013ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法 』
軽薄そうな内容の割には、本当に読み応えのある軽薄な内容ですのでおすすめします。
栞は憩いの我が家に着くと、なんだか滅茶苦茶に緊張していた。
何でも小学生の頃に何度か、お情けで呼ばれた……と本人はいっているが、そんなおまけみたいな形で名誉友達の体で誕生日なんかの末席に案内され、所在なさげに存在をひたすら消していたという。
「気にしすぎだよー」等といってもなんだか玄関前まで来てガチガチに固まっている。
「ほら、入った入った」と背中を押すと、ほそっこい華奢な体が精一杯の抵抗をする。
「友達の家なんだからさあー、入ってよぉ」
友達という言葉で一押しすると「分かりました、覚悟を決めます!」等と大仰な事をいってにじり寄っていく。
胸に拳を当ててハアハア息を切らせながら胸元から上が上気する姿はちょっと可哀想かなとも思ったけれど、それとは別に若干「えろいなあ」とボンヤリ思ったりもして自分も何考えているんだろうと、ぽやーっと考えていたら顔がポッと燃え上がる。
馬鹿なこと考えていないで栞を家に押し込めるのだ。玄関口に押し込めるともう引き返せないよう「おかーさん友達連れてきたー、勉強教えて貰うから邪魔しないでね」
家の奥の方から「あんたが友達?」と怪訝そうにやってくる。
「あらまあなんかあんたと釣りあわないいいとこのお嬢さんじゃないの、なんかこの娘の部屋幾らいっても滅茶苦茶に散らかっているけどよろしくね、おやつ後で持っていってあげるから」
「あ、あの詩織さんと私が釣り合わないなんて事無いと思います。むしろ逆です、詩織さんは明るくて社交的で私なんかと付き合ってくれて、ご自宅にまで招待してくれて……」
「あらあら、やっぱりお上品な娘さんね、いいのよ謙遜しなくて、がさつなだけよこの娘は」
「詩織さんはそんなんじゃ有りません! 私なんかと付き合ってくれる、私の話を聞いてくれるとってもいい人なんです」
お母さんが気圧された封にあんぐり口を開けたままボンヤリしている。
「じゃあわたしたち、上行くからね、邪魔しないで」
「あ、ちょっと待って」
「もーなによー」
「お嬢さんのお名前はなんていうの?」
「"しおり"です、本に挟む方の栞です、東風栞といいます。挨拶が遅れてしまって申し訳ございません!」
「あなたなら詩織の馬鹿、あ。家の娘の方ね、ごめんなさい。まあこの娘をいい方向に連れて行ってくれると思うからよろしくお願いします」
珍しく私に似てなのか、お母さんに私が似てなのか、卵と鳥の問題のような難問だけど珍しく馬鹿丁寧に頭を下げている。
「ほらほら、じゃあ部屋にいこ!」
「ははは、はい。こちらこそよろしくお願いします」
放っておくといつまでも頭を下げていそうなので、耳にフッと息を吹きかけると「ヒャン!」となんかの小動物みたいな声を上げて背筋が伸びる。その隙を突いて、背中を押して強引に二階に上げる。ここだけでどれだけ時間を食ってしまったか。
「どう? 散らかっているとは言うものの、そこまででもないでしょ?」 と、自慢げに後ろにぽやーっと立っている栞に声をかけると、殺人事件の現場でも見たかのような目をしていた。
「まあ、個人個人で居やすい環境というのは違いますからね、坂口安吾の部屋なんかも本で地層が出来ていましたし……」
あれ? 軽くディスられている? んーん? と思考がごちゃごちゃになっていると、足の踏み場を探し出しながら栞がメタルラックに引き寄せられていく。
「はぁー漫画ばっかりですね。私禁止されているわけではないのですが、漫画滅多に読まないので知らない本ばかりですね、漫画じゃ詩織さんには勝てないですねぇ」
「ふふーんまあねぇー」といってみたところで若干敗北感を感じてしまったが、ちょっとたまに買っている雑誌のエッチな特集とか見せたらどうなるかな、フフフと破滅願望に近い感情を抱き、エロ親父のセクハラと全く変わらないなと思い直し、忘れることにする。だってわたしもこれでいて清楚系で通しているつもりなのだから。
「さ、勉強しましょうか。私なんかでよければできる限り分からないところは解説してあげられればと思うのですが」
くるりとスカートをふわりと膨らませ、背後で悶々とくだらない事を考えているわたしの目の中をじっと射貫いてくる。
「栞さあ、勉強の前に『読んだこと無いけれど内容話せる本』だっけ? あれの話してよ」
「ダ・メ・で・す! 勉強の後のお楽しみにしないで先にご褒美上げると、人はすぐ堕落しますからね」
いつになく強く鼻息荒くしていうので、ああこうなったら梃子でも動かない、いつもの栞さんだ……と思い、おとなしく数学と物理から教えて貰うことにした。
「人間の集中力が続くのは九十分と言われています。そこまで集中したら十分休憩してまた九十分ですね、父と母に電話してみますが門限的にそこら辺が限界ですかね」
まあそこから先はだらけようとするわたしを栞がビシビシ視線で殺してきて気が休まらない。だけどまあ栞の例え話の上手いこと。物理も数学も高校のテストで出る分ぐらいだったら答えが出るんだからそこへ向かって最短で走れとか、無茶言わないでと思ったけれどなんとなくやってみたらなんとなくなんとかなった。
自分の中に入っている何らかの血が覚醒の時を迎えているの「おやつ買ってきたわよ、東風さんのお口に合うかどうか分からないけれど」
お母さん、タイミング良いのか悪いのか分からない……。
「あ、エランドールのモンブランですね、母が時々買ってきてくれるんですが、私モンブランは食べたこと無くって一度食べてみたかったんです。嬉しい、何かお礼しないと」
「この馬鹿娘に勉強教えてくれるだけで十分よ。こういうのは大人の好意に無言で従うものよ」
「馬鹿娘とはなによー、いつも平均よりは上取ってるでしょー。あ、そうだ栞ちゃーん、九十分経ってるよー」
ふうと息を吐き肩をゴリゴリと揉んだ後、眼鏡を取って目をぐりぐりとマッサージして、なんか凄い真っ赤な目薬を挿すと、ア゛ーと唸る。人に教えながら自分の勉強もするのはかなり大変だったのだろう。ちょっと申し訳無い気になる。
「じゃあ紅茶置いておくから、あんまり無理しないでね、あとあまり遅くなるとご両親も心配すると思うから……」
「いえ、父が車で迎えに来てくれると。ご厄介になったご挨拶もしたいということで……」
「はいはい、休憩休憩」
「えーと、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』ですね、そのまんまです。ショーペンハウアーといっていることは似ているんですが、手短に話すととにかく目次だけ読んで相手の反応に合わせて喋っていればボロは出ないというような身も蓋もないことを言っています。パリの大学の文学部の教授は必ずプルーストの『失われた時を求めて』の講座をしますが、最後まで読んだことある人は一人も居ないと言い切っていますね。子供の頃『千夜一夜物語』読破したのがいまでも自慢だという筒井康隆でさえ、読み切るの無理、あれは投げてもよいと言っているぐらいです。大学の教授が授業できるのはここはテストに出るぞーというハイライトの部分とそこに関わる多少のことを覚えているからです。全部覚えて無くても問題ないという身も蓋もない考えですね」
「うわー適当」
「あとは読むべき本だけを読むべきだというのも『読書について』と一緒ですね、人は名著を求めてこれは読んでおけとよく言いますが、オスカー・ワイルドは限られた人生で読める本は少ないのだから、必読の名著百冊を挙げてくれと言われたが、自分は読むべきでは無い百冊を挙げていった方が人生にとって有用だとバッサリやったそうです。で、まあネタバレになるんですが夏目漱石の『吾輩は猫である』について語っているんですがなんか違和感が拭えないんですよね、これ最初の頃は著者もそこそこ調べて書いているようなんですが、後半に進むにつれて記憶とかネット情報だけとかそんな頼りの無い怪しい情報だけで書いているんですよね。論文を書くに当たってはたった一つの日付を調べるだけでも必ず当時の一次資料に当たることが絶対に必要と大学では教わることになるのですが、そんな環境を知らぬ存ぜぬで通して、それでいて破綻が無いのが凄いんですが、さて詩織さん。私は果たして本の中身をちゃんと覚えていまお伝えしていると思いますか?」
栞のことは信頼していたし、いつも正確な情報を教えてくれると思っていたのだけれど、そう言われるとどうなるのだともう訳が分からなくなってくる。
「ふふふ、私だってたまには詩織さんのこと惑わせてみたいなって思うことあるんですよ? ある意味全ての本は粗筋だけ読めば大体分かった気になれるというのがピエール・バイヤールのいうところですね、じゃあ勉強後半に行きましょうか! うーん栗美味しい!」
幸せそうにモンブランを頬張る栞を見て、こんな顔もするのかあと感心すると同時に、いま私は栞の手のひらの上でコロコロと泥団子のように転がされているのが分かってモヤモヤする。
「ねぇ栞。その本持ってたら貸してくれない? 自分の目で確かめて栞に挑んでみたい」
ほっ、とビビッと静電気が走ったような顔をして驚いたと思ったら、今度はニヤリとして。
「風車に突っ込むドン・キホーテみたいに返り討ちにしてやりますよ!」
「また私の知らないたとえでいうー」
その日は久々に真面目に勉強していたので頭の中が凝ったが、栞の甘い物を食べたときのふにゃらかとした表情と、ピンボケしたような本の解説を聞いてなんだかとても遊び回って疲れたような充実感があった。
お母さんは栞のことをお父さんに滅茶苦茶高評価で褒めてて、私も鼻が高かった。
漫画も良いけれど、栞が読んだこと無いような本先に読んで解説してやりたいなあという欲望が湧いてきた。
それがどんなに絶望的な戦いでも希望はあるはずなのだ……と思った。
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
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