第五十一話「二度と呼ばれることの無い名前」
――月の海を泳いでいるかのようだった。
シャン、シャン……と静かに打ち鳴らされる、鈴の音のような響きだけがさざ波のように広がっていく。――静かに、染み渡っていく音に合わせて。二人の少女が重力から解き放たれたかのようなゆったりとした動きで、舞い踊っていた。
夕暮れに近づく空が、茜の色に辺りを染め上げ。微かに焦げ臭いような、焼き付くような独特の香りを漂わせている。
長い金色の髪を。広場を吹き抜ける夕暮れの風になびかせ、舞い踊るフィディアが。微かに緊張を滲ませ、隣で舞う少女に視線を向けた。その視線を向けられた少女は――夕焼けよりも遥かに赤い瞳を微かに細め大人びた視線を流して返すと、口元にうっすらと笑みを浮かべて見せる。
真剣な表情のラリカが――その、僅かに口元に浮かぶ大人びた笑みが。まるで、人が触れることを許されない存在が、目の前に降り立ったかのような神々しさを感じさせた。
……私は――いや。その場に居る誰もが。
そんな二人から、目を離すことが出来なかった。
先ほどまで、あれだけ賑わっていたはずの祭りが。まるで、フィックの使った魔法でも掛けられたかのように、どこか遠くに置き去りにされて。眼下に見える広場では誰一人物音一つ立てる事なく、二人の少女に視線を向けていた。
凍り付いたように永く引き延ばされた時間の中を、二人の少女が跳ね回っていく。
やがて、二人の少女が大きく跳ねながら、両手を広げた一際大仰な仕草で、ぐるりと大きく一回転した。ラリカの羽織っている、汚れひとつ無い純白の外套と首に巻いたファラスが、ラリカのほっそりとした腕に沿って風をはらんでぶわりと大きくひろがった。
一度舞い上がった裾が再び重力に引かれゆっくりと降りゆくのに合わせ、ラリカがそっとお辞儀をするように頭を垂れると、それに合わせるようにフィディアもまったく同じように頭を下げた。
……しんと静まり返った世界の中で。
……ドクッ、ドクッという音が聞こえ、自分が呼吸を忘れていたことに気がついた。
はっとして、慌てて小さく息を吸い込む。
広場を見下ろしてみると、観客達も同様だったようだ。次第に、我に返るかのように身じろぎが生まれ始めた。そして、それと同時にじわじわと熱気が――熱狂が。観客達の間に広がっていく。
「あ……」
――最初に、声を漏らしたのは誰だったのだろうか?
その、消え入るような、微かな声に導かれるように。
――辺りを割れんばかりの歓声が包みこんだ。
***
「いっやー、それにしてもラリカちゃんも、フィディア=ヴェニシエスも凄かったねー」
「そう……ですか……良かった……」
窓の木枠から身を離したフィックが、熱っぽい息を吐き出しながら椅子に腰掛けた。私も、乗っていた窓枠から室内へと飛び降りる。
――今、私達は広場に面した建物の一室に居た。
広場で舞い踊るラリカ達の正面。広場を一望出来る絶好の立地のこの部屋は、元々一般人は立ち入る事が出来ないはずの部屋だった。銃器が無いとはいえ。この世界にはそれよりも厄介な『魔法』がある。狙撃される心配は変わらない。この見晴らしの良い部屋も、要人警護の一環として差し押さえられる予定だったらしい。
しかし、一体どのような交渉があったのか、事前に話を通されていたらしい建物の下を固めていた兵士にフィックがなんらかの書面を手渡すと、兵士達は緊張した面持ちで私達をこの部屋に通したのだった。
……これもまた、随分と職権乱用な香りのする話である。
だが、そのお陰で私達はこうして人混みに紛れること無く、自分たちだけの空間で周囲の目を気にする必要もなく、快適にラリカ達の晴れ舞台が鑑賞出来た訳である。
――先ほど見た広場の混み合い方は、流石にセトには酷だろうからな……
今も、フィックと向かい合うように椅子に腰掛け、目をつぶったまま横向きに窓の向こうから聞こえる歓声に耳を澄ませながら、ぽつぽつとフィックと話しているセトを見つめる。
初めこの部屋に入ってきて椅子に腰掛けたときのセトは、どこか疲れの影が見え隠れしていた。椅子に腰掛けたときに、周りに聞こえないようにそっと息を吐き出していたのがその証左だろう。普段教会の中に籠もりきりで出歩くことも無い盲目の彼女にとって、今日一日の行動量は中々に堪える物だったはずだ。
……先ほどからしばらく座って休憩していたお陰か、今は幾分顔色も良くなり、周りを見ることが出来ない中、漏れ聞こえてくる歓声が嬉しいのか、口元を緩ませている。
椅子に座った膝の上に置かれた手先が、小さく拍手をするように動いていた。
――フィディアの晴れ舞台が成功したのが、よほど嬉しいのだな。
その姿を見ただけで、無理筋に思えた彼女の連れ出しが、決して悪い物では無かったことを実感する。数日前、切なげにフィディアの事を語った彼女が、こうしてその晴れ姿を間近で感じることが出来た。なんとも嬉しい事だ。
願わくば……彼女の瞳が、再び世界の光を捉えられる様になり、実際にその目でフィディアの素晴らしい舞を見ることが出来たなら……と、思わなくは無い。
……そういえば。
彼女の話では、瞳の治療の打診をされているという事だった。
結局結論は出さずに終わったが、どちらを選択するにしろ、彼女が後悔する道では無い事だけを祈りたい。
「――あー……ごっめんねー。セトちゃん、くろみゃーちゃん。ちょーっと野暮用が出来ちゃったみたいなんだ……すぐに戻ってくるから、ちょっとだけ待っててくれるかな?」
「はい……」
窓の外を眺めていたフィックが、突然何か思い出したかのように、少し慌てた様子で立ち上がる。ちょうど、広場では次の演目らしきものが始まっているようだった。バグパイプの様な音色が聞こえ、民族楽器が打ち鳴らされ、吹き鳴らされる音が聞こえている。
セトは、多少驚いた様ではあったが、首を小さく上下させ頷きを返した。それを見たフィックは、そそくさと扉に向かうと、ドアノブに手を掛けようとしたところで振り返る。
「あ、そーだ。くろみゃーちゃんは、セトちゃんの事、よろしくね?」
「みゃぁ!」
――無論、言われなくてもそのつもりだ。一人、祭りの中部屋に残されたことで、セトが寂しい想いをしないよう。私は床の上から跳ね上がり、セトの膝の上に飛び乗った。
「……え?」
戸惑ったようにセトが膝の上にのった私を抱き留める。
その姿を見て、ようやく納得した様子でフィックは部屋の外へと出て行った。
――パタンと小さな音と共に締め切られた部屋の中で、セトと私だけが残された。
「……やっぱり……ミルマル……? ラリカ=ヴェニシエスの……」
一人取り残されたセトが、私の背中の辺りを確かめるように手を蠢かせ、小さく消え入りそうな声で呟いた。
――そういえば、直接セトに触れるのはこれが初めてだったか?
夜に会ったときも、フィディアとの練習の間も、今日出会ってからも。
セトと話す機会はあれども、きちんと触れ合った経験は無かった。
しかし、一度実際にこうしてセトの膝の上にのり、指先が触れてみると……思っていた以上にその身体が痩せている事が感じられた。盲目故、碌な運動も出来ないのだろう。薄い布地の服を通して感じる太ももの感触も肉付きの薄さを感じさせる。
「――te,mer……」
……そんな事を考えていると、突然何かが頭上から聞こえ、思わず頭の上に載せられた手にぐるりと頭を擦りつける様にして上を向いた。見れば、目をつぶったままセトが、小さな声で鼻歌のように何かを歌っている。
――なんだ?
一瞬疑問に思うが、すぐにそれが窓の向こうで聞こえる音色と同じ物だと気がついた。
どうやら、彼女は演奏に合わせて小さな声で誰にも聞かれないように歌を口ずさんでいるらしい。
……なんだ。随分と、楽しんでいるようでは無いか。
まさか、ミルマルが人の意識を持っているとは思いもしないのだろう。一人になって緊張が解けたのか、音楽に合わせて、小さく体を揺らしながら歌う少女の姿にほっとした。
落ち着いて、その歌声に耳を澄ましてみると、普段は消え入るように話すセトの声が、予想以上に美しい。しっとりとした歌声に、民族的な異国の言葉で紡がれる歌は、僅かに情熱を含んでおり、ドッドッという打楽器の音が打ち鳴らされる度、心が高揚していくのを感じる。
――雪華……
美しい歌声に、思わず古い記憶が呼び起こされた。
……はじめてアイツに出逢った時、アイツもこんな風に歌っていたな……
思わぬ余興。意外な特技に驚きながら、束の間、かつての記憶に想いを馳せる。
……そういえば、この娘には……この娘だけには、なんの因果か『本当の名前』を教えていたな……
思い出した記憶に引きずられ、僅かな間に懐かしささえ覚える自分の名前――『ユウ』という名前を、この盲目の少女には教えていた事を思いだした。それは、ほんの思いつき。利便性を求めた結果の名乗りに過ぎなかったが、それでもやはり長年共にあった『名』を呼ばれるというのは、悪くない物だった。
もはや、一度相談を彼女から聞いた以上、『ユウ』としてこの子と会うことはもうないだろう。二度と『ユウ』が存在しなくなってしまうというのは、些か寂しい気はするが、それでも、本来なら存在しないはずの『死後』もう一度その名を誰かに呼ばれたというのは、幸福であるのだろう。
……そんな、感傷に浸りながら、切ない歌声に聞き惚れていると、外の演奏が終わるに合わせてセトがゆっくりと歌い終わった。
余韻を楽しむように――静かな沈黙が流れる。
「……昔、フィディアと……良く歌ったんです。私の歌が好きだって……言ってくれて……」
――沈黙を、セトの小さな独り言が破った。
まるで、誰かに語りかけるような言葉だったが、この場に、フィックが居ない以上。
その言葉は単なる独り言にしか――
「どうでしたか……? ――ユウさん」
しかし、そんな甘い考えは次に飛び出した言葉に遮られた。
『ユウ』――それは、もう二度と呼ばれる事がないはずの名だった。







