第十八話「安楽をもたらす罪」
「――こちらが看取りの部屋です」
ミルが案内した部屋は、昨日『死神に魅入られた子』の治療を行った部屋に行く途中、道を分岐した最奥部にあった。
辿り着いた扉の前で、ミルが扉を指し示している。
ラリカは、唇をきゅっと結んだまま、覚悟を決めた様子で、案内された部屋の前でミルが扉を開けるのを待っていた。
ミルは、昨日フィディアが行ったように、セレガを扉にかざすと、指先を扉に触れさせて錠を開ける。
『ギィィ』という木製の扉が擦れる音と共に、甘い香りがふわりと広がった。
――瞬間、同じ香りに気がついたのか、ラリカがびくりと肩をふるわせた。
――ん? どこかで、この香りを嗅いだ覚えがある……
この随分と落ち着く
……ともすれば――意識が遠のくような、酩酊感に襲われる甘い香りをどこかで私は嗅いだことがある。
――はて、何処でこんなものを……
「――ミア……」
印象的な香りの正体を思い出そうと考えていると、ラリカが小さな声で両手を組み合わせ神に祈るのが聞こえた。
目をぎゅっとつぶり、小さく唇を動かしたラリカは、何かに怯えているように見えた。
いや――これは、懺悔なのかも知れない。
なんらかの後悔を、そして自らの罪を詫びているように見えた。
――なぜ、ラリカがそんな反応をするのだろうか?
一瞬、ラリカの行動を疑問に思い……
――気がついた。
――これは、この香りは、王都の路地裏で嗅いだ香りだ。
リクリスと共に迷い込んだヌミア教徒の貴族街。
その路地を飛び出してきた時に、ラリカが一人向かった場所。
――そこで嗅いだ香りに違いなかった。
あの時に嗅いだものに比べて遥かに薄く、不快感のない香りだが、それは間違いなくラリカが生み出してしまった麻薬の香りだった。
――そうか。
先ほどから、ずっと思い詰めているように見えたラリカは、このことに思い至っていたのか。
彼女が抱いていたのは死に触れる事への恐怖などではなく、これが原因だったのか。
――まったく、それならば、ラリカが苦しそうにしているのにも納得がいく。
王都での一幕を見る限り、ラリカはこの薬を創り出してしまったことを酷く後悔していた。
あの、落ちくぼんだ瞳で呪詛を吐き出していた廃人の女性への対応を見れば、ラリカがその対策についても頭を悩ませていたのも明らかだ。
……しかし、『看取り』という単語を聞いた時点で、これは想定しておくべきだった。
――迂闊だったというしかないだろう。
想定していなかった事態に、静かに私も頭を悩ませる。
ラリカが遭遇するのが、『他人の死』だけであれば、その最終に触れることで立ち直る切っ掛けになればと思っていたが、よりによって自分が生み出した最悪の物品と再会する事になってしまったのだ。
そうであれば、ここで触れる試練・事実は本質的にリクリスの死によってラリカが抱えた痛み――『自分が犯した失態による最悪の事態』というものと性質を同じくしてしまう。
――それを止めなかったのは浅慮だったと言うしかない。
……ただ、これは希望的な考えかも知れないが、ラリカの様子を見るに、この子はすでにこの光景と出会うことを想定していたように思う。
――ならば、それはこの子は『自分の意思』でこの重い事実と直面しようと考えたと言う事になる。
であれば、それは単なる『死に触れる覚悟を決めた』という以上の覚悟を彼女が持っていたということにならないだろうか?
そう。つまりそれは、自分の引き起こしたことに正面から立ち向かう勇気。
それを回復しつつあるという事なのではないだろうか?
――だとすれば。だとすればだ……
私は、この小さな少女の事を、知らず知らずの間に過小評価してしまっていたのかも知れない。
――この子は、すでに着実に、確実に。立ち上がり、立ち向かっていく勇気を身につけ始めている。
考えた瞬間、目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
――ラリカ……君は、やはり強い子だ。
ならば、ここはこの子の選択に任せて、何もせずに黙って応援してやるのが年長者の努めだろう。
なに。もし、ここでより辛い現実に向き合ったとしても。
きっと、今、強さを見せようと踏み出したこの子であれば乗り切ってくれる。
そこで、もし何か問題があるようなら、なんとしてでもフォローするのが私の役目だ。
――ラリカの肩の上、私は思わず涙ぐみそうになる顔を伏せて覚悟を決めた。
***
ゆっくりと、扉が開くと、その奥は仕切りに区切られた空間が並んでいた。
どうやら、その中の一つ一つに患者が寝かされているらしい。
入り口近くの部屋で、狭い空間に多くの寝床が用意されていたのに比べると、一人一人に与えられる空間は多少広がり、ある程度の個人空間として機能しているように見えた。
その中を、先ほどから甘い香りがが優しく漂い、どこかふわふわとした感覚に陥る。
「ヴェニシエス――どうか、皆さんにお声を掛けて頂けませんか?」
「ええ……分かっています」
「赤い札が掛けられている小部屋が、皆様のいらっしゃる部屋になります」
ミルの申し出を聞きながら、ラリカは拳をきゅっと握り締めて、ゆっくりと歩き出す。
ラリカは入り口からもっとも近い、赤い札を掛けられた仕切り部屋の前で立ち止まると、部屋の仕切りをノックした。
「――はい」
中から、弱々しくはあるが、落ち居着いた様子の年老いた女性の声が聞こえた。
「――失礼します」
ラリカは短く答えると、赤い舌先を覗かせて小さな唇をぺろりと舐めた。
「……っ」
詰めた息を吐き出すように喉を鳴らすと、丁寧な仕草で扉を開き中に入っていく。
――部屋の中には、一人の老女が横になっていた。
老女は、襦袢のようなゆったりとした白い衣服に身を包んでいる。
突然入ってきた見慣れない私達に驚いている様子だったが、末期患者とは思えないほどその表情は比較的穏やかだ。
「お休みの所失礼させて頂きますね。――少し皆様に『祝福』を授けたくお伺いさせて頂きました」
ラリカは、言葉を選ぶように悩みながら『祝福』という表現を使った。
――恐らく、それはラリカとしてではなく、ヴェニシエスとして少女が行う儀礼であるのだろう。
今この瞬間、恐らく一人の少女としての自分ではなく、ヴェニシエスとしてこの老女達に会うことが、せめて自分に出来ることだとでも考えているのかも知れない。
「……祝福……失礼ですが……あなた様は?」
『祝福』と聞いた老女が、寝台の上に横たえていた体をゆっくりと起こし始めた。
やはり、その表情は穏やかなものではあったが、ゆったりと自分の体に負担を掛けないように動く姿は、どうしてもその病状の深刻さを感じさせた。
「ああ――どうぞ体はそのまま楽にしていて下さい。申し遅れました。私の名前は、『ラリカ=ヴェニシエス』リベスの町のクロエ=ヴェネラがヴェニシエスです」
「ラリカ=ヴェニシエスでございますか……!? この様なところまで……」
『起き上がらなくても良い』と言ったにもかかわらず、老女は焦ったように起こしかけていた体を完全に起こし、立ち上がろうとする。
ラリカは慌ててその老女に駈け寄り、体を支えた。
「ああ――そんな無理に立ち上がろうなどとしないで下さい」
「そのような訳には参りません……っ!」
老女は、か細くも強い意志を感じさせる口調でラリカに向かって首を振った。
「私が今こうして、安らかに最後を迎えることができるのも、すべてはヴェニシエスのお力と聞き及んでおります。――この、先のない身、最後にまさかヴェニシエスにお会いできるなど、ユルキファナミア様がお慈悲を与え下さったのでしょう……せめて、祈りを捧げさせてくださいませ……」
老女はそう言って、ラリカに支えられながら、硬い床に跪きゆっくりと頭を下げる。
ぷるぷると無理に力を入れたせいか震える右手を、命を燃やそうとでもするかのような気迫で握り締める。
そして、床に向かって、三回拳を打ち付けた。
――トン、トン、トン
固い石で出来た床は、老女の力程度ではさほど大きな音を立てることもない。
だが、その静かにゆっくりと続いた不規則な音は、随分と耳に残った。
「――ラリカ=ヴェニシエス。最後に尊き御身にお会いできた幸福、蔦花が咲き誇る園の向こう側で皆に自慢いたします……ッ! どうかラリカ=ヴェニシエスに智の祝福を……っ」
ラリカはその迫力に気圧されるように一瞬表情を険しいものにしたが、すぐに自分の役目を思い出したように表情を引き締め、慈母のような笑みを浮かべ直した。
「――ありがとうございます。……シス。お名前は?」
「――タルパと申します」
「分かりました。タルパ=シス。貴方に智の祝福がありますように。――そして、蒼の導きが蔦花の向こうに雨の如く届きますように」
「――感謝いたします」
頭を下げたまま、ラリカに向かって祈りを捧げる老女の下、床の上にぽたりぽたりと雫が垂れて、床に染みを作っていた。
***
……そうしてラリカは、一つ一つ仕切られた空間を訪問していき、死を待つ患者達に話しかけていった。
ラリカが対面した患者達は皆、一様にラリカへの敬意と感謝を持って、病身を押してでも祈り、礼を述べていく。
……それらはすべて、死に際して自身の安楽の為に祈りを捧げるのではなく、『ラリカ』に向けて祈りを捧げているように見えた。
そうして、最後の一つの小部屋から出てきたラリカに、ミルが患者達と同じように膝をつき深く頭を下げた。
「ラリカ=ヴェニシエス。この度は、この療養所の皆に祈りを捧げて頂いたこと、誠に感謝申し上げます」
ミルは、頭を下げたまま、微かに肩を振るわせる。
そして、厳かな口調で語り始めた。
「――私が初めてこの区画に立ち入ったのは、この療養所で働き始めて五年目の頃でした。その当時、この区域は――新人が立ち入れませんでした」
ミルは、頭を下げたままラリカに向かって語り始めた。
その声は、冷たく、所々で引き攣れたようにうわずる声は、過去の陰惨な思い出を掘り起こしているような、痛みを感じさせるものだった。
「あの頃は毎日が悲惨でした。……痛みを伴う患者は悲鳴を上げ、呻き、暴れ、不安を抱えた者が脱走を企て。治療に当たるものに理不尽に暴力を振るおうとする方もおりました。お互いがお互いに不安を煽り、不安が不安を呼び……無秩序な状況でした」
ミルは、当時の事を思い返しているのか、段々と嗚咽するように肩の震えが大きくなっていた。
「そんな中で、一人、また一人と私達は皆を看取っていかなくてはなりませんでした。……みな、消耗していたのだと思います。ここの担当になった者は、『持って数年』と言われている有様でした。――ええ。私もここに初めて来たときに思いましたとも。『品格の高さで知られるユルキファナミアの信徒がこうなるのか』と」
ミルは、地面に添えていた拳を、白く筋が浮くほどに握り締めている。
それは、あたかも自分の無力さ。そして、世の無常を嘆くかの様だった。
曖昧な、ぼかした言い回しは、決してそれがラリカに過剰に陰惨さを訴える為の物では無く、ただ単純になるべく事実を伝えたいという気持ちにあふれているようだった。
「それが、今ではご覧頂いたとおり、ラリカ=ヴェニシエスが発見して下さった薬のおかげで、もっとも皆が安らいで最後を迎えられる場所となっております。他の教会教徒でさえ、最後はユルキファナミアの教会で迎えたいという方さえいらっしゃいます」
ミルは、そう言ってゆっくりと頭を上げた。見上げてくるその瞳は、僅かに涙を溜めている。
――恐らくそれは、ラリカに向けての感謝の発露なのだろう。
見上げられたラリカは、真剣な面持ちでミルのことを見返していた。
「――実は、私の母も、昨年、この場所で最後を迎えました。――最後まで、笑って逝きました」
自分の肉親の最後を語るミルは、泣き笑いの様な、切なげな笑みを浮かべていたが、そこに後悔の気配はなく、どこか晴れやかな笑顔だった。
「――ですから、ヴェニシエス。貴方様は、私達にとって神にも等しい……いいえ。それ以上に感謝しても余りある存在なのです。――ユルキファナミア教会療養所を代表して、ミル=ザッシュが深く御礼を申し上げます」
そういって、ミルが再び平伏するように頭を下げた。
――教会に所属する人間が、誰かのことを『神にも等しい』などと評価するのは、どれほどの事なのだろうか?
以前、シェントが似たような評価をしたとき、『あの』フィックが注意して見せたことがあった。
……ならば、その言葉というのはまさしく重い意味を含んでいるのだろう。
ラリカは少し驚いた表情を浮かべていたが、真剣に、その言葉を噛みしめるようにしている。
しばらく、ミルの言葉に葛藤するように沈黙していたラリカは、やがてゆっくりと口を開いた。
「――役に……立てたのですね……」
消え入りそうな声で呟いた言葉は、目の前で頭を下げる女性には聞こえていないだろう。
だが、その一言には、ラリカの万感が籠もっていた。
――そう。ミルが言うことはつまり、ラリカが後悔し続けていたこと。
その、ラリカの成したこと。それによって確かに救われたものがいたことを示していた。
――よかった。
思わず、そのラリカの表情を見て、私は一人安堵の息を吐き出した。
どうやら、結果的に、ラリカをここに来るのを止めなかったのは成功だったらしい。
今回の一件は、ラリカのする行為が最悪の事態を招くだけ無く、同時に誰か――いや、目の前にいた人物を、確かに今生きている誰かを救っていたことをラリカに教えてくれた。
ラリカは、ミルに向ける表情をあらため、今度こそはっきりとした声で伝えた。
「ミル=ザッシュ。――その感謝、ラリカ=ヴェニシエスが確かに受け取りました」







