エピローグ
――朝。
遠く小鳥の囀りが聞こえ、辺りは静謐な空気に満ちている。
緑の木々の間をすり抜けた陽光が、白い壁に強いコントラストの中に柔らかさを秘めた影を描き出している。
辺りに人の気配はなく、ただ、私の主人――ラリカの衣服が擦れる僅かな音だけが聞こえている。
――今、私達は、事件以降立ち入ることのなかったユルキファナミア教会の聖堂に来ていた。
事件の日、ひどく荒れていたは、すでに劇的な速度での復旧作業を終え、かつての姿を取り戻している。
あの日、フィックが破壊した聖餐台の代わりには、再び似通った意匠が施された石造りの台座が置かれている。
今、その上には、ラリカの手によって三つのものが並べられていた。
一つは、文箱のような大きさをした木箱。
美しく詰まった木目が、一目で上質な木材を使っていることが分かる。
もう一つは、少し茶色がかった液体の満たされた小瓶。
瓶の口は、中の液体がこぼれることがないようにきっちりと封がされている。
最後の一つ。 ――それは手紙だ。
上品な紙質に、仄かに浅い色をしたインクで丁寧な文字が描かれている。
――それらは、あの日、ラリカがリクリスに贈ろうと準備していた物。
手紙は、あれからラリカがリクリスに送るためにしたためた物だった。
ラリカは並べたそれらを、もう一度確かめると、微かに息を吐いた。
そして、決心をしたように、息を吸い込んだ。
「――リクリス。ユルキファナミア教会での葬送となってしまってすみません」
ラリカは、祭壇の前に片膝をつき、杖を捧げ持った。
目をつぶり、真摯に祈りを捧げている。
そう。ラリカの言葉通り。リクリスの葬儀は、この教会で行われた。
王都にも十分なハイクミアの教会が無かったためだ。
この教会の客人としての扱いであったリクリスのため。
そして不始末を起こしたことのせめてもの詫びとして、ユルキファナミア教会での葬儀となったのだ。
参加については強制ではなかったにも関わらず、現在教会にいるほぼすべての者がリクリスの葬儀には参列した。
葬儀に参列した者は、皆、どこかでリクリスと交流があったのだろう。
参列した者の多くが涙を流していた。
リクリスがここに滞在できたのは、ごく短い間も過ぎなかったが、本当に多くの者に受け入れられていたらしい。
「貴女が、叶えようとしていた願い。そのもう半分は、必ず私が叶えて見せます」
ラリカが、祭壇に向かって頭を垂れながら、リクリスに向かって伝えるように誓いを口にした。
「貴女が、私の事を信じてくれるなら。私は、必ず――失敗を恐れずに、絶対、絶対に前に進んで見せます。そして、一人でも多くの目の前にいる人を今度こそ、絶対に救って見せます。貴女の期待に、絶対、応えて見せます」
静かに。
ただ、静かにつぶやくラリカの言葉には、強い力が込められていた。
――日本には、『言霊』という言葉がある。
確かに今のラリカの言葉は、確かに新たな運命を引き寄せようとする力が籠もっているように思えた。
ラリカは左腕を祭壇に向かって拳を突き出した。
――その左手には、赤い石が埋め込まれた指輪が光を放っている。
「貴女が……貴女が、手紙で書いてくれた、一緒に進む未来。共にゆく明日のために、私と一緒に来てください。私の事を見守って、そして一緒に進んでください。――貴女の力を、借ります」
一息に、そう告げたラリカは、もう一度深く頭を下げると、顔を上げ祭壇の上のあたりに視線を向けた。
――まるでそこに居る何者かに自分の意思を伝えるように。
数秒、そうしてなにか最後の確認をしたラリカは、立ち上がると聖餐台へと近づいていった。
小瓶を手に取り、その蓋を開ける。
すると、ふわりとした香りが立ち昇った。
華やかな。しかし落ち着きを感じさせる花の香り。
そして、どこか柑橘類にも似た僅かな雑味の混じった香りが絶妙なバランスで調和している。
ローズの精油のように、高級感を感じる香りではない。
だが、ふわふわと、夢を見ているような。
じっと、大切な誰かと共にいるときのような。
誰しもが過ごした子供時代を思い出し安堵するような。
そんな不思議な安心感をもたらす香りだ。
「『リクリス』の精油です。あの日、貴女に渡したかったものです」
どうやら、小瓶の中に満たされていた液体は、少女と同じ名前の、そして少女の故郷で採れる花の精油だったらしい。
それはちょうど、あまり激しい自己主張はしない代わりに、静かに人の精神を落ち着かせてくれるような。
――そんな、私達の知る少女にふさわしい香りだった。
「こっちは、貴女に論文を書いて貰うために用意した材料です。――いつか。私が、貴女と一緒に書けると思ったとき、一緒に書きましょう。それまで、ここに置いていきます」
結局、ラリカはリクリスとの研究内容をまとめることはしなかった。
だが、決してそれは、論文を書かないという意味でないらしい。
いつか、ラリカがもう少しだけ成長して、本当の意味で、『これはリクリスとラリカ。二人で著す論文だ』と思えたとき、書こうということだそうだ。
それまで、この文箱――論文を書くために使う用紙と、製本原料はここに預けていくらしい。
「――ああ、もし、貴女がどうしても書きたくなったら、先に書き始めていても良いですから。その時は、ぜひ、読ませてくださいね」
最後にラリカは、少し茶目っ気を見せるように、軽く笑みを浮かべると、肩をすくめて見せた。
そのまま、指先で軽く文箱をトントンと撫でるように叩いている。
「――さて、それでは、本当に、行きましょうか」
唐突に、ラリカは、その言葉と共に、祭壇に向かって背を向けて歩き出した。
――後ろを振り返らずに。
――かすかにこぼれ落ちる涙を、リクリスに見せまいとするかのように。
そんなラリカの代わりに、私はラリカの肩の上で後ろを振り返ると、静かに祭壇に向かって黙祷を捧げた。
聖堂の外は光に満ちていた。
扉を閉め、聖堂内からは見えないようになったのを確認して私は口を開く。
「――よく頑張ったな。ラリカ」
「――うるさいです。――余計なこと言わないでください」
そう言って、ラリカは杖を抱え込むと、両手で目元を流れ落ちる滴をぬぐっていく。
何度も――何度も。
「――本当に……余計なことですよ」
***
「ラリカちゃーん、くろみゃーちゃーん……どーこに行ったのかなー?」
やがて、遠くから私達を探しているらしきフィックの呼び声が聞こえた。
相変わらず、湿った雰囲気を拭い去るような、とぼけた声音だ。
どうやら、私達の事を随分と探し回っていたらしい。
ラリカの呼び方が素になってしまっている。
「あーもう。どーしよう。聖国行きの便がそろそろでちゃうよー……まーた怒られ――は、しないかぁ……」
フィックが、少し悲しげな声音で、つぶやいているのが聞こえる。
――私達はこれから、聖国に行く。
聖国に行って、のびのびになっていた神器を受け取る事になっているのだ。
フィックも、聖国に今回の一件の報告も兼ねて向かうらしく、今日、一緒に出立する事になっていた。
そのため、私達を捜し回っているのだろう。
「――ラリカ、落ち着いたか?」
ようやく泣き止んだらしいラリカに、声を掛ける。
顔を伏せ、目元を拭っているラリカは、問い掛けに無言で頷いた。
そして、伏せていた顔を上げる。
朝の日差しを受け、陰っていた表情が光の下で照らし出された。
「――ええ。行きましょう――ッ!」
その表情は、涙に濡れてはいたが、絶望の色はなくなり、前に向かって進んでいく強さを感じさせた。
――ラリカは今度こそ、自分たちを呼ぶ声に向かって歩き出す。
私は、そんなラリカに、『泣き跡を隠す魔法』を無言で掛けるのだった。
***
ラリカ達が立ち去り、誰も居なくなった聖堂の中、俄に現れ、長椅子に腰掛ける少女が居た。
長い銀の髪が、採光窓から差し込む日の光を散らし、周囲に舞い散らしている。
少女は表情の読み取れない顔で、祭壇の方をじっと見つめていた。
やがて、そっと音もなく立ち上がると、ふっと入り口を振り返った。
――まるで、先ほどその扉から出て行った少女を見送るように。
少女は、しばらくそのまま扉を見つめていたが、ゆっくりと視線を祭壇へと向け、近づいていく。
そして、聖餐台の上に置かれた木箱と蓋の開いたままの小瓶をじっと、感情の籠もらない視線で見つめると、突然口元にかすかな、ともすれば見落としそうな薄い笑みを浮かべた。
そのまま、ゆったりとした動作で両手を伸ばし、小瓶の蓋をしっかりと閉める。
軽く光に透かすように、小瓶を振り、中の液体が揺れ動くのを見つめている。
少女は、蓋を閉めた小瓶を、大切そうに木箱と手紙の隣へと戻した。
そして、木箱と小瓶に上に向かって手を伸ばし、長く伸びた両袖の袂を打ち払うように優雅に、かつ力強い動作で中空で軽く振る。
すると、それまでそこにあったはずの木箱と小瓶、そして祈りを捧げた少女の手紙は、忽然と姿を消した。
「……大丈夫。ちゃんと、届ける。あの子達の所に」
そういった少女は、誰かに向かってか、あるいは自分自身に向かって納得したように頷いた。
「さんたくろーす……?」
そして、なにやらつぶやいた後、彼女はどこか達成感を得たような表情でその場から消え去った。
――後には、ほのかな花の香りが漂っていた。







