025レオポルド・ルゴーネス『アラバスターの壺・女王の瞳 ルゴーネス幻想短編集』
光文社古典新訳です。
図書室の隅っこで学校から支給されている、やたらと使い勝手の悪いタブレットなのかノートパソコンなのか開いてカタカタと何やら打ち込んでいる。
「詩織さんは何か話の格子のような物だとかプロットなりアイデアなり出ましたか?」
ほあーんと口を間抜けそのものの面構えで両手をふらーっと挙げると。
「見ての通りお手上げですー」
と、いったのが精一杯の報告であった。
「まあそんなことだと思いましたけれど、最初は何かの物真似でもいいんですよ、以前にも伺いましたが今まで読んできた短編とかで、気になる話はなかったですか?」
「『夢十夜』と『伝奇集』かなあ、でも好きとはいっても、なんとなく気に入っただけでこれがまた難しいんだよねー、教科書に載る人はやっぱり違うわあ。雰囲気とかは好きなんだけれどどうにもこうにも、理解は簡単だったり、その逆だったり、文章がきれいだったり、なんか難しいけれど面白いとかはあるんだけれどね」
「まあそんなことだろうと思って、みじかーい短編集持ってきました。詩織さんはどうにも幻想文学がお気に入りらしいので、ラプラタ幻想文学のこれなら合うんじゃないかなと……」
「難しくない奴で一つお願いします……」
「ではこちらレオポルド・ルゴーネス『アラバスターの壺・女王の瞳 ルゴーネス幻想短編集』です。この人の作品が纏まって出版されたのは初めてなんじゃないかと思いますが、別の本で『火の雨』という作品が紹介されていて、ある日突然村に火の雨が降り注ぎこの世が終わるというなんとなく暗い話なんですが、こちらの本もそんな傾向の作品が多いですね」
「暗いのはやだなあ」
「まあまあ、読後引っ張るような嫌さなんかはないので読んでみてください。あれ? こんなのでいいの? みたいな話が多いです。落ちがないけれどなんとなく話が纏まっていて、幻想的で、なおかつ短い。日本の文豪が難しく感じるなら、更にすっきりしたこちらがよいかと詩織さんにはお勧めかなと」
「どんな話なの?」
「例えば子供が悪戯で潰したヒキガエルは死体を焼いて灰にしないと夜中に襲ってくるって噂話があって、本当に夜中復讐に来るんだけれど難を逃れるとか……あっさりした話が多いですね、何というか物語を暗示させる部品は揃っているのに、落ちだけがかき消えているような……最近のラテンアメリカ作品ではいったん複雑な話の構造から変わって話の無駄な部分や必要であれば根幹の部分までそぎ落とした作品って割とありがちなんですけれどねアレハンドロ・サンブラ『盆栽/木々の私生活』なんていうのは代表的ですね」
「ふーん、とりあえずヒキガエルの話読んでみて原稿用紙3~4毎分ぐらいの話しかければいいかな?」
「カフカなんかは原稿用紙半分にも満たない作品書いているので、とりあえず無理せず一枚、二枚と埋めていくのがいいんじゃないですかね、無駄を省いていくのが作文や、物語の基本ですが、余計なところが全くないのも味わいに欠けると思いますし……」
「それで……」
わたしが栞の方に目をやり、両手を挙げて指をワキワキとする。
あれだけいってたんだから、下書きぐらい出来てないとその柔らかい両脇を揉みしだいてやりますよーと威嚇する。
わたしの意図に気づき、痴漢にでも相対したように胸をかき抱きみをのけぞらせる。
「書きましたよ! 面白いかどうかは分からないけれど、ちょっと趣味を題材にして普段あまり読まないSFというかファンタジー掛け合わせたお話です……」
「えー読ませてよ」
思わず身を乗り出す。
文学少女が書く作品というのはどんな物だろうかと興味津々である。
花咲く乙女の秘密の園のような明るくてふわふわした話なのであろう。
ちょっとどころではなく「東風栞」という人物に迫る資料として読んでおきたい。
「んー下書きだし恥ずかしいですけれど、見せないことには成長もないですからねぇ……メールでWordファイル送りますので、読んでみてください」
「うぃっす! 了解でーす」
東風栞/禁忌に触れる
宇宙を記述する文字は数字だという。
ガリレオ以来そういわれている。
アルゼンチンの大文豪、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、人類の生み出した真に偉大な発明は「文字」であるという。
文明の推進力は「文字」である。
メソポタミア文明が人類の夜明けを告げたのも楔形文字の発明である。
男女が一組頭を付き合わせて何事かつぶやいている。
「文字ですべての組成を構築する。従って思考を司る脳は、世の万物を記述する数字で書き紡ぐ。ひも理論に寄ればこの世のすべてを記述する数式は二つを合わせてたった一つの数式で記述されるという。素粒子の標準模型の作用に、アインシュタイン=ヒルベルトの作用を記述して以て思考を司り記憶ストレージと、内臓にも記憶に関する受容体があるという学説に基づき各細胞に蒔かれた記憶の素子と為す」
「然り、異論は元より無し、数式は万物を記述し、万物の記述は文字よりなる」
男が握っているのは宋墨である。
北宋時代の名墨である、色は淡麗にして幽玄であり、朧気な骨を持つ。
「一度磨れば粒子は流れ、二度磨れば黒に五彩ありの意味を知り、三度磨れば原初の根幹へと至る」
「繰り返すこと数千、墨は淡麗枯淡の境地の墨池より五彩を備えた黒みを増し、仙境神界より昇り立つ龍となり、泰山に御座す元始天尊の四方をぐるりと巡る」
「天子南面す」の通り北極星を頭頂に抱き、南極仙老に睨みをきかす。
古端渓の硯に念じ込み、鵞鳥の水差しで水をぽたりぽたりと垂らしながら、一磨り一磨り墨の粒子を微分し細分化していく。
満月の夜の月光が寒々とした部屋に落ち込んでくる。
幾時か過ぎ、墨を握る手を中国産の貴重な山にすむ山羊の首回りの毛で設えた筆先が普通の筆の倍はある扱いの難しい筆でもって、ひたりと紙に落とす、神に向かうに通ずるか、複雑な記述を行う。
「血液は如何に?」
「全身に満ち満ちる体液は塩基配列を用い記述するDNAにメチル基をコーディングし生命の発生を助ける」
「細胞が出来れば、細胞中の機構を利用した自己生成プログラムが働き、細胞は自己破壊プログラムの両方を備え生命の形を整える。テロメアは削れぬよう端緒を結び和を以て為す」
「塩基配列はゲノム解析プロジェクトより臨模したこちらを用いる」
「ご苦労」
「なんということもなし、ヒトゲノム解析プロジェクトよりデータをいただき、DNAorigamiの技術を以ってすべてのヒトゲノム31億塩基を転写したまで」
「禁忌に触れる」
「骨はなんなんとするか」
「甲骨以外になかろう」
「然り」
東晋の書聖王羲之は、自らの望まない右軍将軍の官を辞した後、五斗米道に入り浸り仙道三昧の生活を送る。この官職から王右軍などとよばわれる。
王右軍は、楷書、行書、草書、章草、飛白の五体を以て神品とし、その後大唐帝国の顔真卿が現れ中華帝国の二大巨頭と並び称されるまで、王右軍はただ一人孤高の人として、入木道の祖といわれ息子の王献子とともに名筆家の中の名筆家として名を馳せていた、当初は王献子は父より上の評価を受けていた。
唐の太宗、李世明は王右軍を溺愛し、王羲之の作品を金品を以て帝国の威信をかけて集めさせ、王羲之七世の智永和尚から譲り受け厳重に管理していた弁才和尚から詐欺を働き奪い取ると帝国の収蔵庫に納めさせ、後ほど陪葬させた。
その他の宝物も双鉤填墨や臨書、拓本などの一部を残して元王朝滅亡の際に亡国の皇帝は自ら火を投じて宝物庫を焼いてしまった。
迂遠であった。
清王朝の末期になると殷の時代の殷墟と呼ばれる遺跡から亀や牛、鹿などの骨が発掘され「竜骨」と呼ばれ漢方薬として取引されていた。
そこに刻まれていたのが甲骨文字である。
「骨に何かを刻むという文化は、石器時代以前からあり、少なくとも彼らは獣骨に線を刻み五までの数を数えられたという証拠が見つかっている」
「万事よし、人類の根源に至るのであれば骨は甲骨文字を用いよう」
今度は鼠の毛で出来た細い筆を以てして全身の骨格の設計図を甲骨文字で紙の上に刻んでいく。
「次は如何に?」
「五感は金文、篆文を用いよう漢字の中では初めて政治のために使われた文字である。この世の仕組みを理解するのに申し分ない」
「筋肉は如何に?」
「αよりはじめΩに帰す、ヘブルを用いる、ヘブライ語は中国語と同じく時制がない。聖書は過去の出来事ではなく、今現在行われている行為ともとれるという。更にユダヤ人の聖書トーラーは、常に新しい解釈を求めている。ただ古い時代のトーラーに固執するのではなく、新しき解釈を以て無限に永遠に読み解かれるのだ、永遠性を持って肉となす」
「皮は如何に?」
「未だに破壊の手を逃れ残っている人類初の文字、水害、地震、火事、天災、戦争すべてを切り抜けてきた時間のヤスリに耐えてきたバビロニアの楔形文字が最も丈夫だろう」
「では取りかかると参ろう」
男女が二人熟練のプログラマのように縦横無尽に設計図を様々な文字で記載していく、神経などは通信速度を求めトン・ツーのモールス信号なども用いる。
文字は果てしなく続き、エッシャーの「画廊の廊下」のように無限に収束発散を繰り返し、二次元上のプログラムが三次元および多次元にいたり、非可換な領域にまで記述を浸透させ量子化された、一でも零でもないキュービットの記述さえ、可能になりパカパカと人間の反射速度を超えた領域で明滅を繰り返す。
紙の繊維の裏にまで印字する。
カラビ=ヤウ多様体のような複数の次元にまたがるごく微笑の世界にも記述は及ぶ。
「心はなんと欲する」
「文字の王は行草にあり、南無阿弥陀仏の六字名号を以て心を為す。正定の業とはすなはち
これ仏の名を称するなり」
「而して禁忌に触れ、熟れよ生命の木!」
男女二人が焦燥しきっている中紙に包まれた生まれたばかりの男の子が勢いよく泣いている。
「やっと子供が出来た」
疲れ切った男が深々とため息をつく。
女は子供をかき抱き「腹を痛めたわけでもないのに産みの苦しみという奴を覚えた、この世のすべて万物は文字により記述できる、お前は私たちの子だ」
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「これで終わり?」
「はい、あくまで下書きなので、肉付けが足りなかったり余計な記述も多いですね」
「栞さあ……」
「な、何でしょう……つまらなかったですか?」
「ごめん、難しくってよくわかんなかった、あはははは!」
栞は胸を押さえると一気に息を吐く。
「うーんやっぱり自己満足で趣味の話ばかり書いていても通じないですよね、もっと一般的な話にしないとなあ、やたら細かく書きすぎるのもいけませんね……」
「いや、わたしが馬鹿なだけだから頭のいい人が見たら違うかもしれないよ?」
「本当にいい文章はどういう人にでも通じる物ですよ、あーSFは難しいなあ……というかこれってSF何ですかね? 自分でもよく分からなくなってきましたよ」
といってハハハと笑う。
「よーし栞が『やる気勢』になったからにはわたしは簡単で短くて、そうだなあ笑える話書きたいなあ」
「そうですそうです、楽しんで書かないと意味ないですからね!」
栞が身を乗り出しうんうんと頷く。
だから距離近いって。
「わたしも書きたいとは思うけれど、ひの本みたいなの紹介してくれればなんとか読んで似たような話でも面白い話書いてみせるから、本の話はまた続けてね!」
「はい、読書の楽しさに目覚めてくれてわたしも嬉しいですよ!」
その日は施錠の合図がなるまで構想を練ったり、短編集を解説をうけながら読んでみた。
もしかして文章書くのって結構面白いんじゃないかなと思い始めていた。
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
次回
ボッカッチョ
『デカメロン』




