第六十三話「揺」
「……驚かせて。ごめんね」
フィックは、静かに床にへたり込んでしまったフィディアの元へと歩み寄ると、彼女を立ち上がらせるように手を伸ばした。
――フィディアはその伸ばされた手を、あたかも恐怖の対象であるかのように……
……いや、事実、ソレは彼女にとっては恐怖の対象なのだろう。
怯え、逃れるようにその場で床を後ろに這いずった。焦ったように動かす手が床板の上を滑り、大げさな彼女の動きとは裏腹に、その身体はほとんど動きはしなかった。
「……っや……」
――しかし、瞳に滲むように涙を溜め、喉を恐怖に鳴らす声にフィックは一瞬だけ辛そうに表情を歪め、フィディアから少し距離を取った。
……身を離したときには、すでにフィックの表情に悲しみの色は無い。
「――フィー……」
そんな何かを押し込めてしまったようなフィックの行動に。先ほど一瞬だけ感じたはずの恐怖は消え――むしろある種の痛ましさを感じた私は、掛ける言葉が見つからずにただ名前を呼んだ。
……そんな私の気遣いに、フィックはただ曖昧な笑みを浮かべてみせる。
「――やー、十分信じて貰えたみたいだねー……ははっ、ごめんね。ラリカちゃんも、怖かったよね?」
「……いえ、確かに驚きはしましたが……ようやく、フィック=リスが本当に『影喰いの姫』だという事を実感しました……」
フィックから声を掛けられたことで、フィディアほどは行かずとも、どこか呆けていたようだったラリカがはっとした表情を浮かべ、応えた。普段のフィックとの付き合いの差が出たのだろうか? その声には多分に驚愕は含まれていたが、フィディアが浮かべているような恐怖はほとんど感じられない。
ラリカは気持ちを落ち着けるように一度大きく息を吸い吐き出すと、今も足下にへたり込んでしまっているフィディアに向かって視線を落とす。
――ビクッ。
ラリカに視線を向けられたフィディアが、恐怖と後ろめたさが入り交じったような複雑な表情で肩を震わせた。
「……フィック=リス……フィディア=ヴェニシエスにはこちらに残って頂いて……先ほど言っていたとおり、我々は現場に向かいましょう」
フィックの――旧くから生きる者の気配に当てられたのがまだ少し尾を引きずっているのか。ラリカが緊張から抑揚を抑えた声音で告げると、フィディアはそんなラリカの言葉にその場でさっと視線を逸らした。
「……そうだね。セトちゃんが居るなら……なおさら早く行かないといけないかな?」
窓の外を見上げたフィックが、邪神を――そして、その向こうに居るはずのセトに想いを馳せるように見つめている。
――窓の向こうでは邪神が伸ばした無数の触手が、段々とその動きを活発にしているように見えた。先ほどのフィックの話では、器の大きさの問題で侵攻がゆっくりだと言っていたが……この様子では、それも何処までの話かは分からない。
……加えて言えば、今のフィックの言葉には、器となっているセトがどうなっているのか分からないというニュアンスも含まれているように感じた。
――これは、もはや。悠長にしている猶予は無さそうだ。
――だが、しかし……その一方でどうしても私は『さあ行くぞ』と号令を掛けるのを躊躇わずにはいられなかった。
やはり、ラリカをあんな場所に連れて行って良いものか……
――しかし、そうやって考える間にもラリカとフィックは頷き合い、その場で踵を返すと階段に向かって動き出す。
「――待って……っ!」
――そんな二人を呼び止める声があった。
ラリカとフィックが足を止め後ろを振り返る。すると、フィディアがゆっくりと立ち上がる姿が見えた。
……やはり、泣き出しそうな。
恐怖で口の端を引き攣らせた表情のまま。
絞り出すようにフィディアは言葉を繋げる。
「――待って、セトが……セトが、あそこに居るんでしょう? ――なら、私もっ、私も行くわよっ!」
……必死に、遠いどこかに踏み出そうとするかのように。迷い、戸惑い、ゆっくりと。しかし、確かに立ち上がったフィディアは自分を奮い立たせるかのように、私達に向かって一歩近づいた。
「……良いのですか? フィディア=ヴェニシエス……アレは、『邪神』なのですよ……?」
「――仕方ないじゃないっ! ヴェニシエスっ! あの子が、あそこに居るかもしれないなんて言われたらっ! ――私はっ、あの子は、私の……っ」
――『私の』の続きは言葉にならなかったらしい。その表情は些かみっともない様子ではあったが……フィディアはすぐに私達に追いつくと、むしろ前に出ようとするかのようにずんずんと歩き出す。
その姿を見たラリカは、視線を揺らし。そして手元の杖をぎゅっと握り締めた。
「……フィディア=ヴェニシエスは、勇敢ですね……」
「――ラリカ?」
――小さくラリカが、肩の上に乗っている私にだけ聞こえるような小さな声で呟く。
覗き込んだラリカは、唇をきゅっと引き結び。前を行くフィディアの背中をしっかりと見つめた。
「――なんでもありません。……単に、『今度こそ後悔する訳にはいかない』という話ですよ。行きますよっ! くろみゃーっ!」
ラリカが先を行くフィディアに追いつくように歩き出し。再び視界が動き始める。
こっそりと、覗き込んだラリカの表情は、まだどこか迷っているようにも見えたが。それでも、確かに何かを決めたように見える。
――『後悔する訳にはいかない』……か。
……ならば、それが答えなのだろう。
ラリカを残すべきか、共に行くべきか。悩んでいたが、この少女は前に進む事を望むらしい。
ならば、例えここで彼女を残したとして、彼女はその選択を納得はすまい。
……むしろ、そうすることで延々と。
いずれ来るその時まで『後悔』を残すことになってしまいかねない。
そうなれば、今度こそ――せっかくの芽吹きを失うことになるだろう。
……ともすれば。それは死よりも辛い結果となるやも知れない。
「――ふぅ……」
――自らの胸の内に、かつて刺さって未だに抜けない違和感を、静かに押し隠すように、ラリカの肩の上で、小さくため息をついた。
――かつてと変わってしまったこの身体を、落ち着かせ確かめるように息を吐き出す。
――ああ。ならばやはり私も覚悟を決めるときだということだ。
……もう、大切な存在を失わないためにも。
***
――建物の外に出ると、一層『邪神』の圧倒的なスケールを実感する。
まるで山岳がそのまま動いているような巨大な触手達が、割れた夜空の下で冒涜的な舞を披露していた。
教会の中を走り抜ける間にも、発狂したような叫びがあちこちで上がっている。
……今も教会の中庭へと出る扉の影で一人。邪神の姿を直視し恐怖で腰を抜かし悶えている少女の姿が見えた。
――先ほどは情けない姿を晒したフィディアだったが……『ヴェニシエス』と呼ばれるだけの事はある。こうしてみてみると一般的な者たちに比べれば、随分と肝は据わっているらしい。
「……それでっ! どうするのよ!」
フィディアの声は、今は背後から聞こえていた。私達を先導するように外へと飛び出たフィディアだったが、そもそもの身体能力がラリカやフィックとは違ったらしい。駆け出す二人に追い抜かされ、必死で追いすがるように後ろを走っている。
――今も、どこか余裕の無さそうな姿ではあったが、気丈に私達に向かって叫び声を上げた。
「――取りあえず先ほどの話通り、あの邪神が現われた原因と思われるゴグツの遺跡に向かって、儀式を止めるしかありませんっ!」
「ゴグツの遺跡までは私が案内するからっ! ちゃーんとついてきてね!」
前を行く二人も、そんなフィディアの事を気遣いながらも、置いていかない程度の速度で夜の闇を駆抜けていく。あちこちに照明は設けられているはずだが、邪神の放つ陰鬱とした瘴気のせいか、その灯りさえ幾分か心許なく感じた。
――不意に、その暗がりを動く影があった。
「――ラリカっ! 誰か来るぞ!」
夜目の利く私がラリカの耳元で告げると、ラリカはその場でピタリと足を止め杖を構えた。その動きに気づいたフィックもすぐに体勢を整える。
「――フィディア様っ! フィディア=ヴェニシエスっ! ――ああ、良かった。ラリカ=ヴェニシエスもいらっしゃるとは!」
――暗がりから数人の男女が飛び出してきた。彼らはフィディアとラリカの名前を口々に話しているが、私には覚えが無い顔である。服装を見る限り、どうやらユルキファナミア教会の一般信徒達のようだった。
「――どうしたのですっ!」
「……いえ、あの妙な魔獣が現われどうしようかと話し合って居たところだったのです。心得のない者は、あの魔獣の気配に当てられてしまったようで……」
先だってラリカが声を掛けると、その中の一人が事情を説明する。
――どうやら、この者達は教会の中でもそれなりに腕に覚えがあるらしい。他の者たちの介抱をしながら、状況の把握に努めていたところにラリカ達の姿を見つけ、指示を仰ぐために声を掛けたようだ。
「……そう。それなら、貴方たちも――」
「いやー、ここは皆さんは出来たらここに残って貰って、教会の方々を引き続き介抱してもらうのがいいんじゃないですかー?」
フィディアの言葉を遮るように、フィックがその場にいる者たちにこの場に残るように進言した。フィディアは突然声を出したフィックに驚いたように肩を跳ね上げ、フィックの方に視線を向けた。ラリカも怪訝そうな表情をフィックに向けている。
二人の視線を受けたフィックは、そっと二人に近づき顔を寄せた。
「……この状況で、まともな人が居なくなるのは不味いよ」
「……恐慌状態になるということですか?」
「そーいうこと。だから、出来たら残って貰った方が……」
「……分かったわ」
どうやら全員の同意が取れたらしい。三人共に頷き合いながら、最終的にフィディアが代表するように信徒達に向かって指示を出す。
「……皆、聞いて。これから私達は原因の調査に、あの魔獣の元へ向かうわ。だから、皆にはこの辺り一帯を守って欲しいの。動ける者をまとめて、決して、あの魔獣の近くには近づかないように皆に厳命しておいて貰えるかしら?」
三人の中で一番位階も高く、年長でもあり、さらに言えば一番この教会で親しまれているはずのフィディアが皆に向かって伝えるのは自然な流れのように思えた。
――だが。
「――おおっ、ラリカ=ヴェニシエスが……っ!」
「フィディア様だけでなく、ラリカ=ヴェニシエスまで向かわれるのであれば……っ!」
フィディアからの指示を聞いた信徒達は皆、ラリカの方に期待と安堵の入り交じった視線を向けて居る。指示を出したフィディアは、奥歯をぎゅっと噛みしめるように唇を引き結び、指示を出すために伸ばした右手をぐっと握り締めた。
――こうして、フィディアからの指示に自然と従う姿を見る限り、決してフィディアが慕われていない訳でも、尊敬されていない訳でも無い。ただ、ラリカが今まで『英雄譚』などともてはやされてきた事が、表面的に現われた結果に過ぎない。
……とはいえ、目の前で広がる光景を前に、フィディアはどんな気持ちを抱いて居るのか。察するに余りあるのは確かだった。
「……行きましょう」
「……うん。そうだね……」
顔を僅かにうつむかせながら歩き出すフィディアを見て、フィックは気遣わしげな表情を向けた。
――ラリカはフィディアの説明を聞いた信徒達に囲まれて、激励の言葉を掛けられていて、フィディアの様子に気がつかないようだ。今も『ヴェニシエスらしい』表情で、なにか指示を出している。やがて、フィディアが歩き出したのに気がついたラリカが、慌てて話している信徒達に別れを告げて追いついた。
「――お待たせしてしまいました」
「……いいえ。行きましょう」
フィディアは変わらず、少し面を伏せたまま、僅かに悔しさの滲む声でラリカに応えるのだった。
遅くなりました。
この所トラブル対処が続いており、12/16の更新は難しい見込みです。
次回更新予定:12/23







