第七十八話「認められない。認めない。」
「――っ、っ」
ミルマルと化した身が幸いした。
冷たい感覚が頭の先から足先までを駆抜けた瞬間。言葉にならない声が喉の奥を押し上げ、体が反射的にその場を横っ飛びに跳ね上がる――ッ!
――轟と大気を引きちぎる風が、飛び上がった私の足先を吹き抜け。黒い塊が先ほどまで私が居た場所の地面を抉り取る。
――今のは、『何』だ?
――今のは……『邪神』か!?
――今、あれは……何をしようとした?
――今、あれは……私を『喰おう』と、したのか……ッ!
振り返った先に現われた、巨大な顎下。
奥の見えない、光を返さない巨大な顎。
それで、『アレ』は、私を喰らおうとしたのだ。
――なぜ?
――邪神の、核。セトは、居ない。
吹き抜ける風を受け、全身の体毛が寒気に揺れる浮揚する感覚の中、体を捻り背後に向かってすり抜ける獣の顎を見つめ、思考が加速する。千々に途切れた思考の波が、明滅するように断片的な情報を流し、走らせていく。
――獣、獲物、待っていた?
代わり、切り出された、窺っていた。
……油断、を――?
――そう。奴は――狙っていた。
『油断』を――ッ!
私達――切り離された核の代わりが、油断するのを。
――だと、すれば……ッ!
――『次』は……ッ!
「――っ、避けろッ、!」
地面を抉った獣の顎が、地面から鼻先を引き抜き。
飛び上がった私を顧みる事無く進み出す。
――行かせては……っ、ならないっ!
――『雷槍』
……だめだっ、『間に、合わない』
邪神が、次に喰らおうとする対象に迫る。
飲み込もうとする対象に。
ラリカを。フィディアを。
地を砕き。鳴り響いた物音に驚き、振り返ろうとする二人に向かって、黒い獣の頭部が迫り行く。
視認したラリカが迎え撃とうと体を反転させるが、両手にターニャを抱きかかえているせいで、対応が遅れた。それでもなんとか、咄嗟にその場を飛びすさる。
ラリカが辛くも避けた横を、邪神の体が掠め抜けていく。激しい揺れが響いたのか、ラリカの腕の中で苦しげにターニャが僅か目を開いた。
――フィディアが。
――『取り残された』
状況が咄嗟に理解出来ないのだろう。呆けた表情を浮かべたフィディアに向かって、邪神の顎が、その身を喰らわんと嬉々として大口を開き、覆い被さって行く――ッ!
――駄目だ。完全に、虚を、突かれた。
――術式の構築、展開、魔力の充填……っ!
全ての工程が、雷槍を発現するための工程が――『足りない』時間が、『足りない』。
このままでは、フィディアが――ッ!
「――ミトゥ…ぅシェ……ぇれッ!!」
――その時、消えかけ、掠れた声小さな声が聞こえ――背後で魔力が爆ぜる気配が膨れあがるッ! 衝撃音が鳴り響いたッ!
――衝撃を伝播する風が、中空に浮かんだ私の背中をぐいっと強く押した。
「――なッ」
衝撃に体勢を乱されながらも振り返った私は、割れた地面を視界に収め、遅ればせながら理解する。
――どうやら、丁度先ほどターニャを助け出した付近で、爆発が起こったらしい。
突如として巻き起こったその爆発に。フィディアを喰らおうと襲いかかっていた邪神が、僅かに体勢を崩す。
『僅か』
しかし。その。『僅か』のお陰で、私の雷槍の魔術の構築が間に合った。
「――吹き、飛べッ!」
チリリと虫の羽音のような空気を音を立て、細く進む雷を追いかけるように、撃ち放った雷槍の魔術が轟音と共に光の如き速度で進み、漆黒の顎を地面へと縫い付ける。激しく魔力を込められた雷槍を受けた顎が突沸する液体のようにねとりとした粘性の膨らみを上げ、辺りを打ち振るわす衝撃と共に粉砕される――ッ!
「――ラリカッ!」
地面に落ちると同時に、ラリカ達を守る為に駆け出した。地面に突き立てる爪が岩の表面を掻きむしるガリガリという感覚さえももどかしい。ゆっくりと流れる世界の中で、遅々として進まない体を押し進め、邪神の顎とラリカ達の間に体を滑り込ませた!
――間に……あった……
安堵と共に、粉砕された顎が消え去り。ようやく、加熱していた思考が正常な働きを取り戻し、目の前の世界が通常の動きを取り戻す。だが、消え去る邪神の顎のその背後でぼこりとまた一つの顎が生まれて行くのを確認した。
――どうやら、流石『邪神』と言うべきか。
そう易々とは終わらせてはくれないようだ。
最後の悪あがきという奴らしい。
思う間に雷槍を展開し、まるで飢えの象徴とでもいうように、嬉々として膨らみあがる獣に向かって撃ち放つ――っ
――ゴプッっという水気をおびた音と共に、飛沫を散らしながら雷槍を受けた頭が爆ぜ、辺りに黒い雫をまき散った。四散する雫と共に、鼻の曲がりそうな生臭い臭気が辺りに一気に広がっていく。
……だが、雫が消えると同時。また時が巻き戻されていくかのように、新たな頭部が生まれて行く。
――もう一度。
――もう一度。
――もう一度……ッ!
……何度繰り返しても、結果は同じ。
邪神の顎は、ただひたすらに。悪辣に。嘲笑うように。何度も何度も蘇り続ける。
……ああ、そういえば。フィックは『倒せる』とは一言も言っていなかったな。
――ただ、『戻る』そう言ったに過ぎなかったのだ。
……どうやら、我々の想定より随分と邪神とやらは往生際が悪かったらしい。
この分では、『セトを助け出せば邪神も停止する』という目論見はどうやら外れだ。まだまだ相手は戦い続けるつもりのようだ。
しかし、となれば、今度こそ本当に。いよいよ持って、もはや邪神と戦う事が出来るのは私だけしかない。それも、先ほどの戦いと同じような邪神の攻勢が続くのであれば、出来る事は現状維持。それも……いつかは私の力が尽きるだろう分の悪い戦いのはずだ。
ちらりと、今も固い地面に踏ん張っている、自分の黒い体毛に覆われた前足に見つめ、口の端を吊り上げた。
――いや、しかし。
……『猫一匹』で、『人二人』……いや、『四人』。
それだけの逃げる時間を稼げるというのなら……それなら、悪くは無かろう。
……たしか、この遺跡ごと吹き飛ばす事も出来ると言っていたか。
すでに、遺跡の規模は把握した。
すでに、核だったセトは助け出した。
すでに、邪神の勢いは落ちている。
――ならば、この場から離れる事さえ出来たなら。きっと、フィック達がなんとか出来るだろう。
激しく全身に魔力を回し、綴り、繋げ。魔法を矢継ぎ早に放つ疲労感の中を。しんしんと凍てつかせていく絶望の中を。僅かに熱くくすぶるような火照りが溶かしていく。
――脳裏に浮かぶは、雄叫びを上げたラリカの姿。彼女が浮かべた表情。
――静かに、熱く、強く。見る者の心をざわつかせ、高揚させる彼女の姿。
……一度……そう、一度でも、勇気を持って立ち向かう事が出来たあの子なら。
――あれだけの強い輝きで応えて返したあの子なら。
……ああ。まだまだ苦難の道を――数え切れない厄介ごとに、あの子は直面するのだろう。
明かさねばならない謎も。まだまだ無数に抱えている。
だが――例え私が居なくとも。
あの子なら、これから先。きっと前を向いて進んでくれるに違いない。
……拾った命。ここで果てて潰える運命というのなら。
……魔法使いを追い求めるだけだった愚か者に、かくも素晴らしい出逢いを用意してくれた雪華に、その点だけは感謝しよう。前世でも、今世でも。誰かを護るための力をくれた、アイツには、最大限の感謝を捧げよう。
――ああ……なんだ。存外、満足がいってしまった……
……頼むから、私が逝っても、『無責任』とは笑ってくれるなよ……
僅かに満腹に似た幸福感を覚えた私は、軽く息を吐き出した。
もう一度、目の前ではじけ飛ぶ巨大な頭部を確認する。幸いというべきか。先ほどまでに比べてさしもの邪神も手数は多くないようだ。この分なら、『少々』の時間は稼げるだろう。
「……ラリカ。逃げろ」
口元に笑みが浮かぶのを感じながら背後を振り返らずに、呼びかけた。
「流石にこれは、手詰まりだ……此処は、私が時間を稼ごう。――だから、君たちは、逃げたまえ」
――だが、私の呼びかけに応える言葉は――無い。
訝しみ、後ろを振り返るために首を振ろうとした瞬間。
「――いいえ。くろみゃー。『終わり』です」
――背筋の毛が、ざわりと寒気を覚えたように総毛立った。
……間違いない。ラリカの声だ。何度も何度も聞いてきた私が、今更聞き間違えるはずがない。
だが――なぜだろうか? 冷静に、淡々と続くその声は、紛れもないラリカの声にもかかわらず、ぞくりと刃物を差し込まれたかのような恐怖を覚えた。
「……ヴェニ……シエス……?」
フィディアの戸惑いと畏れを含んだ声が、ラリカを呼ぶ。
「……ターニャ、ジニス。……貴女の先ほどの献身と努力は、無駄にはしませんよ……」
背後から重い布に包まれたものを降ろすような、くぐもった衣擦れの音と、ラリカの静かな。まるで誰かを讃えるかのような、小さな声だけが聞こえる。
――ゆっくりと、背後からラリカがこちらに向かう足音が聞こえ、私の前に。まるで私の事を守ろうかとでも言うように、ラリカがその姿を現した。
ラリカの服の裾が、先ほどから乱され続けている風に揺れ、ふわりと強くはためいている。
「……くろみゃー。『神炎』を、使います。時間を、稼ぎなさい」
『神炎』――ミギュルスを一撃の下に焼き尽くした、ラリカの魔法。
確かにソレであれば、あの巨大な邪神でさえも焼き尽くす事が出来るかも知れない。
――だが。
「――なっ、待て。それでは君が……!」
……今までラリカが神炎を使ったのは二度。そのたび、ラリカは不調を訴えていた。あまつさえ、全力で放ったときは、意識を失ってしまってさえいる。
――つまり、ここで神炎を使ってしまえば、ここから先、ラリカが自力で脱出するのは、『不可能』になる。ということだ。
ラリカは懸念する私の言葉を聞き、ゆっくりと振り返り不敵な笑みを浮かべた。
「……ふふ、心配してくれるのですね。――ですが、どちらにせよ、ここで邪神を残してしまっては……同じ事です」
そして、言い終えたラリカはまるで邪神の事を睨み付けるように邪神の方へと視線を戻した。ラリカの華奢な両肩が、呼吸を整えるように、上下に揺れる。
「……それにっ、私はいい加減……少し頭に来ているのですよッ!」
「……は? 何……?」
「『全部』です」
ラリカの後ろで束ねた髪が、まるで猛獣の尾のように激しく揺れた。
「――良いからっ、くろみゃー! お前は目の前の邪神に集中しなさいっ! ――一片たりとも残さず、焼き尽くしますよッ!」
「――あ、ああ……分かった」
私の呆けた声を、断ち切るように。ラリカの叱咤の声が響き渡る。
「――ええ、やるべき事も、やれるべき事もあるというのに。……一方的な言い捨てなど、私は認めませんとも……ッ!」







