第七十六話「眼差しの向こうに」
――丁寧に。
……幾重にも。
激しく鳴り響く雷鳴が、辺りに飛び散る破砕音さえも騒音の向こうへと置き去りにする中。細く絞り込んだ鋼縛の糸が、邪神の体表に絡みつき、粘着質のタールに纏わり付いていくかのように僅かずつ沈み込んでいくのを見つめ、繊細な操作に意識を集中させる。
『雷槍』と『鋼縛』
二つの失敗する事が出来ない魔法を扱うために、先ほどから邪神の攻撃を捌くために放つ魔法を、もっとも効果が高いと思われる『雷槍』に絞り込んでいた。
数を増やした雷槍が、休むことなく襲いかかる邪神の触手達を一度に複数本巻き込み、爆ぜ。放たれる衝撃により辺りには轟風が吹き荒れている。空気中が帯電しているのか、全身の毛並みが空気を含んだように逆立ち、時折不快な静電気がパチリと背中の辺りで弾けていく。
そんな中を、なるべくラリカの要望を叶えるため。セトとターニャに沿わせるように、邪神に触れた瞬間から操作から離れようとする鋼縛を、なんとか力押しで近づけていく。
ぴりぴりと神経の先端に触れるような不快感を覚えながら、その奥に確かに二人のか細い体躯を感じとり、ようやくほっと一息を吐きながらラリカの作っている術式の完成を待った。
……ままならんな。
雷鳴が響き続け、キンとした金属質な耳鳴りが響く中。目の前で蠢く邪神の姿をじっと見つめ直した。すでに僅かずつではあるが、ラリカの全力と神器によって与えられたダメージから回復しつつあるのか、少しずつ邪神の伸ばす触手達が数を増やしはじめていた。
――それにしても、一体……今でどれほどの時間が経ったのだろうか?
決して、邪神をラリカ達へと届かせはすまいと見開き続けた瞳が、ジンジンとした熱い痛みを放っている。
だが、それでも。そんな体の訴えや現実的な問題とは裏腹に。どこまででも。いつまででもこの戦いを続けられそうな、高揚感は続いていた。
「――出来ましたっ!」
――っと、そんな感覚を遮るように。ラリカの達成感に満ちた声が響いた。
「――っ、本当!?」
いつの間にか、ラリカのすぐ隣で固唾を呑みながら作業を見守っていたらしいフィディアが、間髪入れずにラリカの方へと身を乗り出しながら、問い掛ける。
ラリカも、気づけば作業に熱中していたのか、地面に這いつくばるようにして書き込んでいた体勢から身を起こし。フィディアに向かって大きく頷いて見せる。
「――はいっ! ――フィディア=ヴェニシエスっ……これをっ!」
ラリカが、フィディアに向かって手元の紙片を差し出した。遠目にも、その紙片には真っ黒な文字と図形。魔法陣がびっしりと書き込まれているのが見て取れる。
「――後は、私……私が、やらなくてはならないのね……っ」
フィディアは小さな紙面を埋め尽くすようびっしりと書き込まれた内容に、緊張した面持ちで小さく気後れするように呟きながら、ラリカから紙面を受け取った。
そこに込められた術式を読取ろうとしているのか、長く伸びた細い金髪を静かに左手で耳元に掻き上げながら、目を細め、じっと紙面を覗き込む。
僅かに引き攣った表情が、彼女の緊張を示し――よく見れば、紙片を持つ手も微かに震えていた。
……そんな彼女の震える手を、そっと立ち上がったラリカが、自分の小さな手で包みこむ。手元の紙片に集中していたフィディアが、驚いたように顔を上げラリカの顔を見返した。
「――大丈夫ですっ! フィディア=ヴェニシエス。私は……いいえ。『私も』信じています。ですから、ご自分を――自分を信じて下さいっ!」
――ラリカが、慈母のような笑みを浮かべ。フィディアの事をそっと見つめていた。
「~~っ、分かったわよっ! ヴェニシエスっ!」
――そんな嫌みのないラリカに、あてられたのか。僅かに顔を赤くしたフィディアが、苦し紛れな声を上げながら、もう一度手元の紙片に集中するように視線を向ける。
……いつの間にか、その手の震えは止まっていた。
それっきり、身じろぎ一つすること無く。フィディアはその場で手元の紙片に目を落とし続ける。
――十五分、いや十分ほどだろうか?
突然、フィディアが紙片から顔を上げた――かと思えば、もう一度確かめるように手元の紙片に視線を落とす。
ラリカと、私が。何事かと見つめている中。弱々しいフィディアの声が聞こえた。
「……ヴェニシエス。多分、……もう、大丈夫よ」
「……本当ですか?」
「ええ……大丈夫……、大丈夫のはずよ……」
集中しすぎたせいなのか。或いは、緊張のせいなのか。僅かに青ざめた表情で、口元を強張らせながら、フィディアが視線を上げる。
……その姿は、思わず『本当に大丈夫なのか?』と聞きたくなるような有様だ。だが、フィディアの性格を考えれば、『大丈夫』といっている以上は本当に術式を発動出来る所までは持って行ったのだろう。
フィディアが、アンチョコのように紙片を手に持ち。片手に持った杖を掲げながら、邪神に向き合った。
邪神の表面へと張り付いている鋼縛が、邪神の動きに合わせて『ギチギチ』と甲虫類が羽を打ち鳴らしているかのような気味悪い異音を上げ、小さな火花を散らしている。極彩色の異界のような空間の中で、小さな火花を身に纏い蠢く巨大な漆黒な影は、明らかに『人』が対峙する存在とは思えないほどの威圧感を放っていた。
「……それで、後は私がこの術式を、使えば良いのね?」
――それでも。
フィディアは己を鼓舞するように、もう一度確認の言葉をラリカに向かって放った。
「ええ。お願いできますか?」
「――タイミングは、どうすれば、良いかしら?」
「――いつでも」
……これまでずっと頼ってきた魔道具がないことに不安がよぎったのか。一瞬、フィディアはラリカから渡された杖を不安げに確かめたが、すぐに一つ大きく息を吸い――吐き出すと、邪神の事を……その奥に居るはずの『友』の事をじっと見つめた。
「……セト。今度は私が、貴女を助けるわ……」
小さく、呟いたフィディアが目をつぶり、杖に意識を集中させるように掲げる。
「――我が大いなる神。赤き神、猛き神ユーニラ――」
――フィディアが祈りを口にし始め、彼女の体内に存在する魔力が活気づき。炉に燃料がくべられたかのようになめからな対流を始めた。ゆっくりと、しかし……力強く。
長年、ずっと彼女は基礎を意識して魔法を使ってきたのだろう。『努力』を行ってきたのだろう。その魔法の構築に早さはなかったが、彼女の中を流れる魔力にはよどみがなく。長年の習慣の上に積み上げられたそれは、あたかも体の一部であるかのように自然に動き始めていた。
「――っく、」
――突如、邪神の動きが激しさを増した。
自分に向けて何らかの致命的な魔法が放たれる事を察したのだろうか? 先ほどまでは、自分の体の修復に集中していた様子だった邪神が、突如として今は『なりふり構わぬ』とでも言いたげに、こちらに向かって津波の如く押し寄せて来た。
先ほどまで展開していた分の雷槍では対応仕切れない状況に、なんとか展開する魔法の種類を、量を増やし。なんとしても後ろにいるフィディアやラリカの元へ、邪神を近づけないように、巨大な漆黒の波に応戦する。
「――っ、ここだけっ、乗り切れば――ッ!」
なんとしてでもこの一瞬。フィディアが魔法を発動するまでの間だけは持たせなくてはならない。その間、その時間が、逆転に繋がる。一手なのだから――ッ!
――だが、流石は『邪神』というべきだろうか、全力で――出来る限りの魔法を放っても、じりじり……じりじりっと、こちらに向かって躙り寄るようにその距離を詰め始める。
――雷槍が、氷槍が、炎槍が……ありとあらゆる呪文が、邪神の体表で弾け、そのねっとりとした暗褐色の不気味な体を弾き飛ばすが、その空いた穴を埋めるように不定型に形を変えながら、無臭の細かな職種群が群体のように保管し埋め、こちらに向かってくる。
「――ああ、その神威により焼き払われた悪徳は……、――っ!?」
――背後で、フィディアの詠唱が止まった。
「――どうし――っ!?」
目の前の存在に手一杯のなか、かろうじて視線を向けた先には、フィディアの周りの地面から無数に伸び上がる無数の触手があった……っ!
「――な、くっ……!」
フィディアの周りに居る触手を打ち払おうと、なんとか術式を組み上げようとするが、目の前の均衡を崩すわけに行かず、僅か――対応が遅れた。
――フィディアに向かって、暗く光を反射しない帯のように触手達が、奇妙に生物的な動きで押し寄せた。
「――くろみゃーは、前に集中しなさいっ!」
――涼やかな声が響いた。
邪神と、フィディアの間に躍り出たラリカが、自身の杖を持ち。手慣れた動きで、殺到する触手を打ち払う。跳ねるようにフィディアの周りを動き回りながら、重心を落とした体勢で、服の袷がズレるのも気にした様子も無く。四方から伸びる触手を、見る間に杖先で切断していく。
――と、一本の触手がラリカの杖に向かって、巻き付いた。
だが、ラリカはその触手を一瞥することさえなく、逆にその触手を巻き上げるように杖を動かすと、杖の石突きを地面に叩きつけてその反動を利用しながら遠心力で触手を引きちぎった。
ブチリという、瑞々しい音共に、引きちぎられた触手が杖をするりと抜け落ち地面で二・三度痙攣すると消滅していく。
「――フィディア=ヴェニシエスも、魔法に集中して下さいっ!」
後ろ手に持ち替えた杖で、後ろから迫り来る触手からフィディアを守るように払いのけながら、フィディアに向かって叫ぶ。
至近距離で繰り広げられる、ラリカと邪神の戦いにフィディアは表情を青ざめさせているが、それでも覚悟を決めたように再び唇を引き結び詠唱を始めた。
「い、いずれは灰に……」
【【【【【ァ、ぁ、ア、アぁア……】】】】】
フィディアの詠唱に重なるように響いた声に、全身の毛並みが総毛立った。怨讐に満ちたその声は、間違いなくこの世のものとは思えない。男のようにも、女のようにも。群衆が上げる声にも似たその声は、怨嗟という一点のみに於いて共通している。あらゆるものを憎むような。嘆き悲しみ慟哭するかのような。
そんな声が、大気を揺らし、辺りに呪詛を振りまいていく。
――不意に、邪神の表面が波打った。
「――っ、な……」
次の瞬間浮かんだのは――『貌』
無数の、性別さえも分からない。ただ、ソレが何者か或いは、何者達であろうという事だけが分かる、無数の――貌。ソレが、こちらをじっと見つめていた。
――落ちくぼんだ眼窩が生気無くこちらを見つめ。開かれた口からは――先ほどから響き渡る憎しみに満ちた無数の声が漏れ出る。
「ぅ、お、ぉぉぉおおおおおおおおっ――!」
その『声』に呑まれる事が無いように雄叫びを上げながら、それらの貌に向かって魔法を撃ち放った。ごっそりと、魔法が当たった所から、邪神の姿が崩れ。その奥から新たな貌が生まれてくる。だが、新たな貌が生まれるにつれ。じわじわと、邪神がその形を変え始めた。
まるで、何かを頂くかのように、巨大な腕を伸ばすかのように。邪神の体の一部が伸び上がり、こちらに向かって伸ばされてきたのだ。
――なんだ? ……まさかっ!?
疑問に思う内、私は自身の視界のなかで、揺れ動く一つの違和感を覚えた。そして、先ほどから引き結んでいる鋼縛の動きを確かめ、確証に至る。
――セトが……セトが、邪神の胎内を移動している――ッ。
こちらに向かって伸ばしている一筋の極太の邪神の一部の中を、まるで卵子が卵管を通るかのように、じわりじわりとセトがこちらに向かって動き始めていた。
……その先端。こちらに向かって伸ばされた先にまで、セトの姿が動き……
「――ッ、セトッ!」
詠唱中だったフィディアが、堪えきれないように叫んだ。
邪神の先端。地上から高さ十メートル近い場所から、セトがゆっくりと姿を現したのだ。肉付きの薄いセトの体が、まるで磔にされるかのように両手を後ろ手に拘束された状態で、上半身だけを突き出されている。
突き出されているセトと、邪神との間を、辺りから邪神の体中へと吸い込まれていった魔力が流れ、対流し。一個の存在として絡み合っていた。ともすれば淫猥とも取れそうな姿であったが……ただ感じる事と言えば、圧倒的なまでの『おぞましさ』であった。
先ほどのフィディアの呼びかけに、一切反応がないところを見ると、先ほど奥深く取り込まれてしまう前と同じく。……おそらく、もはや完全に意識は無い状態なのだろう。
「……っ、……今、助けるわよ……っ」
小さく、フィディアが呟き、途中で中断してしまっていた術式の構築を行っていく。動揺の中。それでも術式の構築を崩さなかったのは、おそらくは彼女の『意地』なのだろう。
「……私は、『フィディア』――ッ! すべての神っ、に。『友の助けを、願う者』……お願い……誰でも良いわ、――セトを、あの子を、助けて――ッ! ――っぁ、ミアァァアッ!!」
フィディアが、魔法を発動する。巨大な魔方陣が描き出された。巡り、巡り、循環し。無数の魔力が渦となり、流れとなり。フィディアの体の中からごっそりと流れ出た魔力が、その術式に意味を持たせていく。術式に定められた規則が法理が、世の理を変容させ。目の前でこちらに向かって伸び上がる邪神とぶつかり合う。
邪神の中を荒れ狂う魔力の濁流の中を、そっと寄り添いすくい上げるかのように。フィディアの魔力が自然に馴染みセトの元へと流れ込み――フィディアの感情を示すかのように、それまでの穏やかさが嘘のような鋭く乱暴なまでの激しさで、邪神とセトの間を巡る魔力を――断ち切ったッ!
『ぴたり』
――まるで、突如として動力を失ってしまって緊急停止したかのように。先ほどまであれほど苛烈に動いていた邪神が動きを止めた。
――どろり……
魔力を断ち切られた事で、支えを失ったのか。まるで蝋で出来た彫像が熱で溶け出すかのように、それまで形を保っていた邪神がその形を崩し始めた。
――ずるり……
磔にされていたセトの体が、まるで邪神の体から産み落とされるかのように溢れ落ちた。
「――っ、いかん」
高所から落ちていくセトの落下の衝撃を和らげようと、慌てて魔法を放とうとしたとき。視界の端を金色が駆抜けた。
「――セトォォォォォー!!」
フィディアが、セトの名前を呼びながら走り抜け。落下するセトに向かって飛び上がり――抱きしめる。そのまま、セトを抱きしめたまま受け身を取るように激しく地面を転がり、落下の勢いを殺した。
「――セトッ、セトッ、お願い、目を、目を開けて!?」
……抱きしめたセトの体を、激しく揺さぶりながらフィディアが声を掛ける。
だが、セトは目を開けず、フィディアの声に反応さえ示さない……
「セト、お願いよ……セトぉ……ぁ……っぁ、そんな……セト、……あ、ぁあ、ああ……あああああっ!!」
フィディアが微動だにしないセトの姿に。瞳に涙を浮かべ、絶望を表情に貼り付けた。
顔を伏せ、涙がセトの上に落ちるのさえ気遣う余裕も無い様子で、物言わぬセトを抱きしめ、慟哭し――
「――フィディア……?」
「――っ」
……ふいに、掠れた。しかし、美しさを感じる小さな声が聞こえた。
泣き崩れていたフィディアが、動きを止め、恐る恐る確かめるように、抱きしめている少女の事を見つめる。
「……? ……フィディア、泣いてるの……?」
「……セト……ッ、セトッ、セトッ……!」
「――んっ……ちょ、ちょっと……フィディア? その、痛いよ……っ!」
不思議そうに、フィディアの事を見つめていたセトの事を、フィディアが必死で抱きしめる。そんなフィディアに、状況がまだ上手く理解出来ていないらしいセトが、少し苦しげな息を漏らした。
――抱きしめられてたセトは、助けを求めるように苦しげに左手を伸ばし――突然フィディアの背中越しに翳し直した。
閉じていた目を見開き。驚愕も露わに何かを確かめるように、左手を左右に二度三度と振っている。だが、セトを抱きしめているフィディアは、そんなセトの仕草にも気づいていない様子だ。
「……ィア、――フィディアッ! 離してッ! ――離してフィディアッ!!」
「――え? や、嫌よ、なんで……」
突然、フィディアの腕の中でセトが、駄々をこねるように叫び声を上げながら、恐慌を来したかのように暴れ出した。突き離そうとするようにフィディアの胸元に手を添えて押すが、非力な彼女の力では、力強く抱きしめているフィディアに抗うことが出来ないらしい。
不意打ちのように『離して』と言われたフィディアの方は、状況が理解出来ずに呆然としながら、あまりに強い拒否に衝撃を受けた様子で固まってしまっている。
「――早くっ、お願い!」
鬼気迫る、今にも泣き出しそうなセトの懇願の声に、フィディアは戸惑いながらもようやく抱きしめていた手をぱっと離した。
――その瞬間、セトが彼女らしくないどこか乱暴な動きでフィディアの両肩を掴み、まるで口づけでもするかのような距離に顔を近づける。
「――な、せ、セト……!?」
「動かないでっ!」
――二秒、三秒……と、戸惑いの中、時間が流れ……
――何故か、セトがぽろぽろと大粒の涙を流し始めた。
「ちょっと、セト……ッ!? どうしたの!? どこか痛むの!?」
フィディアが、律儀に『動かないで』というセトの言葉に従いながら、両肩を掴まれたまま視線だけを動かし。慌てた様子で声を掛ける。
……だが、セトはただ無言で小刻みに首を左右に振るだけだ。変わらず、ただ無言で涙を流し続けている。
「……っ、間に合った……ぅ、ぐ、ぅ……フィディア、そんな顔、してたんだ…っ……」
やがて、言葉を詰まらせながらセトが、小さく呟いた。その声に、フィディアが表情を驚愕に変える。
――まさか……
その言葉に、先ほどから動きを止めている邪神の様子を伺いながら、二人のやり取りを気にしていた私も、『まさか』と期待を胸に抱く。
「――貴女、まさか、目が治ったの!?」
フィディアが、セトに向かって期待を込めた声で叫んだ。
――だが。返ってきたのは……
「――ううん。違う、違うの……でも、今は、もう。でも、さっき、一瞬……一瞬だけ、周りの光景が見えて……だから……っ! フィディアっ、良かった……っ!」
――『一瞬だけでも。フィディアの顔が見られて良かった』
嗚咽混じりの要領を得ない彼女の言葉は、要約するとそう言っているようだった。
どうやら、『目が見えた』というのはそれまで邪神に取り込まれていた事に寄る副産物――残滓だったのだろう。セトの話しぶりからすれば、もはやその僅かな恩恵とも言える視界も再び見えなくなっているようだ。ならば、『これを切っ掛けに』という過度な期待は禁物だろう。
だが――それでも。『フィディアの姿を見たい』と、涙していた彼女が。僅かでも――例えそれが常人からすれば、『不憫な』とさえ思えそうな微かな間であったとしても。『願い』を叶える事が出来たというのなら。今回の一件。全くの無駄ではなかったと言える。
――あとは……
「フィディア=ヴェニシエスッ! そちらの祭壇の辺りに退避しましょう! 来て下さい!」
……形を崩し、動きを止めながらも、先ほどから不気味な沈黙を保ち、変わらず存在し続けている邪神をなんとかしなくてはなるまい。
……それに、フィディアに触れさせるのは『酷』かも知れない事もある。
「――っ、ごめんなさい。そうね。セト、動ける?」
ラリカの誘導するかのような声掛けに、ようやく我に返ったらしいフィディアが、セトに向かって声を掛ける。掛けられたセトが、体を動かそうとするように力を込めるが……
「……ぅん、っ、ごめん。フィディア。実は、さっきからずっとふわふわしてて、ちょっと、立ち上がるのは……」
どうやら、やはり先ほどまで邪神に取り込まれていたためか、随所に不調が出ているようだ。先ほどまでは興奮からかなんとか意識を保っていたようだが、今にも意識を失いそうな様子でふらふらとしている。
「……そう。なら、そのまま眠っていたら良いわ。私が運んであげる」
「……ごめんね」
セトの向かって跳ねた、クセの強い髪を愛おしげに撫でながらフィディアが優しく囁くと、セトは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「――ふふ、良いわよ……っ、っと、重いわね……」
「――ごめんなさい……」
……セトの体を持ち上げようとしたフィディアが、いつか熱中症で倒れていたセトを介抱したときのように大きくふらつく。……セトが、恥ずかしげに片手で顔を覆った。
「――冗談よ。ほんとに眠ってなさい……後で、説教するんだから」
――しかし、今回はセトの自分の力で連れて行きたいらしい。僅かにふらつきながらも、なんとかフィディアはセトの体を両手で持ち上げて歩いて行く。
「……やだなぁ……フィディアの、お説教、こわい、か……ら……」
そんな、フィディアの両手の中で、セトはついに限界を迎え糸が切れたように眠りについた。
「……眠るにしても、もう少しマシな言葉があるんじゃないかしら……? ――もう……っ」
……セトの言葉に、呆れたように言いながらも、その顔には友の無事を喜ぶ、愛おしげな安堵の笑みが浮かんでいた。
今回、理不尽により被害を受けた、
友人であり読者である貴方の無事を願っています。
もし、連絡を取れる状況で、この更新をご覧になる事があれば、
Twitterからでも、メールでも、どんな形でも構いません。
ご連絡を頂ければと思います。
また、同様に被害に遭った方々の一日も早い回復をお祈りすると共に、
命を失われた方々に、心から哀悼の意を表します。







