第七十七話「死にゆく少女」
フィディアが、祭壇の上にセトを寝かせるのを傍目に見ながら。もう一つ。邪神から切り離されている魔力に視線を向けた。
その魔力は歪に引き裂かれたかのように散り散りで。もはや人であるのかも疑わしい曖昧なものである。
だが『ソレ』は、間違いなく人の反応であるはずだった。
『ターニャ=ジニス』
この事件の首謀者の一人であり、皆の前で泣き叫び邪神に取り込まれてしまった少女。微弱な魔力が、溶けかけた蝋燭のように形を崩す邪神の足下で、弱々しい燐光だけを発している。
……もし、すでに彼女が『使徒』と化しているようであれば。フィディアやセトに見せるのは、酷に過ぎた。いかに許しがたい狼藉を働いたとはいえ、知人の無残な姿など、あまり見せるべきものではない。
――それに、例え非道を行っていたとしても。親しい存在を切り捨てるというのは……随分と心に来るものだ。
先ほどセトを必死に助け出したフィディアの優しすぎると言って良い性格を想い。かつて日本に居た頃の懐かしい友の姿を懐かしみ、首を小さく振った。
……ああ。やはり、ここは私がするしかあるまい。
『最悪の事態』が起こっていた場合は、彼女たちの目に触れさせずに終わらせる覚悟を決めた。
セトが切り離された事で、邪神は魔力を循環させる術を失ったのか。伸びすぎた大樹のような姿には一切の動きが見られない。とはいえ、いつ何時、何が起こるか予測もつかない。
念のために雷槍の魔法を準備しながら、その幹の麓に向かって近付いて行った。
近付けば、光を返さない不気味な体表の奥にある影が、ぼんやりとした光として視覚で捉えられるようになってくる。その姿に向かって、静かに鋼縛の魔法を発動し、ゆっくりと流体のような感触を返す邪神の中に鋼糸を沈み込ませ、胎内にいる姿へと絡ませた。
柔らかな感触を傷つけないように注意を払いながら鋼縛を操作し、ずぷずぷと沈み込んでいる鋼糸を自分の方へ移動させていく。
先ほど、あれほど激しくターニャを引きずり込んでいったのが嘘のように。ゆっくりとではあるが確実に魔力の光がこちらに近付いてくるのが見えた。
――ぬったりとした重怠い感触と、激しく水気をおびた音と共に、人影がゆっくりと漆黒の水面から姿を現した。外気と触れた瞬間に、ぐちゅりとした熟れすぎた果実に触れているような感触が鋼縛から伝わり、ついつい不快な感触に目を細める。
『ベチャリ』と、濡らした雑巾を床にたたきつけたような音共に、ターニャが邪神から完全に取り出され、ゴツゴツとした床の上に横たわった。
っと、その拍子。カラカラと硬質な音を立てて地面を何かが転がっていく。
――ナイフだ。
金色の細かな意匠が施され、柄尻にセレガのような石が埋め込まれた、小ぶりのナイフが転がっていた。
……それを見た瞬間、なぜか既視感を覚える。
奇妙な感覚に考えてみれば、それはいつだったかセトの喉元に突きつけられていたものだった。以前暗がりで見ただけでは分からなかったが、随分と細かな意匠が施されていたらしい。
おそらくは邪神の中で、せめてもの抵抗を試みたのか。ずっと握り締めていたナイフが手から滑り落ちたのだろう。
零れ落ちたナイフから目線を戻し、横たわる人影を見下ろした。
「……むごい事を……」
……つい、そんな言葉が口を突いて出る。
身動き一つせず、力尽きたように倒れ込んでいる彼女の姿を見て。静かに瞠目した。
――薄暗く、妖しげな極彩色の灯りが支配する部屋の中。邪神の胎内から取り出された少女の姿は――全身が激しく腐乱している。
一番欠損の酷い左肩から左手の先に掛けての肉はもはや原型をとどめておらず、ぐずぐずとした皮下を晒していた。顔面も左頬の肉が痩け、滲み出た血を帯び、薄らと山吹色をした脂肪層が露出している。
……どうやら、使徒とは化していないようだ。
だが、この状態では生存は――
「――っか、はっぁ……」
無意識に生存を諦めようとしたとき、ターニャが呻くように息をする音が聞こえた。
「――っ、息があるのか!?」
慌ててターニャの元へと駈け寄ると、弱々しくターニャがヒュルヒュルという喘鳴の音を立てるのが聞こえた。展開していた雷槍の魔法陣を一時解除し、ターニャに向かって治癒魔法を放つ。
――だが、『傷』ではないからなのか。
――それとも邪神に受けた故なのか。
ターニャの体に刻まれた傷が治る様子は見られない。
だらりと伸びていた右腕の骨だけは、邪神に由来するものではないからなのか。幾分か回復したように見えた。
――そうか。『死神に魅入られた子と同じ状態かも知れない』と、ラリカが言っていたのはこういうことか……。
セトを助け出す直前にラリカが口にした事を思い出し。『ならば』と魔力の流れを見ようとターニャの全身を落ち着いて見回し……絶望する。
地面に横たわる少女の全身を巡る魔力は、先日治療した『死神に魅入られた子』とは比較にならないほど悲惨な状況だった。弱々しく巡る魔力はすでにして千々に乱れ。澱み。『正常』と呼べる流れなど存在しない。もはやこれでは決して、『人』として機能しているとは言いがたい。
――これでは、魔力の流れを整えることすら出来はしないか……
「――くろみゃー?」
私が一人、ターニャの容態を確かめ己の無力さに歯を食いしばっていると、後ろからラリカの声が聞こえた。フィディアに聞こえないようにという配慮からか、その声は小さく絞られている。
「……ラリカ」
「……ターニャ=ジニスの容態は――っ、良くありませんね……っ」
「……ああ」
そっと物陰から顔を覗かせたラリカが、ターニャの姿に視線を落とし、悲しげな表情を浮かべた。ちらりとフィディアの方に視線を向けたラリカは、彼女がセトに気を取られていることを確認すると、するりと体をこちらに滑り込ませた。
そのまま、ターニャの傍らに膝を突き、地面に横たわる彼女の体に触れる。そっと柔らかく触れたはずのラリカの指先が、まるでターニャの皮膚の下に肉が存在しないように僅かにへこんだ。
「……っく」
予想以上の彼女の容態の悪さに、ラリカの眉間に皺が寄った。
そして、はっとした表情でターニャに触れた指先をじっと見つめる。
慌てた様子で触れた右手とは逆の左手で、わざわざ自分の右側に着けている袋をまさぐり、軟膏壺と洗礼にも使っていた粉末の入った蛍石のような容器を取り出した。軟膏壺の蓋を開けると、その中に白色度の高いサンゴを砕いたような粉末を振りかける。軟膏と粉末を練り込むように混ぜ合わせると、出来上がった軟膏を両手にたっぷりと塗りつけ始めた。
両手にたっぷりと軟膏を塗り込んだ後、軟膏壺の蓋を閉めたラリカは、粉末の入った容器を元の袋へと戻した。軟膏の入った容器はまだ使うつもりなのか、袋に戻さずに地面にそのまま置いたままである。
そうして、何らかの処置を終えると、覚悟を決めるように大きく息を吐き出し、ラリカはそのまま、あまり強く押しすぎないように注意を払いながら、あちこち破けて襤褸になってしまっている服の間に手を突っ込み、彼女の事を診ていった。
「……脈はある、息も――くろみゃーっ! 魔力の流れは――」
ターニャの事を診断していたラリカが、手を止めて私の方へと視線を向けた。言いかけた彼女を制するように私は首を大きく左右に振った。
「……駄目だ。完全に、流れを失ってしまっている。――正直、この間の『死神に魅入られた子』とは比較にならん」
「……そうですか――分かりました。……魔力の量は?」
「……『まったく無いわけではない』という状況だ……」
悲しげな表情を浮かべたラリカは憂いを帯びた瞳で横たわるターニャを見つめ……軽く首を振ると何事かを決断したのか、唇を引き結び頷いた。
「……そうですか……そうですね。……少なくとも、ここで治療は出来ません。ターニャ=ジニスは、一緒に外に連れ出しましょう」
指示を出すように言いながら、ラリカは腰の袋から、いつぞや見た覚えのある筒と植物の種子を取り出した。
「……気休めではありますが」
自分を納得させるように小さな声で言いながら、取り出した筒の中身をターニャに振りかけようと――ぴたりとその手が止まった。
「……いえ、こちらが先ですね」
一旦持っていた筒を地面に置くと、一緒に取り出していた植物の種子の端を噛み破り、中身のどろっとした液体をターニャの口元へと流し込む。
そのまま、すこし様子を伺うようにターニャを見つめ、今度こそ取り出した筒を手に取り、ターニャの全身の特に腐敗の進行している所を中心に、傷口を洗い流すように筒の中身を掛けていった。
すると、ターニャの体内を流れる魔力が、少しだけ勢いを増した。変わらず『流れ』と呼んでよいかすら分からないソレだったが、僅かにその総量を増している。アリンを助けたときには気づく事が出来なかったが、どうやらラリカの行うこの処置は魔力を多少なりとも回復させる効果があるようだ。
傷口を流し終えたラリカはターニャの傷の具合を確かめると、もう一度フィディアの方を振り返った。
――どうやら、流石に私達が離れている事に気がついたらしいフィディアが、戸惑った様子でこちらの事を見つめている。
「……くろみゃー。私の荷物の中から、大きめの白布を取り出して貰えますか?」
「あ、ああ……」
「ありがとうございます。……お前は、傷には慣れていないでしょう? 辛ければ向こうを向いて構いませんよ?」
「……気にするな、慣れている」
ラリカの指示に従い、預けられている荷物の中から収納魔法で布を取り出す。
ラリカがターニャの悲惨な姿を見せる事を憚ったのか注意してくれるが、私は軽く首を振った。
――傷や傷跡程度で、今更動じる訳が無い。
「……見慣れて……?」
布を受け取ろうとしたラリカは、一瞬何故かその動きを止めた。
しかし、すぐに気を取り直したように、布を受け取りターニャの体へと巻き付けた。
「……行きましょう。くろみゃー、その軟膏を一緒に持ってきてもらえますか?」
そういってラリカはターニャをゆっくりと抱き上げると、フィディア達が待つ祭壇の方へと歩き出す。地面に置かれたままの軟膏壺を咥えて見上げると、呼吸が出来る様にという配慮だろうか? そこだけ布を巻き付けられていない頭部が、苦しげな表情を浮かべているのが見えた。
「――ターニャッ!」
ラリカの抱えている少女の姿に気がついたらしいフィディアが、慌てたようにこちらに向かって駆けてきた。
「――ター」
「待ってくださいッ! フィディア=ヴェニシエス! そのまま触れてはいけませんっ!」
ラリカの腕の中のターニャに触れようとしたフィディアを、ラリカが鋭く制した。
「くろみゃーに『シェリエ』を預けています。先にそれを塗ってから触るようにしてください」
「……っ、分かったわ……っ!」
ラリカの言葉に慌てたようにフィディアは頷くと、私の元へと近付いてくる。そして、私を前に少し困ったように足を止めて見下ろしてきた。そして、おずおずと戸惑いがちに私に向かって手を伸ばしてくる。
「……その、それを渡して貰えないかしら……?」
伸ばされた手の上に、そっと咥えていた軟膏壺を乗せると、少し驚いたようにフィディアはその壺を受け取った。そして、その場で蓋を開けると、先ほどのラリカと同じように軟膏を手に塗り込んでいく。
「……ターニャ……酷い……」
唯一見えているターニャの腐敗した顔の傷に触れながら、僅かに取り乱したフィディアが痛ましげな声を漏らした。それでも見えている範囲が頭部だけだからか、幸い激しく取り乱す訳ではない。
「……現状では、これ以上の治療が出来ません。すみませんが、地上に出てから治療しましょう。フィディア=ヴェニシエス。治療を手伝って貰えますか?」
「――ええ。勿論よ」
ラリカの問いにも、フィディアは力強く頷き、ラリカを先導するようにセトの寝かされている祭壇の方へと歩き出した。
――ああ、だが後は地上に出るだけか……
まだ、首謀者であるはずのミシェルがどこかに潜んでいるはずだが……現状、怪我人を二人も抱えている状況だ。ラリカの指輪も、神器も使い切った状況で。これ以上ここに残るのは危険という他ない。儀式を止め、『邪神』という最大級の障害が排除できた以上、後はフィックが無事に遺跡の防御機構とやらを止めてくれれば、ひとまず後の処理はフィックや他の物に任せても問題ないだろう。下手にここに残って、ミシェルに狙われるよりも早々に退避を考える事が先決だ。後はこの後ろの停止した邪神を――……
『ああ、フィックの方は大丈夫だろうか?』などという考えが脳裏をよぎり、『まあ、しかし難儀はしたものの、こちらが片付いて良かったものだ……』と思わず苦笑する。
後ろで完全に動きを止めている邪神を振り返った。
――十センチ、先。
そこに。黒い『獣の顎』があった。
いつも応援ありがとうございます。
今回ちょっとしたご報告があります。
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どれも素敵なイラストですので、ぜひともご覧下さい
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