20、解脱ネコと脱獄ウサギからみる逃避の哲学
クロードニャンコスキー先生は不快感を示した。
講義の後に質問に来た学生が、「古代より伝わる解脱という考え方が、まるでエスケイプウサギオデッセイの逃避と同じだ」と言い放ったからだ。
――どうしてそのように考えたのですか。
その抑揚のすくない声に、男子学生は明らかな怒りを感じ取り、何も返せなかった。
その時から学生の苦悩がはじまった。
高校時代は、優しい女性の先生のもとで、やわらかい見守りばかりだった。
マンチカン大学に進学したのは、クロードニャンコスキー氏の講演をきき、女性の担任教諭とともに、その懇親会に参加したことが切掛けだった。
研究機関という場所の果てしない厳しさは覚悟していたものの、なぜ怒りを抱かせてしまったのか理解できないことと、それを先生からすぐに説明してもらえないことに、大きなストレスをおぼえた。
オールウェイズ猫耳娘というサークルの先輩たちに相談してみた。
「それは期待されているってことだ。なんで怒られたか、しっかり考えてみな」と突き放された。
「まだ深く考えなくてもいいよ。だって、ほとんど同じじゃんね」と浅くなぐさめられたこともあった。
孤独を感じた。
学問をやめてしまおうと思った。
それこそ、不快な課題から逃避を決めてしまおうと思った。
「だって、エスケイプウサギオデッセイは、果てしない逃避を行う思想だ。
古代の解脱だって、「無」になることを目指す考え方だ。この世界の苦しみから完全に自由になり、自分自身と世界とを無関係化させることなんだから、逃げているみたいなものだ。
ほら、同じようなものじゃないか。
それなのに、なぜ先生はあんなに怒ったのだろうか。
同じ思想だとすることができれば、解脱とエスケイプウサギオデッセイとを、古代を代表する哲学としてひとまとめにできて、他派の哲学体系に対抗させることができるはずなのに……。
逃避的思考を当時の思想潮流だとすることができれば、まだ誰も説いていないことだから、研究成果にもなる。
新たな価値づけができるのに、なぜ先生は……。
だいたいにして、本当に同じじゃないか。
エスケイプウサギオデッセイも解脱も、現状を超越して真なる目覚めを終着点にすることに変わりはなく、そこに逃避という手段が共通する。ほら、やっぱり同じだ。
なのに、本当に、なぜ先生は、あんなに厳しい雰囲気をぶつけてきたんだ。
ああ、もしかして、信仰上の理由なんじゃないか。先生が信じているのはギャラクシー猫信仰だ。それもユニヴァース猫信仰に最接近した、自由な猫信仰だ。
だったらニャンコスキー先生のもつ解脱のイメージは、猫的なもののはずだ。
つまり、解脱ネコということになる。いや、うーん。だから何だっていうんだ。先生がそんな浅ましい考え方をするはずはないじゃないか。ああ、なぜ、先生はあんな風に……」
学生は、輪廻のように同じ場所をめぐり続ける後ろ向きな思考を展開させながら、サークルが借りている小部屋に足を踏み入れた。
窓際のロッカー上に飾られていた猫のキーホルダーを手に取った。そして同じ場所に置かれていた兎のキーホルダーも掴み、二匹を机の上まで持っていった。
しばらく眺めてみても、猫と兎に大した違いが見いだせず、また頭を抱えた。
気分転換に立ち上がり、窓の外を見てみると、向かいの小学校の校庭で、子供たちが遊んでいる光景が目に飛び込んできた。
鬼ごっこをしているようだ。
逃げる上級生を、下級生がずっと捕まえられずにいる。
心の中で応援したが、下級生はついに立ち止まってしまった。
その様子が、ニャンコスキー先生の背中を追って影も踏めない自分の境遇に重なるように思えて、一つ、大きなため息を吐いた。
「鬼ごっこか」
懐かしい遊びを見ているうちに自分も遊びたくなった学生は、ためしに脳内で鬼ごっこをさせてみることにした。
自分が鬼になり、目の前にある猫のキーホルダーと、ウサギのキーホルダーを手に取ろうとした。
捕獲しに来る自分の手をみて、猫とウサギはそれぞれどのように反応するだろうか。
想像の中の猫は、猫はその場でかわし続けた。想像の中のウサギは机の上から逃げ去っていった。
脱獄せずに回避を続ける猫。脱獄して二度と姿を見せないウサギ。
そのうえで、両者ともに古代の解脱とは違い、完全に消え去ることはなく、逃げた先でも回避と脱獄を繰り返している……。
そこで学生は気付いた。
「もしかして、全然違うのでは?
解脱ネコの解脱は、カワイイを認めることだ。それを猫的な解脱としている。襲い来る大きな手さえもカワイイとみなしてしまう。
ギャラクシー猫信仰で解脱を言う場合、解脱したすべての猫は、カワイイ宇宙と一体になるから、無意識的な回避は続けてもその場から逃げ出したりしない。だとしたら、古代の人々が言うところの解脱とは、むしろ全く異なるじゃないか。
もちろん古代の解脱といっても一様ではないけれど、主な考え方としては、世界との関係を消し去る運動だと言われてきた。
だったら逆に、古代の解脱を支持する視点に立つ場合、逃げまくるウサギの姿はどう観測できるだろうか?
完全な未来から不完全な過去を見下ろし、この世界から逃げ切ろうと足掻く無知蒙昧に見えるのではないだろうか。
ギャラクシー猫信仰の視点から脱獄するウサギをとらえてみてはどうだろう?
ギャラクシー猫信仰における解脱ネコ的な解脱とは、宇宙のカワイさと融合する運動になる。
ギャラクシー猫信仰は、脱獄を続けるウサギさえも一部として取り込んでいく。観測できない場所に逃げようとしても、宇宙を包括するカワイイ猫の目から逃れることはどうやっても困難だ。
ウサギが、どんなに鮮やかな脱獄を果たしても、単なる逃避に見えてしまう。
そして、単なる逃避の連続は、繰り返される輪廻転生そのものに見える。
輪廻……。生まれかわり……。
もしかして、脱獄を繰り返すエスケイプウサギっていうのは、この問題に関わっているんじゃないか。
輪廻は古代の思想では苦しみの連続だった。ギャラクシー猫信仰においては輪廻もカワイイの連続とされ肯定的にとらえられることから、こうした脈絡を見失ってしまっていたかもしれない」
学生は自分なりに整理を行い、次の講義の後に、先生に疑問を届けた。
先生は、深いうなずきを見せてから、静かに語りだした。
――あなたが気付いた通り、エスケイプウサギオデッセイは、オデッセイである以上、繰り返しという矮小な運動ではありません。世界を別の角度から再構築し続ける運動なのです。
学生は目を見開いてうなずいた。
――あなたはロールプレイングゲームをクリアしたことがありますか?
「あります。ああ、確かにエスケイプウサギオデッセイに似ていますね。なるほど、先生が言いたいのは、ラスボスを倒すことが冒険の終わりということですか?」
――違います。
「あれっ?」
――エスケイプウサギオデッセイは、レベルを上げて新たな敵に挑むことを繰り返し、最終的にゲームをクリアするようなものではないのです。それだけでは繰り返しから逃げ切ることにはなりません」
「では、どうすれば逃げ切れるのですか?」
「誰かが用意した道筋をたどるのではなく、積極的にそこから外れ、それでいて俯瞰して終わるのではなく、無限に跳躍し、無限に世界を増殖させながら越境を果たし続けるものなのです。逃げ切るのではなく、逃げる場所を創造する。だからこそ、果てのない創作活動こそが、エスケイプウサギオデッセイの真価なのです」
「ああ、そうだったんですね」
――それでも、私としては、現在のエスケイプウサギオデッセイのままでは、最終的には猫化することになると考えます。
「えっ……つまり、ギャラクシー猫信仰の一部に過ぎないことに変わりはないと……。なぜですか?」
――エスケイプウサギが宇宙のかわいさから逃れることができない理由は単純です。終着点が必ずあるからです。それが設定されている時点で脱獄は有限の運動になり、ギャラクシー猫の視線に捕まってしまうのです。
「いつかどこかに終着点があるという考え方からも抜け出さなければ、ギャラクシー猫信仰からの脱獄は成功しえないんですね」
――そうです。有限の脱獄ではなく、無限の脱獄を続けるのです。爆発的で無方向で無秩序に見える構造は、自由の無限生成が行われる基盤なのです。そうあってこそ、エスケイプウサギオデッセイは、ギャラクシー猫の胎内から抜け出ることができます。
「しかし先生、無限の脱獄は、われわれが世界にとらわれ続けることを意味するのではありませんか。また、世界から新世界への脱獄を繰り返すことは、繰り返すうちにやがて作業になってしまうことも考えられませんか?」
――答えを見つけることではなく、次の疑問を探し出すことを常に目的としてください。
「それは、どういう……」
――たとえば、カワイイ世界を疑うことです。カワイイとは何かを再観測し続けることです。カワイイ世界を再生産し続けることです。
「ああ、先生、ようやくわかった気がします。逃避の哲学にもグラデーションがあり、簡単に同一の流れに合流させて考えてはいけないんですね。それは世界を停止させてしまう、カワイくない活動なんですね!」
――そうです。油断すると私たちは、ちょっとカワイイ小宇宙に満足して、その内側で死者を愛でるように安住してしまいます。ですが、エスケイプウサギの行く末は、常に世界の内側ではなく、果てしない外なのです。これは非常に困難な道ですが、あなたは耐えられる者でもあり、乗り越えられる者でもあると思います。
「だといいのですが……」
――新たなエスケイプウサギオデッセイが目指すべきものは、「何もない」終着点ではありません。「捕まることがない」という運動です。どうか逃げ続けてください。
「逃避の哲学を解説いただき、ありがとうございます。これからも、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げ続けてまいります」




