第四十五話「フィックと女性の影法師」
「いやー、フィディアちゃんも、ラリカちゃんも行っちゃったねー?」
「……ああ。そうだな」
ラリカとフィディアを見送った後、バランス取りを楽しむように、私を頭の上に乗せたフィックが祭り支度の活気漂う街中を歩き出した。
幸いな事に、周囲を勝手気ままに行き交う人々の雑踏のお陰で、このくらいの小声でなら会話をすることが出来た。
周りを見回してみれば、気の早い露店はすでに客引きを始めているようだ。近くの露店で麻のような大袋を積み上げていた禿頭の店主が、フィックの姿を『後で来てくれよっ!』と叫びながら見て人懐っこい笑みを浮かべている。
――セトは、もう少し時間が経ってから迎えに行くことになるらしい。
まずは、フィックの『用事』を済ませるのが優先という訳だ。
……てっきり、二人が去ればすぐに用件を話し出すかと思っていたが、先ほどからなかなかフィックは用件を切り出さなかった。どうやらフィックはアイスブレーキング代わりにしばらく雑談がてらに話をするつもりらしい。
他愛の無い話をしながら、あっちへふわふわ、こっちへふわふわと、定まらない足取りで露店の間を揺れ動いている。
――こうして、同じように肩や頭の上に乗せられて動くだけでも、それぞれの個性が垣間見えるのが、面白い。
「――どなの? ラリカちゃん、 確かフィディアちゃんと一緒に二人で練習してたんだよね? ちゃんとやれそうなのかな?」
「ああ。初日はどうなるものかと思ったが、ラリカだからな……却ってフィディアの劣等感を刺激してしまったようだ」
「あー、やっぱりかー。ラリカちゃんホント優秀だからねー」
腹の毛皮の下で、フィックが苦笑を浮かべて笑う振動が伝わってきた。
「……やーっぱり、ラリカちゃんのこと、心配だよねー」
「まあな……体質というか、才能というのか、色々と難儀な事を持ってくる主人だからな――」
「そっか……まあ、くろみゃーちゃん自身も、私から見ると心配なんだけどなー」
何気ない風情を装って告げられたフィックの言葉は、言外に意味が含まれているように感じた。
――どうやら、そろそろ少しずつ今日私を呼び出した本題に話を持って行くつもりらしい。
「……そうなのか?」
少し言葉を切って、覚悟を決めてからフィックに続きを促した。
「――うん。そうだね……ねえ? くろみゃーちゃん。――その目、ファナちゃんの目かも知れないって話……覚えてるかな?」
「――無論だ。……そうそう忘れたくても忘れられる事ではあるまい」
「うんやっぱり……そうだよね……」
曖昧な相づちを打ながら、フィックは無数に引かれた水路の一つにかかる、小さな橋の下で歩みを止めた。
――随分静かなところもあったのだな……
周りを見回してみても、人影一つ見当たらない。確かにこれなら、密談をするならもってこいの環境だろう。
きょろきょろと周りを見回していると、フィックがそっと頭の上で両手を私の体に沿えてきた。
思わず、『何をするつもりか』とその手を振り払いかけるが、添えられた手はあくまで優しく。そこに悪意がふくまれていない事を感じ取った私は、その手を甘んじて受け入れた。
体の両側から添えられた手が、私の体を柔らかく持ち上げて、フィックが自分と視線を合わせるように向かい合う。
……珍しく真剣な瞳は私の事を見つめていた。
――赤い瞳が、どこか思い詰めてみえる。
「――実は、今日はくろみゃーちゃんにお願いしたいことがあるんだ」
……『お願い』だと……?
フィックの性格から考えて、悪意がある話ではないだろう。
だが、雪華の瞳を持っているからこそ頼まれる『お願い』なぞ、何が頼まれるのか想像もつかない。
「……なんだ?」
フィックの出方をうかがうために、なるべく低い声で先を促した。
「……あはは、うん。ごめんね。別に誰かを傷つけるような話じゃ無いから安心して。ただ――その瞳で『視て』欲しいものがあるんだ」
警戒を滲ませる私に苦笑するようにフィックは笑うと、笑みをどこか疲れたようなものにして目を細めた。
「『見てほしいもの』……だと?」
「うん……ううん。正確には……見て欲しい、『人』……なのかな……?」
そういうフィックは、困ったように眉間に皺を寄せて眉尻を下げている。辛そうな表情は、『無理に何かさせよう』というのは無く、むしろ私に縋ろうとしているようにも見えた。
――なにか、明確な理由がある訳ではない。
ただ、その姿を見て確信できた。
決してフィックの申し出は、私達になにか害意や悪意故のものでは無い。むしろ、フィックの言葉から漂ってくるのは、助けを求めるような……そして『誰かを助けたい』とでも言うような純粋な気持ちだ。
……なるほど、ひょっとすると例の『死神に魅入られた子』のように、私の瞳の力で誰かを助けたい――そういう事なのかも知れない。
――ならば、不本意ながら世話になってしまっている彼女からの依頼だ。嫌がる理由もない。
むしろ、自分の力で少しでも借りを返す事が出来るのであれば、望むところの話であった。
「……人? 良く分からないのだが、協力出来ることならさせて貰いたいが?」
「そっか……ありがとう。くろみゃーちゃん……私からの御礼は……」
「御礼なぞ気にするな……それで、その『人』とやらは何処にいる?」
……むしろ、それこそこれを機会に返しておきたい借りは十分にある。
――しかし、フィックが自分から『御礼』などというのは、なんとなく意外だ。
珍しく殊勝な様子のフィックに思わず笑いながら、『人』とやらを探して周りを見回してみた。
その人物は、未だ現われて居ないのか、それともこれからどこかに迎えに行くのか。
周囲には人影一つ見当たらない。
「うん……ちょっと待ってね。……ちょーっと怖いかも知れないけど、驚かないでくれたら――嬉しいなっ!」
フィックが、意味ありげな前置きをしながら私を地面に降ろし、少し距離を取った。
「――行くよ。見てて……」
――そう、フィックが言った瞬間、フィックの周りで『ぞわり』と動くものがあった。
――なにがっ!?
考えてもすぐには原因が分からない。
だが、確かにざわざわと自分の本能が警鐘を鳴らしている。
――かつて、獣の集団に襲われたとき、命のやり取りをしたとき……いわゆる『修羅場』と呼ばれる場所に身を置いたとき、それはいつも身にしみて感じた。
――恐怖。違和。圧迫。
のっぺりと纏わり付くそれに似た感触が、全身を覆っていく。
……記憶の奥底が刺激されたようにチリチリと痛み、急かされるように奇妙な焦燥感に段々と呼吸が速くなり、汗が垂れ落ちてくるのを感じた。
「――っ」
――その感覚に襲われた瞬間に、咄嗟に私は隣に向かって手を伸ばしかける。
……しかし、今の私に動かすべき左腕は無く、ただ固い路地に着いた前足が少し横にずれただけだった。
肉球の裏に伝わるざらりとした地面の感触に視線を落とし……
――浮かんだのは苦笑だった。
――ああ、そうだった。
……そうだそうだ……まったく……そうか。
――そういえば、いつも難事に立ち向かう時は……いつも『そう』だったな……
僅かに地面を掠っただけの前足を見ながら。自分の無意味なな行動に。
そして、咄嗟にそんな行動を取った理由に思い至り、さざ波が引いていくように焦りが収束していくのを感じた。
今ここに居るのは私だけだ。ラリカも――誰も。
守らなくてはならない存在が居る訳でもない。
……一体、何を思い悩むことがあるのか。
――第一、目の前に居るのは先ほど『悪意は無い』と判断したフィックでは無いか。
ならば、フィックの願い通り、『驚かない』でいるのが礼儀というものだ。
「……ふぅ」
余裕が出てきた思考で、一つ、息を吐き出すと一度目をつぶり、瞳の力を起動する。
うっすらと開いていく視界の中、金色の粒子が舞い踊り、風に乗るように揺らめきはじめる。
人の見える世界とは違う――私の世界が……『雪華の見ていた世界』が広がっていく――
「――っ」
視界が、フィックを捉えた瞬間、目に映った光景に思わず動揺を浮かべかけた。
――だが、すんでのところで、フィックの悲しげな顔を思い出し、浮かびかかった驚愕を押し殺す。
……金色の視界――しかし、そこに広がっていたのは――
「――影……?」
フィックの隣に寄り添うように、人型をした真っ黒な影が立っていた。
――術式の存在は見えない。
ただ、のっぺりとした黒い影法師が、初めからそこに『在った』かのように佇んでいる。
「――ねえ、くろみゃーちゃん。……この子が、どんな表情を浮かべているか……見えるかな?」
……気づけば、不安な表情を浮かべたフィックが、必死に震えを押し殺した声を発していた。
――表情……?
私の目に見えるのは、立体感の無いただ真っ黒な平面だけだ。人影の形でかろうじて女性だと分かるだけで……顔は真っ黒に落ちくぼんでいて表情など到底うかがい知ることなど出来そうも無かった。
「……済まない。私に見えるのは、黒い影だけだ……『女性だろう』ということ位しかわからない……」
「――っ……」
恐らく、フィックの期待に添えなかっただろう事を悟りながら、見たままを答えるとフィックは一瞬だけ辛そうに顔を歪ませ、一度だけ息を詰まらせるように嗚咽をあげた。
しかし、すぐに泣きそうな瞳のまま笑顔を浮かべた。
「……そっか。……やーやー……、ごっめんねー! 変な事聞いちゃって、べーつに大した事じゃ無いんだけどねー。ファナちゃんの目だったら、ひょーっとして見えちゃったりしないかなーって思ったんだよー。だから、大丈夫っ! ――大丈夫だよっ!」
明らかに無理をして、いつもの調子で振る舞って見せるフィックに、なんと声を掛けて良いのか分からず、黙り込んでいるとフィックは影法師に向かい合うように私に背中を向けた。
「ごめんごめん。突然呼んじゃって、戻ってて大丈夫だよー」
後ろを振り返った彼女が、どんな表情を浮かべているのかは分からない。
ただ――明るく聞こえる声が妙に痛々しかった。
言葉を受けた影が、フィックの影に溶け込むようにその姿を消えていく。
「やーやー、くろみゃーちゃんもごっめんねー」
完全に影が姿を消すと、深呼吸するようにフィックの背中が大きく上下し、くるりとフィックがこちらを向いた。
――その表情は、表面的にはいつもの表情と変わりが無いように見える。
「……すまなかった」
「そんな謝らないでよっ、べーっつに、ほんとーに見れたら良いなーって期待してただけなんだから。変なお願いで、ごめんね?」
――詳しく事情を聞くべきだろうか?
私などが相談に乗れる内容なのかは分からない。
しかし、その明らかに動揺した様子を見るに、吐き出したい事の一つや二つはあるだろう。
期待に応える事が出来なかった罪滅ぼしを兼ねて、そう切り出すべきか悩むが、いつもと変わらない表情を貼り付けているフィックを見て考え直した。
……きっと、こんな風に、『誤魔化す』ということは触れられたくない事なのだろう。
――フィックは、私よりもよほど永い時間を生きている。
ならば、困難や『辛い出来事』との向き合い方も、私などよりよほど心得ていることだろう。
だから、彼女の方から語りたいと思うまでは深くは聞かないことにした。
「……もし、また何かあれば、聞こう」
「……っ、――っやー、くろみゃーちゃん、いい男だねー」
「ふっ……ミルマルだがな……」
それは、戯けた誤魔化しだ。そんな事はきっと、お互いに理解している。
ただ、それを踏まえた上で、一つの区切りとして巫山戯た会話を投げ合った。
静まりかえった橋の下で、笑う声が反響して聞こえている。
「――あ、そーだ」
――ふと、思い立ったように。
フィックが私に向かって悪戯をもくろむような表情を浮かべて声を掛けた。
「今度は一体どうした?」
思わず、その表情につられて苦笑を浮かべながら聞くと、フィックはつかつかと近づき、私の事を再び抱き上げる。フィックが両手を胸の前で交差させるように組み合わせ、その間にすっぽりと収まった――私の背中に顔を埋めるようにフィックが顔を近づける。
「ふふーん。くろみゃーちゃん、つっかまえたよ―」
「……いや、『捕まえた』と言われてもな……」
――そもそも、逃げる気すら元々無かったものを、『捕まえた』などと言われても首を傾げざる終えない。
毛並みに顔を埋めたままのフィックに向かって疑問混じりに反駁すると、フィックが再び口を動かす気配がした。
「――くろみゃーちゃんに、いーこと教えたげる」
急に耳元で囁かれた口調とは裏腹な真剣な声音に驚いてフィックの顔を見つめると、にへへーといつも通りの気楽な笑みが浮かんで見えた。だが、やはり、瞳だけは真剣に私の事を試すように見つめている。
「……どういう意味だ」
「――今の、ちょーっとした御礼」
「礼などいらんと言ったが……」
「いやー遠慮なんてするもんじゃないよー? せーっかくの『二人だけで』話せる機会なんだからさー?」
『二人だけ』という所を妙に強調するフィックは、意味ありげに周囲を見回した。
周囲には相変わらず人影はなく、確かに言う通り私達以外には誰も存在しなかった。
誰一人道行く人さえ……
「……なっ」
その事に気がついた瞬間、ぞっと背中の毛が逆立っていく。
――おかしい。なぜだ。なぜ……誰も居ない!?
確かに、人気の無い場所にいつの間にか連れ込まれていた事には驚愕した。
――だが、それにしても……先ほどまであれほど聞こえたはずの『雑踏』さえ聞こえないのはおかしかった。
……何らかの魔法が使われているのか!?
そうして、注視したとき――なにか得体の知れない術式が、周囲の空間を取り巻くように巡っていることにようやく気がついた。巧妙に隠されたその術式は、『なにかある』と意識しなくては気がつかないほどだった。
「……うん。気がついた? くろみゃーちゃん。世界にはね。こういう魔法もあるんだよ?」







