のお爺ちゃんでガス自殺したとしか知らないです」


「まあ奇妙な話ではあるんですが先ほどの『樹影譚』は川端康成賞を受賞しているのですが、その川端作品の中でも傑作と呼ばれているのが『片腕』なんですよね。一言で言うと『美しい女性の腕が綺麗だったので、男が貸してくれと言ったら貸してくれた』って話なんです。なんか、詩織さんの話とは腕がキーワードになってくる以外で特に通底する部分はないのですが、不条理ギャグ的なところが似ているなって思ったんですね。私には詩織さんの作品の善し悪しをズバッと言い切れるだけの知見を持ち合わせていないのですが、ユニークな話を書いてくれたなって思うと凄い嬉しいです!」


「あ、えっと……その、お褒めにあずかり嬉しいです……」


 彼女のマスク越しでも分かる笑顔を見ると、素直に照れてしまう。


「まあ『片腕』は青空文庫でも読めますので是非読んでいただきたいですね。それはそうとまたお互い拙くとも作品を書いて冊子にでもしましょう、コピー誌だったらお金も掛からないですし!」


「そうだねー花の女子高生だし青春の記録ぐらい付けても悪くないよね!」


「じゃあ今日は雨も降ってきそうなのでこの辺で……」


 栞がブランコを寄せて左足を上げている。


 一瞬分からなかったけれど、私もすぐ理解して、ブランコを寄せて右足で栞の磨かれた革の学校指定の靴をスニーカーでコツンと叩き合わせた。


 そのあと二人して笑っていると、雨の気配がやってきた。


挿絵(By みてみん)

イラスト提供:

赤井きつね/QZO。様

https://twitter.com/QZO_


次回はもう少し早いと思います。

多分エリック・ファーユ『わたしは灯台守』を題材にします。

予定は未定です。

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