百五十話
興奮がおさまらない様子の避難民の青年を、一人の自衛官が身体を張って宥めていた。
側には他の避難民も何人かおり、青年のように騒いでいるものは少ないが、それでもどよめきが生まれている。
デパートの面々はと言うとカエデに危害が及ばないよう周囲を守るようにしていた。
その様子は、はたから見るとまるで双方が対立しているかのようだった。
「アザミ、さん……」
ユキに守られるように肩を抱かれたカエデが、長袖のシャツの左袖をくしゃりと右手で掴んで、そう小さく声を出した。
カエデは、デパートでは皆が事情を知っていたからそれほど注意こそしていなかったが、それでも本人にしてみれば少々傷跡は気になるらしく、いつも長袖を着用していることが多かった。
年頃の女の子だ、肌に残った目立つ傷跡にいい感情など抱かないだろう。
ともあれそんな彼女は、駐屯地では勿論、避難民からの目を考慮して常に長袖を着用していた。
当然、作業中うっかり腕まくりをする、だなんて愚は犯さないだろう。
しかし事情はどうあれ、この避難民の青年に腕の傷跡を見られたのは確かに事実のようだった。
自衛官は青年への対応を続けながらも、俺へちらりと視線を送る。
こんな状況になってしまい慌てているのが見て取れて、また同時に助けを求めているかのようにも見えた。
ここにいるということは彼は避難民と共に作業をしていたということであり、駐屯地外での作業に携わっていない、つまりはまだ経験の浅い自衛官なのだろう。
若々しい顔つきが、それを物語っていた。
……さて、どうしたものか。
そもそも真新しい傷跡でもないのに避難民の青年がこうなっているのがまずもって不可解なのだが、それは置いておいて。
嘘を並べ立てることはできるが、興奮した様子の青年がそれで納得するのかどうか。
そんなことを僅かばかりの時間考えていると、聞き覚えのある声がした。
「何事ですか?!」
声の主は、駆け寄ってきていた那須川さんだった。
また、彼の後方から白衣を着た、眼鏡をかけた長身の女性がゆっくりとこちらへ歩みを進めてきているのが見えた。
「この子の腕に噛み跡があったんだ!大丈夫なのかよ!」
青年の言葉に、那須川さんはカエデを見て周囲の状況を察し、一瞬苦い顔を浮かべる。
その表情は、面倒なことになったと今俺が感じている以上に、むしろまるで失態を犯したかのようにも感じられた。
それを表すかのように、青年の言葉に那須川さんはすぐに返事が出来なかった。
「ふぅん……」
代わりに、と言えばいいのか。
青年への返事は、聞き慣れない女性の声が返された。
それは、歳の頃は30には満たないだろうか、直線的に切り揃えられたボブカットが印象的な、先程那須川さんの後ろをついてきていた白衣の女性のものだった。
彼女は一度眼鏡のブリッジを指で軽く触れてから、青年の肩に優しく手を置いて、耳元で囁くように穏やかな声で言葉を放つ。
「ねえお兄さん、そんな興奮しないで、ちょっと声を抑えてね。それで、ちゃんと見たのかしら?」
「あ、ああ……それに、そんなの今見ればわかることだろ!」
「……まあ、そうね」
そう言うと彼女はカエデの方に視線を送り、品定めをするかのようにその全身を見た。
視線に気付いたユキがカエデの姿を背後に隠すと、女性は不敵な笑みを浮かべてから、続けて周囲の人の顔色を窺った。
「ま、いっか……えーっと、取り敢えず。お兄さん以外にも、ここにいる人達は、このことを他の人に喋ったりしないでくれるかしら」
「っ……なんでだよ?」
「あと、口答えもしないで貰える?文句があるならこの駐屯地から出て行ってもらうわ」
「は?!」
唐突な女性の宣言に、避難民の間からどよめきが生まれた。
それは自衛官達にとっても同じだったらしく、那須川さんがすぐに声を上げる。
「萩さん、なんの権限が……」
「黙って」
「っ……」
「……と言うことで、避難民の方々は今のことを了承していただけますか?お約束できないようであれば拘束後に外に放り出しますが」
先ほどとは打って変わった女性の強い口調に、避難民達のどよめきは収まり一瞬しんとなった空気がその場を覆った。
「そ、そんなこと、本当にするつもりなのかよ」
「しないように見えますか?」
冷たく放たれた女性の返事に、青年は言葉を詰まらせた。
青年と同じく他の避難民も同様に、それに声を上げたものはいなかった。
そのしゃんとした佇まいと、何より自衛官である那須川さんがその一言で口を閉ざしてしまったことから、大方女性には本当にそれを行う意思、行える権限があるのだと感じたのだろう。
「では、お約束いただけますね。くれぐれも、このことは内密にお願いしますね」
女性は満面の笑みを浮かべながらも、有無を言わさぬ語調でそう述べてから、最後には、その笑顔を俺に向けるのだった。
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「アザミさん。すみません……」
女性と那須川さんの後ろをついていきながら、カエデが消え入りそうな声で俺へと何度目かの謝罪をした。
先ほど聞いたこの事態の原因は、どうやらカエデにも落ち度があったようだった。
何があったかと言えば、作業中に単に派手にすっ転んだというだけの話。
その際わずかに袖がずれて、ほんの少しだけ、傷跡の端が見えてしまったのだろうとカエデは言っていた。
あの青年は前々からカエデにちょくちょく絡んでいたらしい。
とは言っても話を聞く限りは、それはおそらくは下心故のちょっかいのようなもので、単に好みの女の子がいたからよく話しかけていた、程度のものなのだろう。
ともあれそんな青年はその場にたまたま居合わせ、それをめざとく見てしまった。
そして断りもなく彼女の袖を捲り上げ、しっかりと傷跡を確認してあのような事態になったのだという。
「急に態度が豹変して、どうしていいか分からなくなってしまって……」
「ああ、別にもういい。何も心配するな」
そう言って不安そうな顔を覗かせる彼女の頭に手を置く。
すっ転ぶことなど誰にだってあるし、今回はそれがたまたま悪い方向に行ってしまっただけだ。
正直青年の一連の行動、特に勝手に女性の服の袖をまくるなんてのは目に余るが、しかし傷跡に過敏になる気持ちが全く理解できない訳ではないし、またおそらくは、彼は自衛隊の作業を手伝っていたのだから根は悪くはないんだろうとも思う。
今回のことは、単に不運が重なってしまっただけ。
それについてどうこう言うつもりはなかった。
単に問題なのは、これから先どうするか、と言うこと。
「着いたわよ。散らかってるけど、気にしないでね」
そして、前を歩いていたこの長身の女性のこと。
この駐屯地に来てから初めて見る顔だ。
さっき軽くお互いの名前は言ったが、少なくとも避難民ではなく、また自衛官でもないように思える。
なのに今自衛隊本部としているこの建物を歩み、その一室に俺たちを招き入れようとしている。
部屋のドアが開くなり、薬品の匂いが仄かに香った。




